番外編・和哉の香水の秘密 ②
仕事が忙しいからなのか、それとも暗くさせるだけの何かがそうさせているのか。
石渡さんは会う度に以前のような笑顔が減っていった。
でも、若かった俺は、たまにしか会わないせいを理由に――いや、子供だったからこそ、それを的確に指摘出来るだけのスキルを持っていなかったせいで、気のせいだ、と言い聞かせるように過ごしていた。
しかも。
俺と違って大人な石渡さんは、誰に対しても態度が変わらないのだ。
笑顔が減った事を除けば・・・・。
「中林君?どうかした?」
「――え?」
俺が愛してやまない人に自分の名を呼ばれて意識が浮上する。
そこには心配そうに見つめてくる、というおまけつきで――。
「ごめん。全然気づかなくて・・」
「具合悪い?お水頼もうか?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
何やってんだ、俺は。
久しぶりに会えたのに。その貴重な時間を潰すような真似をして。こういう機会でもないと彼女と会えないんだと分かってる筈なのに・・・。
焦る自分を誤魔化すようにぎこちなく笑うと、目の前の人はゆっくり微笑み始めた。
「そういえば、中林君って将来マスコミ関係希望してるの?」
「――え?ああ、うん・・・」
「そうかぁ。だから出版社でバイトしてるんだ」
(・・・・・・・)
彼女をゆっくり見つめながら思う。何でそんな細かい事を知ってるんだ?
俺自身がそこまで話した記憶がない。となると、第三者から聞いて。―つまり、そこまでして俺に興味でも持ってくれてるって事なんだろうか。
そんな淡い、青臭い期待が顔を覗かせてくる。が、にやけてしまいそうな己を戒めつつ・・・・。
「・・・・あれ。何で俺がマスコミ希望だって知ってるの?」
「田島君が前に教えてくれたの。本借りた時に。中林君、出版社でバイトしてるから本とか色々詳しく教えてくれるんだって言ってたから」
(アイツか・・・・)
まぁ、薄々分かっていた事だとはいえ、少々気が滅入った。
アイツの事だ。きっと訊かれてもいない事をあれよこれよと彼女に聞かせたんだろう・・・。
「瞳ちゃんはもう決めてるの?」
「・・・・・強いこだわりはないけど、希望だけは持っていようって思って」
「・・・・・・・・」
遠くを見つめる彼女の横顔はどこか寂しげで、それでいて自分に言い聞かせているようで。
女性はミステリアスだな、その時はそうぼんやり考えたりもしていたが、そこで物分りのいい人物を気取るんじゃなく、もう少し彼女に寄り添えるような、それこそ少しがっついたりでもしていたら、あの時、何かが打破出来たりしていたんだろうか・・・。
◇◇◇
「・・・・・何かいい匂いだな」
「え?」
コピー機から吐き出す白い紙をぼんやり見つめていると、そんな声が落ちてきた。
「ところで、何枚コピーするつもりなんだ?」
「え?―あ、すみません!」
慌てて停止しても時既に遅し。
気が付くと必要以上の5倍近くを無駄にさせてしまっていた。
「まぁ、いいよ。重要書類でもないから裏紙にするし」
「本当にすみません」
身を小さくしながら後始末に取り掛かると、石渡さんは俺の肩を軽く、でも明るく叩く。
「そろそろ休憩にしよう」
自販機の前で好きなの選べ―、そう告げられて、恐縮しながらも礼を述べる。
大きな音をたてながら落ちてきたコーヒーを取ろうとすると、石渡さんはいつものように明るく尋ねてきた。
「お前、良い匂いだな」
「・・・・あ、そう、ですか?」
「うん。いいじゃん、それ」
「ありがとうございます・・・」
やっと、これ、という一本に巡りあえた、それを褒められた、というのに気持ちは晴れてこない。
「体調悪いんだったら言えよー?」
「あ、いえ、違います。・・・・さっきはすみませんでした」
「いや、別に、あれぐらいはいいんだよ。気にすんなって。ただ、まぁ、いつもと違って体調悪そうに見えたからさ」
まったく、自分でもどうかしてると思う。
石渡さんの様子が変だ、とか言いながら、自分の方がよっぽど変なのだと逆に気づかされてしまうんだから・・・。
「メシにでも行くか?」
「あ、いや、あの・・・」
「何だったら今の時間は誰もいないから大丈夫だぞー。あと15分ぐらいで良ければだけどな」
「・・・・・・・・」
(この人、本当に凄いよな・・・・)
意地を張るのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
でも正直に言うほどの事でもない。だとしたら・・・・。
「・・・・・な、何だか元気がない子がいまして。どう声掛けたらいいのか悩んでまして。―あ、そもそも声掛けられるのすら嫌な場合もあるんじゃないかと思ってたら、その子、段々やつれていっちゃって。どうしたもんかな、と・・・」
