番外編・来る者拒まず去るもの追わず ⑥
しとしと降り続ける雨が、日々俺を追い詰めていくようだった。
紫陽花の青が、緑が、雨に濡れてより一層輝きを増してくる。その色が俺を打ちのめすのだ。
美沙子は・・・。
――美沙子は青系の色がよく似合っていたな、と。
季節はずれの風邪も俺を蝕んだ。
が、仕事をしていれば一時、全ての霧が晴れてくるようで歯を食いしばった。そして言い聞かせた。
これは天罰。俺への。
俺自身への報いなのだと・・・。
「で。医者は何だって?」
「風邪でした。肺炎ではないです」
「そうか」
俺の部屋を訪れた石渡さんがキッチンへ立ち、病人である俺へ気遣いの言葉を掛けてくる。
見境なく働いた俺は案の定、編集部で崩れた。
意識はあった。何とか立ってもいられた。
が、腕をとられたかと思うと、怒号とともに病院に行くよう命じられてしまった。
「何も食ってないんだろ。どうせ」
温かな湯気と香り。久しく感じていなかったその感覚に僅かだが俺の食欲が顔を覗かせる。
石渡さん特製のおかゆ、なのだそうだ。そこには貴子さんのお手製梅干しもついていて・・・。
その温かさが沁みた。体が。心が。
「・・・・ありがとうございます。貴子さんの梅干し美味いんですよね」
「貴子が怒ってた。前にも増してな。いつも逃げやがってって。今度こそ家に来いよ」
「はい・・」
「ご馳走作るんだって笑ってるんだから、体調万全にしろよな」
俺は優しさを受けられるような人間なんだろうか。
こんなになっても救いの手を伸ばされるような、そんな価値ある人間なんだろうか。
美沙子の前に出て行っても恥ずかしくない人間なんだろうか・・・。
「――っ」
鼻の奥がツンとする。
いや。耐えろ。
俺はここで泣く資格なんかない―・・・。
「・・・・認めろ」
「え?」
「お前は美沙ちゃんを忘れられない」
喉を通る飯が熱くてむせそうになる。
何かを誤魔化すように喉がゴクリと音を立てた。
「それ認めないと、いつまでたっても同じことの繰り返しだぞ」
「・・・・」
「言い寄ってくる女の言いなりで、真剣にその人の事、見ようともしない。で、最後は面倒くさい。そんな事繰り返してていいと思ってんの?」
「・・・・・・・・」
「期待ばっかり膨らませて、挙句体だけの関係ってか?」
力の入らなくなった手からスプーンが落ちた。
俺より先にそれを拾った石渡さんがシンクに置くと、別のスプーンを持って「ん」と俺に渡してきた。
「別にいいよ。お前がいいなら。それにお前は禁欲的な生活してる方が仕事に悪影響だからな。だから前から多少は目つぶってきたんだ」
「・・・・・・・・」
スプーンを握る手に力が入った。
込み上げてくるのは焼けそうな程の滾った熱、怒り。
いずれにしても、それは自分自身に対して向けられたものだ。
「美沙ちゃんを忘れられないでいるって事を自覚しろってんだ」
胸の前で腕を組み、俺から視線を逸らすその人は明らかにまだ文句があると言わんばかりだった。
当然だろう。
真っ直ぐに生きているこの人から見れば、俺の生き様なんか拳が飛んできても仕方がない筈だ。
「認めたくなくて・・・・」
「何をだ?」
「自分が弱くてみっともないって事を」
「・・・・・そういうのを弱いって言うんじゃない事ぐらい、お前だって分かってんじゃないのか?」
そうだ。
美沙子を本気で愛していた事が、みっともないなどと思っているわけじゃない。
全力で愛した人を忘れることが、この上なく疲弊する事が悪いわけじゃないことも―・・・。
「本気で好きだったって事だろ?簡単に忘れられる程、好きだったわけじゃないだろ?」
「・・・・・何も感じたくなくて」
「考えろ。感じろ。それがお前の務めだ。もう逃げるな。美沙ちゃんだって、こんな風になったお前を見たくないだろうし。そもそも別れた意味を考えろ」
いつだって俺を支えてくれた美沙子に甘え、目の前の大事な人を忘れていた。
そう。つまり、俺が未熟だったからだ。
こんな未熟な自分がみっともなくて認めたくなかったのだ・・・。
(・・・・・っ)
「・・・・それ、食べ終わったの。俺洗うよ」
「あ、いえ。後で自分で洗いますよ」
「2・3日寝てろよ、ゆっくり。洗い物ぐらい俺がやっとくから気にするな」
「何から何まですみません・・・」
いいよ、そう呟く石渡さんの声を聞きながら、ぼんやりしてくる意識の中で決心した。
――もう止めよう、こんな生き方。みっともなくても、それでいいじゃないか・・・。
美沙子の前で胸を張れる日が来るまで。泥水を飲む様に、はいつくばって、泥まみれになって。
それでも俺は、この道を歩いて行くしかないんだ、と・・・。
◆◆◆
「あ。すみませぇん・・・」
「いえ。・・・・大丈夫ですか?」
「え?」
あれから一ヶ月。すっかり体調も万全になった俺の快気祝いも兼ねて、久々にモネへとやって来たのだが、俺の声にぼんやりしながら、ぶつかった詫びを入れてくるこの女性が何だか不憫で、自然とそう口にしていた。
「里美先輩!しっかりしてください」
「大丈夫だよ~。もう衣里はいつも心配性だな~」
俺の心配をよそに、ふらつく女性の腕をしっかりと掴んできた女性。
一瞬、ほんの数秒か。何故だか時が止まったような気がした。
「すみません。お怪我はありませんか?」
「・・・いえ、大丈夫ですよ」
「ご迷惑をお掛けいたしました」
この落ち着いた空間には程遠い程のあどけない雰囲気。しかも、まだ少女のような出で立ちだ。
何故だか分からない。
ひどく俺を引きつけた。
「どうした?」
「――え?」
「何かあったんか?あの女の子、頭下げてたろ」
「ああ。ちょっとぶつかっただけですよ。何でもないです」
椅子に腰掛けるなり早速声を掛けてくるのは、俺への心配なのだろう。
色んな意味で。
「お客様、申し訳ありません。そこの者が大変失礼致しました」
「ああ、全然大丈夫ですよ。って、マスターの知り合いで?」
「ええ、そうなんです。重ね重ね申し訳ありません。お詫びにお二方の飲んでるその一杯、こちらで持ちますので」
思わぬ提案に面食らう。
そんな大した不満を持ったわけでもないのに、そこまでしてもらっていいのか・・・?
