冷静になろう、俺。
いつもなら晴れた日は、BIGスクーターを運転して大学まで通学しているのだが、止められない考え事の数々を思うと、とてもじゃないが無事に大学まで辿り着ける自信がなかった。
少し早めに家を出ることにしたのだが、テキパキと仕事している由梨子さんを見るたびに、後ろ髪を思いっきり引っ張られている。
これほど物事に優先順位をつけるのが難しい状況に陥ったことは、23年の短い人生ではあるが自分史上初じゃないだろうか?
食後、いつもなら自室に戻るのだが、由梨子さんが丁寧に観葉植物の葉を拭いて手入れをするところを、ソファーの上で体育座りのままクッションを抱えて見つめる。
いつも青々として埃一つ付着しておらず、綺麗で元気な観葉植物がそこにあるのが当たり前だった。
そんな、昨日までの自分を殴っやりたい衝動に駆られる。
そして、由梨子さんを見つめることを止められない自分が痛い。
なんで自宅で由梨子さんのストーカーみたいなことやってんだ…俺。
これでは由梨子さんが仕事しづらいんじゃないか!
クッションに顔を埋めて、自己嫌悪していると由梨子さんが話しかけてきた。
「佑都さん、そろそろお家を出ないと遅刻しますよ?今日はスクーターじゃないんですよね?」
「う、うん…そろそろ出ないと…ですね…。」
年下に見えてしまう由梨子さんの容姿に、思わず敬語を忘れてしまいそうになる。
今でさえ感情制御プログラムがバグってるのに、その上、言語プログラムまでバグったら、俺本体も深刻なエラー発生により由梨子さんの目の前で自爆の上、人生的にもアウトだと思う。
クッションをソファーに置いて立ち上がると、先程までバルコニーのある大窓の近くで仕事をしていた由梨子さんが、俺の目の前に立っていた。
「ちょっとだけ失礼しますね?」
「え?」
由梨子さんの細い指が俺の前髪をかき上げ、額に触れる。
ひんやりとそれでいてしっとり柔らかい由梨子さんの手が、俺の額に触れている事実に動揺して動けない。
(うわ…気持ちいい…由梨子さんの手…。)
黒目がちな瞳が、心配そうに俺の目を見つめてる。
「…熱は無いみたいですね。具合が悪いとか無いですか?」
「だ、大丈夫です。ちょっと寝不足なだけですから…。」
その言葉を聞いて困ったように由梨子さんは微笑む。
「佑都さんこそ、無理はダメですよ?」
「はい…すみません。」
由梨子さんの手が俺の額から離れるのを見つめる。
とても名残惜しい。
気が付くと、また由梨子さんを見つめてしまっていた。
「きょ、今日は…会社に寄らずに帰って来ますので、夕食の準備をお願いします。」
「何か食べたいものはありますか?」
「何でもいいです。由梨子さんの手料理は何でも美味しいですから…。」
そう言い終わってから、あっと俺の口から声が漏れた。
季節感のことを少し思案して、おずおずと由梨子さんにメニューの希望を伝え直す。
「出来れば…久しぶりに由梨子さんのグラタンが食べたいです。今を逃すと秋までお預けになりそうですから。」
その言葉に、由梨子さんはクスッと笑った。
「じゃあ、佑都さんが大好きな大きな海老をイッパイ入れて作りますね!」
確かに海老グラタンは大好物だが、何となくその言葉で、由梨子さんから子供扱いされていることに気が付く。
今まで俺が由梨子さんを女性として見ていなかった様に、由梨子さんもきっと俺を男性として見ていない。
雇い主とはいえ、9歳年下の大学生だ。
母性フィルターがかかっていることを考えると、弟扱いが妥当かも知れない。
そう考えたら、まだ芽生えたばかりの感情が成長する勢いを失う。
