chapter25
「へぇー、尚之君って文学部なんだ」
「そうなの。古典、というか古文が好きで」
「ああ。だから竹取物語・・・」
梅雨の晴れ間。乾いたアスファルトを歩くのは久しぶりだ。
しかも、彼とこれからの事を話し合う以外で外出するのはもっと久しぶりだった。
式の事、新居の事、想像していた以上に二人で話し合う事が膨大で、しかも母からの横やりが酷く頭を抱えていると、彼から気分転換に行こうと提案をされたのだ。
――こうやって落ち着いた気持ちで並んで歩くのは本当に久しぶりだ・・・。
「・・・私、日本史が好きで。尚之が小さい頃、絵本でそういうのばっかり読ませてたらいつのまにか」
「そうなんだ」
石渡さんお薦めだという店で夕食を摂った後、彼に引っ張られるようにやって来たのは見覚えある懐かしい道。
「・・・・あ。和哉さん、もしかして、モネに行こうとしてる?」
「そう。随分と久しぶりだったでしょ?」
二人揃って店に行くのは確かに久しぶりだ。
――いや、恋人同士としてモネへ行くのは初めてかもしれない。
「衣里は最近、いつモネに行った?」
「そういえば、年が明けて一度行ったきりだ・・・」
「俺は今年初めてだよ」
思えば彼と出逢えたのも、その結果、永遠を誓い合えたのも、モネのお陰なのだ。
「・・・つき合ってから行くのは初めてだから緊張するね」
「ふ。大丈夫だよ。マスターは察してくれるから」
可笑しそうにそう笑う彼の横顔が嬉しくて、照れ隠しのように、そして彼への返事のような、歯がゆい思いを伝えるように思わず彼の手を繋いでしまう。
「そういえば。ここだけの内緒にしてくれる?」
「ん?何なに?」
「マスターね、今、おつき合いしてる人と一緒に暮らしてるんだって」
「へぇ。そうなんだ」
そう。
あの時、いつもと違うマスターの姿を引き出させたあの女性。あの時の女性と一緒に暮らしているのだ。
――これからの事は焦らないから、共に生きて欲しい・・・。
そう、彼女の方から伝えたんだとか。
「でも良かったよ。マスターって、何ていうか生活感ないでしょ?本当プロっていうかさ。だから、そういう話があるんだって知れて良かったよ」
「・・・・確かに生活感ないね」
「でも密かに女性ファン多かったらしいから、知ったら泣く人多そうだなぁ」
「あ、それ先輩も同じ事言ってた」
里美先輩からの報告メールで、これで何人の女性ファンが泣くんだろうか、と面白可笑しく書かれたものが送られてきた。
とは言うものの、誰よりも心配し、誰よりも祝福していたのも里美先輩なのだ。
「知ってる人の幸せ報告って良いものだよ」
「・・・・・・」
「ん?」
「ううん。本当そうだね」
本当、その通りだ。
彼と出逢うまでは、幸せという言葉を実感する日なんて想像も出来なかった。
今なら自分もだけれど、何より周りの人達の幸せも自分の事のように実感出来る。
彼と出逢えたからこそだ・・・。
◆◆◆
「お二方、お久しぶりですね」
「ご無沙汰しちゃってすみません」
「いいえ。それだけ幸せって事でしょ?何よりです」
やっぱり照れる。
何もかも察した、お見通しのような笑顔。嬉しいけれど、それ以上に恥ずかしくなってくる。
「それよりも。婚約されたそうでおめでとうございます」
「ありがとうございます」
「里美が本当に喜んでまして。松本さんからのメールの報告の後、すぐこちらに電話が来たんですよ。こちらは寝てるというのに」
「何だかお騒がせしちゃってすみません・・」
「何を仰る!とても喜ばしい事じゃないですか」
隣にいる彼に視線を運ばせると、ゆっくり微笑まれた。
不思議だ。
前回、ここで彼と並んだ時は視線を合わす事すら勇気のいる事だったのに・・・。
「何より、この店がキッカケで出逢われたわけですし、これ程に嬉しい事はありませんから」
「・・・・でも、マスターとしては娘が嫁ぐ気分じゃないですか?」
「ははは、そうですね。松本さんは学生時代から来店されてますから。嬉しい反面、少し寂しいのも本当です」
顔が綻ぶ。
でも、どういう言葉を返せば妥当なのか考えつかなくて、困った気持ちで俯いた。
「衣里、そんな昔からモネに来てたんだ?」
「あ、うん。オープンの時から来てたから・・・」
「そうなんだ」
そう呟くと、彼は頬杖をつき始める。
何か考えて、いや、何かを思っているような横顔―・・・。
「じゃあ、どっかですれ違ってたりしたかもね。衣里が絡まれてたあの時よりも前に」
そう言葉にする彼の瞳は、どこか自信に満ちていて、その言葉自体も確信に満ちた声で。
あの日、彼に助けられたあの日、何故だか彼から目が離せなくて、今思えば不思議な体験だった。
「私・・・。あの日、お店に入ってくる和哉さん見て不思議な気分になったの」
「え?」
「いつもだったら、そんな事感じないのに。だから何だか不思議で」
「・・・・・・」
「・・・・和哉さん?」
また、何かを思うようなそんな顔。
顎に手を寄せる、その動作さえ無意識にそうしているみたいで・・・。
「俺も、さ。衣里を見た時、何だかさそわそわしたんだ。今思うと、何でか説明出来ないんだけど」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
どれぐらいそうしていたんだろうか・・・。
視線は合わさっていたけれど、どこか上の空。声も出せなくて。
しかも頭は空っぽ。何も考えが浮かんでこない・・・・。
「・・・・つまり、運命って事なんじゃないでしょうか」
「――え?!」
二人、驚きの声も同時。
マスターはそれすらも゛ほらね"と言わんばかりのようで。
「・・・・そう言葉にされると恥ずかしいな」
「そんな事ありませんよ。そういう話が現実にあるんだと思うと素晴らしいとしかいいようがないです」
「参ったな・・・」
そう小さく呟くと、彼はそのまま俯いてしまう。
本当に心底どうしようもなく照れていて・・・。
(・・・・・・)
゛運命″・・・・。
ドラマや小説の中だけにしか存在しないような言葉。そんな言葉に、まさか自分が関わろうとは。
(・・・やだ。私まで恥ずかしくなってきた!)