「じゃあ、お言葉に甘えて。かえって悪いな」
「いえ。また是非、当店にお越し下さいね」
まごつく俺を尻目に事を勝手に進める二人を口を開けて眺めるだけ。
あ・・・、そう発するのがやっとだった。
「マスター。そんな悪いですよ」
「いいえ。またご来店お待ちしてますので」
俺の言い分を受け付けない完璧な笑顔を向けられると、そのまま軽やかに去ってしまう。
さすがだな。客に全く不愉快な思いをさせないその態度・物言い。
「せっかくだから飲めよ」
「はぁ。じゃ・・・」
以前にも飲んだ、気分が明るくなってくるワイン。
このセレクトをするあたり、俺への快気祝いのつもりでいるこの人は心底良い人なのだと思う。
本当に―・・・・。
「俺、がむしゃらに仕事して結果残します」
「何だ、いきなり・・・・」
ワインが喉を通ったからなのか、それともこの人の心遣いに心底感謝しているからなのか。
そんな言葉が自然と口から零れていた。
「今までの事は反省して、仕事頑張ります。もう前みたいな俺にはなりませんから安心して下さい」
「極端だなぁ。色々あるから分かる事もあるだろ?」
「このままダラダラ行くのはよくない気がします。だから今は仕事に打ち込みます」
確固たる決意だ。極端に見えようが、これが俺なりのケジメだ。
「・・・・・お前がいいならいいけどさ。でもあんまり追い込むと大事なもの見失うぞ?」
「もう別に失うものなんかないですよ」
「そういうのはな、失って初めて気が付くことがほとんどなんだよ」
「・・・・・」
「反省は大いに結構だけどな。極端に走れってことではないんだぞ。・・・まぁ、意外にそういうガムシャラな時にフっと何かが落ちてくる事もあるかもしれねぇしな。人生は分かんねぇもんだよ」
「そうですか?」
「ああ」
(そんな事あるわけないだろ・・・)
今までの俺の生き様からしたら、罰以外の何が落ちてくるっていうんだ。
と、明るい笑い声が耳に入った。
(さっきの女性、か・・・)
困ったように、でもそれでいて輝くような笑顔。
それこそまるで子供のように無邪気に笑ってる。
(これから楽しい未来が待ってるんだろうなぁ。素晴らしい出会いも・・・)
瞬間、胸の奥で何かが音を立てて落ちてくる。
静かに、川面を広がる。破門状に。ゆっくりと・・・。
(・・・・・・)
人生が変わる程の出会いなんて俺にはもう来ない。当然だ。それが俺への天罰だ。
瞬間、グラスの中の透明な液体が濁って見える気がした。
「中林、知ってるか?」
「何ですか?」
「大いに反省して努力した人間には相応の幸せが待ってるんだ」
「――は?」
「まぁ当然だが逃げないって事を意味してるんだけどな」
「はぁ・・・」
「幸せになることから逃げるなよ?」
「・・・・何言ってるんですか?」
「別に。おっさんの単なる説教。幸せは自分の努力次第だって事だよ。幸せになれない理由を逃げにしてたら楽だからな。しかも、それに慣れると癖になるんだ。だから自分は幸せになる資格がないだなんて思うのは単なる逃げだって話」
「っ」
相変わらず・・・、ぽつり苦々しく呟いた。俺の声は、静かだがゆっくり流れるBGMに掻き消された。
いや。
恐らくこの人は聞こえないフリをしたんだろう。
「ありがとうございます・・・」
BGMに掻き消された俺の言葉も、美味いワインと心地良い空間に溶けて消えていく。
心地いい。そう。今あるこの空間が何故だか俺を良い気分にさせていく。
素晴らしい人と、素晴らしい空間に囲まれて。
その言葉を何より欲していたのは誰だったのか。
俺はゆっくり、ゆっくりと噛み締めていた。




