エピローグ 「シナジー」
雨上がりの空気は、凛とした中にも絶妙な潤いを与えていて、肌に当たる陽の温かさも加わると、これ以上ない程に満たされてくる。
心も、体も。
思わず笑みが零れてしまう。まるで私達を祝しているかのようで。
雨音を心配しながら眠りに落ちた事が可笑しくなってくる程・・・。
「雨、どうなるかと思ったけど、上がってくれて助かったわ」
「そうだね」
「でも、本当に白無垢で良かったわけ?後でドレスにしたかったとか言っても知らないわよ」
とは言え、てっぺんから足の爪先までマジマジ見入る親友の顔だって満面の笑みだ。
「楓こそ白無垢にしたかったんじゃないの?凄く羨ましそうに見てるし」
「アンタ、言うようになったわね」
途端、耐え切れないようにお互い軽く吹き出す。
まるで体の奥底から溢れる幸せが抑え切れないように。
「それにしても。和哉さんの袴姿楽しみだなぁ」
「・・・・何で楓が楽しみにしてるのよ」
「もう衣里の白無垢見飽きたし」
「大丈夫。和哉さんなら何着ても似合うから、きっと凄く格好いいと思う」
誇らしく、嬉しさを堪え切れない様に親友に視線を送ると、呆れるような、それでいて感心するような、そんな複雑さを表す溜息が聞こえてきた。
いい加減にしろ、と言わんばかりの目で訴えてくる顔は、私以上に笑顔に満ちていて・・・。
「まったく手に負えない花嫁だわね。しかもいつも以上にテンション高いじゃない。ゆうべはちゃんと寝たの?どうせ興奮して寝てないんでしょ?」
「ちゃんと寝たよ。和哉さん傍にいたし」
「ハイハイ・・・」
もはや、私の話などに関心を持ってないようで。
ううん。そうじゃない。
お互い、どうしようもないむず痒さを誤魔化したいだけなのだ。
「・・・そういえば。まだ新居決まらないんでしょ?」
「うん。週末は和哉さんの部屋にいる事が普通っていうか」
「式が終わったら、ちゃんとした方がいいよ」
――まぁ、確かにその通りなのだけれど・・・。
彼の部屋が居心地良いのは事実なわけで。それに自分の部屋と彼の部屋と行き来するのが普通、というか。
(あ・・・)
伏し目がちに自分の手元に視線を落とした瞬間、ゆうべの彼の言葉・瞳が蘇る。
そう。
これからの事、私達の事、二人で話し合ったではないか・・・。
◆◆◆
静かに落ちてくる雨音に耳を澄ました。
彼の部屋で聞くこの音は、一体何度目なのだろうか。
――思えば、初めて彼を受け入れたあの日も雨だった・・・。
あの時の雨は優しくて。そう、一生忘れないと思ったほど。
「・・・眠れない?」
窓ガラスを伝う雨粒を追いかけていると、優しい声を掛けられた。
「ううん。目が覚めちゃっただけ」
「やっぱり降ってきたな」
「うん・・・・」
明日は挙式だというのに、何故こうも無慈悲に雨が降るのか。
雨は優しい、などと感慨に耽っていた私はおめでたいだけなのだろうか。
「心配?」
「・・・うん。やっぱり晴れてた方がいいもんね」
「そうじゃなくて」
「え?」
薄暗い部屋。感じるのは雨音と、彼の姿。
いつのまにか隣にやって来ては繋がる手。優しい声とともに温もりさえ伝ってくる。
「これからの事が心配なんでしょ?夕方、お義母さんと電話で話してる時に何か言われてたでしょ?」
「・・・・相変わらず鋭いなぁ」
「ふ。そりゃあ、ね。衣里の事、愛してるから」
きっと、いつものあの意地悪な笑顔、なんだろう。
いつも通り。
そう、それが私が一番安心する言葉なのに。
これが一番心を震わせるのに―・・。
「衣里・・・?」
「私、器用じゃないから同時進行出来る事に限界あって・・・。でも、だからって全部適当にしたくなくて。だから融通が利かないとか言われるの」
「・・・・・・・」
彼の優しい瞳も温もりも、今は全てが流れ落ちて行く。砂を掴むようなあやふやな焦燥感だけが襲ってくる。
――彼が傍にいるのに、私だけをしっかり見てくれているのに・・・。
「新居の事とか、仕事の事とか、また言われちゃって。何で全部同時進行じゃないと駄目なのかな。別居するって言ってるわけじゃないのに・・・」
「きっと、そういう事じゃないんだと思うよ」
「え?」
ゆっくりと顔を上げれば、彼の輪郭が薄ぼんやりと見えてくる。
勘違いでなければ小さく笑っている気がした・・・。
「家族だからね。衣里の事が心配なんだよ。衣里はそういう人達の事を表面上だけでなくて、先の事も含めて心配するから、あれもこれもって悩むんだよ」
