番外編・和哉の香水の秘密 ①
「和哉さん、その香水っていつからつけてるの?」
「ん?どうしたの急に」
久しぶりに彼と過ごす週末。
ここのところ彼の仕事がたてこんでいた事もあり、たまに会えても食事して、少し話をして、そのままそれぞれの家路につく事が多かった。
慌ただしくてごめん、と彼は会う度に謝罪してくれてはいたが、仕方がない事だし、それに全く会えない訳ではないのだから―、と少し寂しい気持ちを押し隠したりもしていた。
だから、やっと都合がつくと彼から連絡が来た後、いてもたってもいられず、仕事の後、真っ直ぐ彼の元へと直行した。
「ううん。前から聞こう聞こうって思ってたんだけど。えっと・・・、もしかして嫌?」
「ふ。また、そういう風に言う」
小さく笑いながら彼の腕が背中に回されてくる。
彼の胸に顔を埋めると、今、私が触れた彼の香水が、私の大好きな香りが鼻を擽った。
「・・今まで聞かれた事ないの?」
「うーん。そう言えばないかも」
そうなんだ、と小さく呟く。
いつもより一人で過ごす時間が多かったからなのか、ふと頭を掠めた事。それは和哉さんのあの香り。
そういえば、あの香りはいつからつけているんだろう。どういうキッカケでつけ始めたんだろうか。
――そもそも男性は、どういう経緯で香水をつけるんだろう・・・。
でも彼の人生の中で、私のような疑問を持つ人に出会った事がなければ、彼が質問自体を不思議に思うのは無理もない事なのかもしれない。
「俺、昔ね、煙草吸ってたんだよ」
「え?そ、そうなの?」
◆◆◆
「瞳ちゃんっていい匂いだね」
「えっ?!」
同じサークルに所属する瞳ちゃんは、いつもいい匂いがする。柔らかくて優しくて、いかにも彼女らしい良い香り。
それまでの俺の女性に対する香水のイメージは決して良いものとは言えなかった。
だが、彼女の香りは俺の考えを根底から覆す程、良い香りがしてくるのだ。
「中林!何言ってんだよ。馬鹿だなー」
俺の発言を酔っ払いの戯言と勘違いしたサークルの友人は、咎めながら俺を小突いて来た。
「ごめん、瞳ちゃん。コイツ何だか酔ってるみたい」
「別に酔ってねぇよ」
ううん、そう小さく聞こえてきたかと思うと、彼女はグラスをテーブルに静かに置いた。
「そういう風に言ってくれてありがとう」
「っ」
その瞬間、俺は恋に落ちた。まるで雷にでも打たれるように。
はにかむように、でも嬉しそうに小さく微笑む彼女を見つめながら、その笑顔が可愛くて、独り占めしたくて、全身から訴えてくる衝動を抑えるのに必死だった。
――俺だけを見て欲しい。
そう。その笑顔を俺だけに向けて欲しい―・・・。
入学してから今の今まで彼女の存在に気づかなかったわけではない。ただ、俺にも彼女にもそれぞれ相手がいたせいか、それ以上意識する事がなかった。
ある時、彼女の優しい香りに気が付いて、彼女と会う度にその香りが脳裏に焼きついて、気がつくと離れられなくなっていた。
時には、その香りを追い掛ける事さえあったのだ・・・。
◇◇◇
「中林君」
俺を呼び止める声と共に、例の香りが鼻を擽った。
「瞳ちゃん?こっちの棟まで来るなんてめずらしいね」
「中林君、煙草吸うんだね。知らなかった」
学部が違う瞳ちゃんとは普段、学校で会う事はほとんどない。しかも面倒くさい事に俺の棟と彼女の棟は端と端にある程で、よっぽどの用でもない限り来たいとも思わないぐらいで。
その彼女がわざわざこちらの棟まで来るとは・・・。
まさかとは思うが、俺に会いに来た、とか?