一気に捲くし立てる様に話す俺を、ゆっくり端に捉えたであろう石渡さんは、話終えた俺に、そうなんだ、とゆっくり呟いた後、静かに大きな煙を吐き出していた。
「ただ話を聞いてやるだけでもいいんじゃねぇの?」
「――え?」
「アドバイスやろうとか思うんじゃなくて、その子の気持ちを吐き出させてやるだけでもいいんじゃねぇのかな?ただ、それだけで楽になる時ってあるだろ・・・・」
(―――・・・・)
力が抜けた。俺の中から何かが抜けた気がした。
握り締めていたコーヒーが掌から落ちそうな気がして、慌てて握り返した。
「・・・・・っ、そ、そうですね。本当その通りです」
「でも人の話を聞くって大変なんだよ。途中で違うだろうー、とか、そうじゃないとか、突っ込みそうになるのを堪えなきゃいけないしな」
「・・・・・・・・」
「人によっては、ただ話にそうだね、うんうん、とかだけ言えばいい時ってあるらしいからな」
「そう、なんですか?」
煙を吐き出した後、遠くを見つめながらコーヒーを口にする。
その顔は何かを思い出したような顔。
「――ああ。特に女はそうらしいぞ。所謂共感ってやつらしい」
「共感・・・。石渡さん、さすが詳しいですね」
「あ、いや。これは教えてもらったんだよ」
「・・・・・女性、ですか?」
「ああ。ほら前に会っただろ?常泉・・・・」
「あ―・・・・」
途端、あの時の楽しそうな二人、石渡さんと常泉さんの姿が浮かんだ。
二人、というよりは、常泉さんを見つめる石渡さんの姿が、だが・・・。
「前に色々愚痴ってる時があったから、こうすればいいだろうって言ったら滅茶苦茶怒られてさ。"ただ聞いて欲しいの"って」
「はは。何か目に浮かびますね」
「アイツはいい子なんだけど、怒ると怖いんだよ」
苦笑い、だけど嬉しそうで、石渡さんはゆっくり煙を吐き出した。
「まぁ、難しいとは思うけどな。頑張れよ」
「――え?あ、はい・・・・」
瞬間、喉を通るコーヒーがやけに苦く感じた。
"頑張れ"という言葉が、妙に俺を昂らせる。
「常泉が、お前と飲みたいって言ってたから都合ついたら教えてくれよ」
「・・・・俺、となんかでいいんですか?」
「ああ。おっかないけど楽しくていいやつだからさ」
「楽しみにしてます・・・」
気が付くと俺の胸のわだかまりは消えていた。
石渡さんが気を回してくれればくれるほど、俺は逆に石渡さんの様子に気が付かなくなっていった。
こんなにも良くしてくれる人に、いくら経験がない子供だったとはいえ、本当に失礼だったなと今でも思うのだ・・・。
◇◇◇
「瞳ちゃん」
「中林君?どうしたの?」
あれから数日後、意を決した俺は田島に瞳ちゃんが何か本について尋ねていないか無理やり聞きだした。
特に聞いてない―、と言い張る田島の口から何とか聞き出せたのは、そういえばと何気なく呟いていたキーワードだった。
「この本読みたいって、田島から聞いたから持ってきた」
「・・・・・え?あ、そう、そうだったんだ」
その反応は予想通りだ。勿論。
そうでもしなければ彼女と会う口実が作れないのだから、そんな事でいちいち動揺していたら先に進めるわけがない。
「―――ありがとう・・・」
「ううん。あ、返すのはいつでもいいから、ゆっくり読んで」
「中林君、今時間大丈夫?お礼にジュース奢る」
それは予想外・・・。
まさか彼女からそんな言葉を聞きだせるとは。
「でも凄いね。前にこういうジャンルの本面白いって言ってただけなのに覚えてるなんて」
「あー・・・。田島から聞いたんだ。もし他に気になる本あったら教えてよ。バイト先、そういうの詳しい人いるから」
「ありがとう・・・・。フフ」
口につけようとしていたのか、ストローに指を添えると、瞳ちゃんはゆっくりと笑い出した。
「どうかした?」
「ううん。中林君って不思議だなぁって思って・・・」
「俺?」
不思議に思ってくれても、そうじゃなくても、彼女が笑ってくれるならそれでいい。
少しでも笑顔が戻ってくれた事に安堵した。
「でも良かった」
「え?」
「瞳ちゃん、最近元気なかったでしょ?笑ってくれて良かったよ」
唐突、過ぎたか?
目の前の彼女は、ストローを口からゆっくり離すと、俺の顔を見ながら目を丸くさせている。
まるで何と言えばいいのか迷ってるようで・・・・。
「・・・・・やっぱり中林君って不思議な人だね」
「そうかな?」
「うん。それに凄く優しいよね。本当に・・・」
いつもは真っ直ぐに見つめてくる彼女が、明らかに俺と視線を合わせようとしない。
――いや、多分、合わせられないんだろう・・・。
俯く彼女が、何も言えずに押し黙る彼女が、俺をどうしようもない気持ちにさせていく。
(・・・・・・・)
ゆっくりと、少しずつ拳を作る。何も出来ない、でもどうすればいいのか分からない。
言葉じゃない。じゃあ、どうすればいい?俺はどうすればいい・・・?