「・・・・・・・」
「そういうの決して悪い事じゃないよ。衣里は例え出来ないって分かってても、それでも何とかしようと、いつも考えてるんじゃない?」
(――・・・・)
雨音が優しく響いてくる。
奥の奥の、もっと奥が洗われたような、仄暗さに一筋の光が差し込んだような、見えない道が開いた気がした。
「でもね、衣里は一番大事な事忘れてる」
「え?」
「俺だよ。これからは隣に俺がいつもいるんだって事、忘れてる。衣里の問題は俺の問題でもある。逆も然り。つまり二人の問題になるって事なんだよ」
「あ・・・・」
隣に彼がいる。永遠に。
――そうだった・・・。
私は何故、一番肝心な事をつい忘れてしまうのか。
「衣里さ、相乗効果って言葉知ってる?」
「え、あ、えっと・・。確か、二つのものがより互いを高める、とかだったような・・」
「そう」
私の答えに満足したのか、彼は嬉しそうに微笑んで同意する。
その笑顔が乾いた部分を潤してくれたようでくすぐったかった。
「俺、衣里と会った頃、何でここまで色んなことに真剣に取り組めるのか不思議だったんだ。適当に流せるのに流さないでさ。勿論、周りの人間は衣里の事をきっと融通が利かないとか、真面目過ぎるとかいうんだろうけど、違うね」
「・・・・・・・」
「物事から逃げないんだよ。だから俺も逃げずに向き合おうって思えたんだ」
私の顔を満足気に微笑みながら眺めてくる彼の顔は、確信に満ちた顔で。
薄暗い中でも分かった。反論なんかさせないよ、そう言っている気がした。
「・・・・和哉さんだからだよ」
「え?」
「私、誰にでもそうじゃないよ。本当に大切だと思ってる人にしか、深く関わろうと思わないよ」
「そっか・・・」
「和哉さんを好きだから、愛してるから。一生いたいって思うから」
足が、手が、勝手に動いて、自分の事以上に、でも同じように自分も大切だと思わせてくれる、そんな人の胸に飛び込んでいた。
「和哉さんの事、大好き。でもね、何より凄いって思えたのは、自分の事も好きになれたの。和哉さんといると、自分の事も大事だって思えるの」
「・・・・・そういう言葉で言ってくれるところ、俺は何より嬉しいって思うよ。だから衣里の事、大切にしようって思うし、俺も衣里に相応しい人間であろうって思えるんだ。心の底からね」
「私もだよ。和哉さんに相応しい人間でありたいって思ってる!」
負けじと顔を上げた彼と視線がぶつかる。
その瞬間、何とも言えない空気に覆われた気がして、互いに吹き出した。
「・・・ふ。つまり、こういう事だろうね」
「え?」
「お互いがお互いを高めるっていうの。俺が言えば、衣里が言う。私も俺もってやつ・・・」
「あ・・・」
確かに。彼の言う通りだ。
これが彼が切り出した゛相乗効果″なのだろうか・・・。
「いいよ。衣里はこのままで」
「え?」
「ちゃんと考えて悩んで、納得いく結論が出るまできちんと考えていいんだよ」
ただし・・、その言葉とともに私の鼻をくすぐる感覚と温かい感覚に思わず身構えた。
「いつも隣に俺がいるんだって忘れない事。いいね?」
鼻を軽くつままれると、すぐ目の前ににっこり笑う彼がいた。
「はい・・・」
「よし。じゃあ、明日に備えて寝よう」
和哉さん・・・、そう口に出したのは体で支えられないほどの溢れる思いの為か、それとも自然な事なのか。
「こ、これからも宜しくお願いします」
「え」
「これからの人生も宜しくお願いします」
気が付けば、そう発していて。
言わずにはいられなかった。
「・・・・俺こそ。宜しくお願いします」
軽く微笑む彼の姿は頼もしくて。
ううん。
そう思える心が、自分が、とても誇らしかった。
◆◆◆
「衣里。準備は出来た?そろそろ時間よ」
彼が隣にいる。愛する人が。一生を添い遂げたい相手がすぐ隣で微笑んでいる。
その想いを噛み締めていると、彼が小さく呟いてきた。
「緊張しなくても大丈夫だよ」
「違うの。幸せを噛み締めてたの」
あなたと共に歩む未来は、きっと色々な事が待ち受けているのだろう。
でも。
あなたとなら乗り越えていける。あなただから。和哉さんとだから―・・・。
俺もだよ、そう小さく呟いて微笑むあなたが一生幸せでありますように。私と共に歩むことで幸せだと感じ続けてくれますように。
どうか、触れた掌の温かさを通して伝わりますように。
この澄み切った青空の下、誰もが幸福だと感じてくれていますように―・・・・。