「あ、うん。たまにね」
「そうなんだ。―あ、田島君にね、本借りてたんだけど、いないのかな?最近サークルでも会わなかったから」
「あいつ、今、風邪ひいて寝込んでるんだ。もしよければ俺の方から渡しておくけど」
「そうなの?田島君、大丈夫?」
「実家暮らしだし。大丈夫だと思うけどね」
俺の目の前で他の男の心配する姿なんて見たくない―。
決して広くもない自分の心の奥で、そう叫ぶ自分がひどくみっともない気がして、何となく会話を終わらせようとしてしまう。
「そっか。じゃあ、とりあえずお願いしようかな・・・」
丁寧に紙袋に入った本を、笑顔の彼女から受け取る。
微かだが彼女の香りが感じられた。
「あ。この紙袋、瞳ちゃんの匂いがするね」
「・・・・私って中林君の中でどういう匂いのイメージなんだろ」
「え?」
「この前、言ってくれたじゃない?良い匂いだって」
戸惑うような、恥ずかしそうな彼女の様子を見て思った。
もしかしてこう言われるのは実は嫌なのではないか、と―・・・。
「ごめん。嫌な気分だよね。今みたいな言い方って・・」
「ううん、違うの!私の方こそ、ごめんね。ただ・・・」
さりげなく俺から視線を逸らした。
「そういう風に言ってくれた人って今までいなかったから。嬉しい反面、少し照れるなーって・・・」
(うわ・・・・・)
長い髪を触りながら俯きとまどう彼女の姿が、これ以上ない程に俺を足元から揺さぶってくる。
(可愛い・・・)
「中林君?」
「――あ、そうか。良かった。嫌な気分にさせてるんじゃなくて。でも、ほら、良い匂いって女の人の特権だよね」
まさか見惚れている自分の姿を彼女に悟られるわけにもいかず、照れ隠しのように思わず自分から話を逸らせてしまった。
――もっと上手く出来ればな・・・。
スキルのなさが恨めしくて仕方がない。
「そうかなぁ?男の人も良い香りがしたら素敵だと思うけど」
「・・・・でも男が香水って何となく抵抗あるなぁ」
単なる逃げのつもりで投げかけた俺の他愛もない会話に瞳ちゃんはいつものように誠実に切り返す。
「そんな事ないよ。トワレとかコロンだったら全然キツクないし。煙草吸う人とかなら、むしろつけた方がいいと思う。それに・・・」
次にどんな言葉を紡げば彼女を喜ばせる事が出来るだろうか―、そんな浮ついた考えと目の前の彼女との間で心が揺れていた。
「良い匂いしてる方が中林君の彼女も喜ぶと思うよ」
(―――・・・・!!)
「あっ、いや。俺、彼女いないから!」
「・・・・そうだったんだ。じゃあ、これから好きな人出来たら参考にって事で。―あ、何だか偉そうでごめんね」
「そんな事ないよ。ありがとう」
はにかむ彼女を見ながら、自分をアピール出来ただろうか、と冷静に考える自分がそこにはいて・・・。
とは言え、そんな青っぽく鼻で笑われそうな自信を持つくせに本質は相当に余裕なんかなく。
何故あの時に彼女に恋人の存在を確認しなかったんだろう。だからと言ってあの時に何かを悟れていれば何かが変わったりしたんだろうか。
そう思ってしまうのは若さゆえだったんだろうか・・・。
◇◇◇
「石渡さん。ここの人で香水に詳しい人っていらっしゃいますか?」
「――あ?」
「いや、ちょっと気になって・・・。いないんなら別にいいです」
見透かされたような眼差しと物言いに肩が撥ねて、思わず煙草を揉み消す。
ここの編集部にバイトとしてやって来て半年。社員である石渡さんとは煙草を吸う同士、――いや、この人の大らかな性格とお節介な性質が相まって、何だか気の合う一人だった。
だからって超能力者でもあるまいし。そこまで俺の気持ちに気づけるわけあるまい。
次から次に変化する気持ちに何とか追いつくのがやっとだった。
「オイオイ。俺まだ何も答えてねーだろ。すぐに引っ込めんなよ」
「・・・・・・忙しいのに悪いかなって思いまして。しかも休憩中だってのに」
石渡さんは俺から視線を逸らすと、ふーっといつもより多めに煙を吐き出した。
そう。多分、こういう間。この間が絶妙過ぎて、いかにもな余裕ある間が俺には真似出来なくて、それでいて的確な答えまで辿り着けるように思えてきて、色々な意味で複雑になるのだ。
「別に悪くねぇよ。さすがに俺は詳しくないから誰かいないか聞いておく」
「ありがとうございます」
「いいんだよ。何にでも興味を持つって大事だし。後で何か役に立つかもしれねぇんだしさ」
「そう言ってもらえると助かります」
「まぁ、何かあればいつでも言えよ。メシでも酒でも付き合うし、奢ってやるよ」
でもやっぱり、この人の距離感が好きだ。