――彼女に触れたい・・・。
そう。今すぐ抱き締めて「大丈夫だよ」と安心させてやりたい。
「・・・・・っ、大丈夫だよ」
「え?」
小さく呟いた俺の言葉は、彼女の髪をなびかせる風に乗って、はっきりとは届かなかったようだ。
慌てて髪の毛を抑える彼女を見つめながら、俺はもう一度告げた。
「大丈夫だよ。きっと大丈夫。心配ないって」
彼女を励ましているつもり、だった。
が、思いのほか、その言葉がやけに俺の奥の方を擽った。それはまるで自分に言い聞かせるようでいて、俺は小さく震えているようだった。
「ありがとう・・・・」
俺の言葉が彼女に何かを思わせたのか、はたまた単なる自己満足だったのか、それは俺にも分からない。
ただ、あの時はその彼女の言葉が、笑顔が、嬉しかったのだ。
泣きたくなってくる程・・・・。
それ以来、瞳ちゃんは見る度に笑顔が増していった。
ような気がした。
それは俺の言動が少なからず影響していたのだろうか・・・・。
そんな自分本位な考えに少し酔っていたようで、彼女に一歩近づけたような気がして、言葉を交える度に、笑顔に触れる度に、俺の彼女に対する気持ちは膨れ上がっていったのだ。
期待、という希望が・・・。
「・・・・あ。中林君、いい香りだね」
それはいつもの飲みの席。
さりげなく彼女の隣に陣取って、他愛ない会話を続けている時だった。
「え?あ、本当?」
「うん。柑橘系で爽やかで良いね」
「良かった。あんまり周りから反応ないから心配だったんだ」
「中林君に合ってると思う。優しい雰囲気に合ってて良いね」
そう笑顔で優しく言われるとやばいじゃないか。俺だけに特別に向けられている笑顔なんじゃないかって思ってしまって・・・。
(・・・・・・)
彼女の手を取って抱き締めたくなる・・・。
(っ。いかん、いかん。冷静になれ、俺!)
「――ありがとう。そういえば瞳ちゃん、何だか最近雰囲気変わったよね」
「え?そう、かな」
「うん。何て言うか・・・。大人っぽくなったっていうか」
そう、だ。
以前に比べて瞳ちゃんは変わってきたのだ。
それは元気になってきたという以上のものを纏っていて、内面から滲み出てくるようで。まるで全身で幸せだと言ってるようだった。
だからこそ思ってしまうのだ。
俺と会ったあの時、そう、あの時からなんじゃないかって・・・。
「それに、そのネックレス瞳ちゃんに似合ってて素敵だね。それ最近よくつけてるでしょ?だから余計にそう思うんだ」
「ありがとう・・・。フフ」
「どうかした?」
「これ、ね。彼がくれたの・・・」
「―――え?」
今、何と言った―?
俺の聞き間違いか何か、なのか?よく分からないんだが・・・・。
「この前、中林君、言ってくれたでしょ?大丈夫だよって」
「あ、うん・・・」
目の前が霞む。汗が出てくる。周りを騒がせる音すら、俺を打ちのめしてくる。
瞳ちゃんの声が唯一俺を現実に連れ戻す。そこには幸せそうに小さく笑う顔・・・。
「ずっとね、彼に片思いしてたの。彼には付き合ってる人がいて・・・。私一度告白したけど振られて・・・。で、諦めようとしたんだ。でも、彼が思わせぶりな事ばっかりしてきて本当に疲れちゃったんだ。だから好きじゃないなら構わないでって怒ったら、私の事いきなり好きだとか言ってきて・・・」
「――・・・・」
「彼女いるのに何言ってんのって、その人の事叩いちゃった。で、それからずっと悩んでて。その時に中林君に言われて少し元気出て・・・。そんな時にね、彼から連絡が来たの。彼女と正式に別れたから、ちゃんと付き合いたいって」
「そうだったんだ・・・」
俺は今、その言葉をどんな顔で彼女に告げているのか。
笑えているか?声音は大丈夫か―?
「本当にあの時はありがとう・・・」
そう真剣な顔で、いつものように真っ直ぐ目を見つめてきて、こんな状況でもやはり俺は思ってしまうのだ。
――やっぱり好きなんだな。俺・・・。
「とんでもない。瞳ちゃん良かったね」
想いを告げる前に俺の気持ちは見事に砕けた。
振られてもいいから告げよう―、そんな気概がなかったのは、所詮その程度のものだったのか。
それとも若さゆえの尖った気持ちがあったのか・・・・。