「それでは言葉を変えてみましょうか。運命じゃなくて必然だった。お二人は出逢うべくして出逢ったのですよ」
必然。出逢うべくして出逢った・・・。
そう一人で反芻してるいると、彼がゆっくりと顔を上げていた。
「・・・・やっぱり照れくさいけど、マスターが言うと説得力あるなぁ」
「お褒め頂き恐縮です」
「衣里はどう思う?」
「――え?」
二人のやり取りをただぼんやりと眺めていると、いつのまにか彼に覗き込まれてしまった。
ただただ、マスターの言葉が体中を駆け巡るだけで・・・。
「う、運命よりはしっくり、くるかな・・・」
そう。不思議な程、体に馴染んでいた。だからこそ、体中を駆け巡るような衝動を感じてしまったのだ。
ゆっくり噛み締めていると、私に応えるかのようにマスターは静かに微笑んだ。
「運命だとか、幸運だとかは、それ相応の相応しい者にしか降ってこないんですよ」
「・・・・え?」
「何もしない動かない人間には降ってこないんです。私なりの言い方をさせて頂くなら、お二人はお二人なりに苦労して努力してこられた。だから出逢われたのですよ」
「・・・・・」
「勿論、出逢ったからハイ、お終いって事でもないと思います。そこから先も困難があるでしょう。でも、それすらも、お二方なら乗り越えていける。私はそう思っているんですよ」
(・・・・・・っ)
自分の人生なんてまだまだ努力が足らなくて、まだまだ頑張りが必要で、そう思いながら生きてきた。
自分の融通の利かなさだとか、両親から受け継いだ頭の固さだとか、ひどく悔しくて、時には周りの人間を羨ましく思ったものだ。
何でもっとスムーズに出来ないんだろう。何でもっと上手く出来ないんだろう・・・。
自分の悪い部分が恨めしくて涙を呑んで、でもそれでも自分なりに前に進んできたつもりだった。
良くない部分は直して。でも、それ以上に良い部分は伸ばしていけばいいのだ、と。近頃はそう思えてきたのだ。
マスターのこの温かくも力強い言葉が、私を、私の心を揺さぶった。まるで、それが全てだと。
間違ってないんだ、と背中を押された気がしたのだ・・・。
――これは私の自惚れなんだろうか?
ううん。自惚れでもいい。それでも構わない。
だって、それに気づけただけでも私には素晴らしい変化なのだから・・・。
「衣里?気分でも悪い?」
「――あ、違うの・・・。嬉しくて・・・」
体の奥の方から溢れ出るような想いが体を震わせて、手を強く握り締めて、唇を噛んで。
私は硬い表情のまま俯いていたようだ。
「凄く嬉しくて・・・。出逢いって凄いんだなって思ったの。ここのお店がなければ和哉さんとも出逢えなかったし。それにマスターの言葉ももらえなかった。だから嬉しくなったの」
「・・・・・そうだね」
安心するように笑った彼の笑顔が大好きだ。
彼といると、私が私らしく、それ以上に私らしくいられる。
まるで化学反応のようで・・・。
「良かった。衣里、最近煮詰まってたでしょ?元気になってくれて良かったよ」
「ご、ごめんなさい・・・・。もう母がうるさくて。こうなったらもう式そのものを挙げなくてもいいやって思っちゃう」
「お義母さん、悪気はないんだよ。衣里の事が心配なだけで。でも、式は挙げよう。ね?」
「うん・・・・」
不思議そうに、でもゆっくりとした微笑みで。
マスターは何か言いたげな様子で、でも慈愛に満ちた笑顔で私達を見つめていた・・・。