現状維持を目指すならそれでいいと思うのに、男として見て貰えてないことに気持ちが沈む。
ただ、少し冷静になれた。
鞄を持って玄関に向かい、いつもより眩しい由梨子さんの笑顔に見送られて家を出た。
バスで大学に着いて少し時間があったので、カフェテリアに顔を出す。
ランチの時間も終わりに近く、そこまで人も多くないから席も空いていた。
「おぅ!社長!」
大きな声に振り向くと、同じゼミの桐谷 龍太が、大盛カレーの乗ったトレーを片手にガッシリと肩を組んで来た。
「お前の声、うるせ…」
「なんだよ~、単位はほぼ取り尽くしたんだろう?なんで今日はいるんだよ?」
俺の頭に容赦なく頬擦りしてくる桐谷を見てると、まるで大型犬になつかれているように錯覚する。
「出席日数の確保だよ。単位は取れてても最近、佑都はあまり大学に来てなかったからね。」
前から珈琲を持って優雅に歩いてきた幼馴染みの水嶋 光が、俺の代わりに答える。
「佑都、久しぶりだね。」
「あぁ、光もな。暫く海外だったんだっけ?」
「うん、後でお土産渡すね。」
「社長も水嶋も、俺には挨拶ナシ?」
「ゴメン、ゴメン、龍太くんも久しぶりだね。」
「桐谷は俺が打ち合わせで使ってるカフェでバイトしてるから、そこそこ会ってるだろう?体育会系なのにバリスタ。」
高校まで水泳の選手だったらしい桐谷は、俺よりも身長が高い。
190㎝とか言ってた気がする。
軽く逆立てた長めのスポーツ刈りを片手で撫で付けながら桐谷がニッと笑う。
「これからも御贔屓に!」
桐谷の大声に光が困ったように笑った。
好奇に満ちた周りの視線がちょっと痛い。
「…とりあえず座らない?僕達かなり目立つし。」
「…だな。」
窓際でも目立たない席に移動して、何故か3人で座った。
「桐谷、次の授業はお前が助手なんじゃないの?準備は?」
「もう終わらせてある。飯を後回しにして作業してたからさ。」
そう言うと桐谷は勢い良くカレーを食べ始めた。
大きな声のせいで大雑把で粗暴に見えるが、桐谷は意外と責任感のある男である。
繊細な作業の多いゼミの中でも、体育会系体質は浮いて見えるものの、しっかりと仕事をするので一番信頼されている。
ぶっちゃけ、スポーツ系の大学と間違えてウチの大学に入ってきた様にしか最初は見えなかったが…。
「水嶋は?」
「僕は愛しの佑都に会いに来ただけだよ~。」
隣に座る俺を軽くハグしながら光は言った。
いつもの光のおふざけに慣れている筈の桐谷が、何故か青ざめた顔で固まる。
「それなら俺の家に来ればいいだろう?」
「一応、1時限目の授業もあったんで来たんだよ。さっき言ったお土産も渡したかったし、今日は佑都、大学に来るって言ってたし、丁度良いかなぁ~って。」
ほわんと微笑む光は、イングランド人の祖母を持つクォーターで、自他共に認める美人であり、性別を一瞬では男として断言しづらい中性タイプである。
幼い頃から光の母さんの趣味もあって、サラサラなストレートロングヘアなのもあるが…。
元々色素が薄い光だが、本人の趣味もあって今は髪の毛をプラチナブロンドに染めているから、尚のこと性別が判別しづらくなっているような気もする。
まぁ、日本人離れした顔立ちの光には、今の髪色はしっくり合っている。
浮世離れした雰囲気を持っている上に、少々不思議な言動が多い。
俺は3歳からの付き合いだし、慣れているけど。
高校生の頃からモデルとして仕事しており、最近有名ブランドのイメージモデルに抜擢されて一気に注目を浴びて多忙を極めているハズなのだが、人間行動学を専攻する光は、大学を休学することなく出来る範囲で通っている。