一緒にいてひどく心地いいと思える大人なんて、この人以外知らない。
必要以上に聞かれるでもなく、必要な事は適宜与えられる。
何より仕事が出来て優秀。この人になら、つい言葉が零れてしまう。酒の席でも、それ以外でも。
だから今日もこうやってこの人に納得させられる・・・。
「は、はじめまして。アルバイトしています中林です」
「はじめまして、常泉です。・・・・・って堅苦しいよ!もっとリラックスして!」
「え、あ、はい」
目の前に置かれた名刺゛編集二部"の常泉貴子さん―、と、どういうわけか話をする事になったのだ。
当然だが俺より年上。だけど、何だか親しみを感じて。多分この笑顔だ。この笑顔が人懐っこくて、つい年上である事を良い意味で忘れさせてくれる。
むしろ瞳ちゃんの方が大人っぽく感じてきてしまう程だ。
「石渡さんのところで働いてるって聞いてたから、どんな子が来るのかと思ってたんだけど、真面目そうな子じゃない」
「常泉、どういう意味だよ、それ」
「もっと荒々しい子が来るのかと思ってたの。――あ、中林君ごめんね。石渡さんといると、いつもこうなっちゃって」
「・・・・いえ。でも、分かる気がします。それ」
でしょ?と、楽しげに微笑む常泉さんはとてもリラックスしていて、石渡さんといるととても楽しそうだ。
隣にいる石渡さんも、それは同じようで・・・。
こんな柔らかい表情をする石渡さんを初めて見た。
「香水について訊きたいって聞いたんだけど」
「そうなんです」
「どっちかな?男性、女性・・・」
常泉さんは、俺の素朴な疑問から具体的な疑問まで、出来るだけ丁寧に答えてくれた。
そして思ったのだ。
時折入る笑顔と雰囲気、余計な詮索をしてこない会話、それらがとても心地良い、という事を・・・。
それは俺の知っている大人とはまた違った心地良さだった。
「自分に合うかどうかは、やっぱり使ってみて確認するしかないかな」
「ですよね」
「でも自分でも嫌な香りだと思ったら止めておいて正解だと思う」
「分かりました」
コーヒーを静かに飲む石渡さんは、俺らの会話に一言も発してこない。それは至極当たり前の事ではあったのだが。
時折見せる常泉さんへの眼差しが、何ていうか温かい・・・。
それは今まで知っているものとは明らかに違っていたのだ。
(・・・・・・・)
疼いてくる。その違いが何なのか。
俺の予想が間違っていないと証明したくてしょうがない。
「すみません。今日は俺の為なんかに時間割いてもらっちゃって。しかも休みの日だっていうのに」
「気にしないでよー。石渡さんがめずらしく目に掛けてる子だって噂してたから私も興味あったの。ってこんな言い方でごめんね」
「いえっ、とんでもないです。お二方ありがとうございます」
「常泉、誰がそんな噂してんだよ」
「皆だよ。―あ、と、もうこんな時間。約束に遅れそうだから、そろそろ行くね」
「ああ。彼氏に宜しくな」
(―――え・・・・)
「石渡さん、今日はありがとうございました」
「全然。・・・って俺はただ座ってただけだけどな」
そう豪快に笑う顔はいつもと同じ。
先程まで抱いていた俺の想いは単なる勘違いだったんだろうか。
(俺の勘は結構当たる事多いんだけどな・・・)
「仲、良いんですね。常泉さん、―達と・・・」
「――ああ、常泉は俺の同期の後輩でさ。よく飲みに行ったりするんだよ」
「そういうの良いですね」
「そうだな・・・・」
「・・・・・・・」
止めておけ。もう一人の俺がそう警告してくる。
俺には俺の、石渡さんには石渡さんの事情がある。たかが年下の俺に何が出来るって言うんだ。
ましてや人の繊細部分だ。周りにどうこう言われる筋合いなんてないだろう―・・・。
それから俺の涙ぐましい、というか、若気の至りというか、自分に合う香水探しが始まった。
暇さえあれば香水・香水と頭が一杯になり、挙句の果てには、好奇心・探究心が日に日に高まっていったのだ。
いくら好きな子の為だったとはいえ、我ながらよくやるなと、どこか冷静でいたりする自分もいた。
「中林さ、そもそも煙草止めれば?」
「え?」
「俺はもう手遅れだけど、中林なら今ならまだ止められるんじゃねぇの?」
「・・・考えた事もなかったです」
「いい事ないぞー。金かかるし、健康にも悪いし」
「はぁ」
(めずらしいなぁ)
いつものように喋ってるつもりなんだろう。
苦笑いを浮かべて煙草を揉み消す姿も、仕事に戻るわと俺に見せる姿も、どこか妙にいつもと違う雰囲気をもたらす。
疲れているせいなのか。
――それとも他に何か理由があったのか・・・・。