「前から気になったんだけどさぁ…水嶋って松原が好きなのか?」
桐谷が震えた声で、絞り出すように訊ねてきた。
「ん?好きだよ?幼馴染みだし。」
「…恋愛な意味では?」
桐谷の言葉に、俺は間が悪く口に含んだ珈琲を吹いた。
「はぁ!?ぐっ、ぐふぉっ!な、何!?」
しかし、光は慌てず急がず、プラチナブロンドの長い毛先をクルクル指に巻き付けながら考え込んでいる。
「うーん、どうだろうね…試したことないけど…多分違うんじゃないかなぁ…?」
斜め上の光の回答に、ドン引きしたのは言うまでもない。
俺は出来る限りの後ずさりをして光から離れた。
「た、試したこと無いって、お前!?」
「ん?だって、恋愛な意味でってことは、相手を見て興奮するかどうか、そして相手に触れたいと思うか思わないかってことなんじゃないの?例えば…抱きしめたいとか、キスしたいとか?同性も異性も関係なく。」
一瞬、由梨子さんの顔が過り考え込みそうになったが、今は考えるべきではないと頭を振り、目の前の話しに集中する。
「確かにそうだけど…俺の前で真面目に悩まないでくれよ!幼馴染みのとして複雑だし、身の危険を感じるわ!」
「そう言えば佑都のことをそんな風に考えたことなかったなぁ~って思って。良い機会だし、ちょっと考えてみたまでだよ?」
ジト目で睨んで見るものの、光には悪びれた雰囲気が全くない。
なんか泣きそうになる…。
でも、大事な幼馴染みの性的な対象にされなくて良かった…。
「つーか、桐谷はなんでそう思ったわけ?」
「実は…ウチの姉が腐女子でさぁ…昨日散々お前らのことを聞かれたんだよ。」
「は?」
「今をときめく美人系男性モデルと注目のイケメン大学生社長が幼馴染みで、二人とも恋人もいないのはおかしい!って…」
「つまり…僕と佑都が恋人なんじゃないか?って言われたの?で、龍太くんはそれをおバカさんにも真に受けて信じちゃったんだねぇ…。」
いつも通りほわんとしているが、光の言葉にちょっと毒がある気がするのは俺だけか?
「ゴメン!だって、お前らの飯やらアイスやらシェアするのも平気だし、水嶋は水嶋で平然と松原に「好き」とか…さっきみたいに「愛しの佑都」とか言うし…。」
確かに、昔から外食に出掛けると食べたいものがなかなか選べない癖がある俺と光は、良く食事を半分ずつ食べて分けることが多い。
無論、お互い食べ残したものを食べるのは抵抗があるので、最初からきっちり半分にしてから食べる。
周りには驚かれるが、食べたいものをどちらも食べられるし効率が良いので、お互い特に気にしていない。
しかし、見る人が見ると妖しいとなるものなのか…。
まぁ…光の不思議な言動が慣れてない奴ならドギマギしても仕方ないと頷けなくはないが、俺の光への対応を見ても相思相愛にみえるかと言えば違う気がする。
「…それだけで俺らが妖しいって早合点するか!」
「そうだね。龍太くん、お姉さんに毒され過ぎだと思うよ?」
「ゴメン!二度と言いません!」
「当たり前だ!」
「僕はともかく、佑都はそんなことでやっと出来た好きな人に振られたくないと思うから、もうやめてあげてね?」
ん…?
光、今…なんと言った??
俺はまだ光に由梨子さんのことを話していない。
驚いた顔で光を見ると、いつも通り…いや…ちょっとカラカイを含んで口を右手で抑えながら微笑んでいる。
「ひ、光??」
「そろそろ講義の時間でしょ?今度じっくりどんな子なのか話し聞かせてね。楽しみにしてるから♪」
今一つ光の言葉の意味が読めない桐谷と硬直したままの俺をおいて、光は鼻歌を歌いながら去っていった。
無論、出遅れたものの光を追いかけたのは言うまでもない。