chapter22 ⑦
温かい・・・。
私の名を呼ぶ優しい声、ゆっくり頭を撫でる温かい手。
全てが心地良くて、そして優しい。
――何て素敵な夢なんだろう・・・・。
「・・・・・衣里」
「ん・・・・」
「衣里、起きて」
まどろむ意識の中で呼ばれる名前。その声に導かれるように少しずつ目を開く。
――あれ、夢じゃないの・・?
不思議に感じながら少しずつ体を起こす。ぼんやりと、ゆっくりと・・・。
「衣里。もう起きないと遅刻しちゃうよ」
「あ・・・・・・」
「おはよう」
「お、おはよう・・・・」
現実なのか夢なのか、まだはっきりしないのは、いつも目覚めるベッドに彼がいるせい、なのか。
優しい瞳を持つその人を見つめながら、確かめるようにシャツをゆっくり掴むと、そのまま温かさに身を任せた。
「あんまりゆっくりしてると遅刻しちゃうよ」
「少しだけ・・・」
髪を滑るゆっくりした彼の手が心地良い・・。
そう、だ。夢なんかじゃない。本物の、彼だ。
思わず強請るように彼の首に巻きついてしまう。
「・・・・・衣里」
「ご、ごめんなさい・・・」
優しく、けど少し咎められ、ゆっくり彼から離れた。
「・・・・シャワー浴びてくる」
「じゃあ、俺も一緒に浴びていい?」
「えっ?!あっ、と・・・」
久しぶりの、あのいつもの意地悪な顔。
本当に久しぶりで、どうしようかと固まっていると、小さく笑う声が落ちてきた。
「はは。目覚めた?」
「!」
「早く入っておいで」
確かに、目は覚めたけど朝からそんな刺激は心臓に悪い。
久しぶりで、どうすればいいのか・・・。
「あ、勝手にキッチン使わせてもらったよ」
「うん・・・」
私のキッチンで彼が素早く動き回っている。
それはまるで当たり前のように自然で、まるで、いつもそうしているかのようで・・・。
「あるものでご飯作るから、衣里は支度してて」
「ありがとう・・・」
彼に背を向けつつ横目でチラりと覗き見れば、時々、目が合って笑顔で「早く」と促されて・・・。
何だかそれがひどく楽しくて嬉しくて、いつまでもそうしていたい気分に駆られてくる。
急がなきゃ、そう思いながら鏡から目を離して小さく息を吐く。立ち上がって彼の背中を目にした瞬間、心臓がドクリと脈を打った。
「・・・・っ」
それは広くて大きくて、いつもの見慣れたはずの背中。
なのに。
それなのに、息が止まりそうな程、私を足元からぐらつかせてくる。
近いのに遠い。すぐにでも手を触れないと逃げてしまいそうで。まるですぐに捕まえないと誰かに横から攫われてしまいそうで・・・。
漠然とした大きな焦燥感に押し潰されそうになる―・・・・。
「・・・・衣里?」
「今日行きたくない・・・」
まるで自分のモノなのだと主張するように、彼の背中にしがみつきながら、そんな事を小さく呟いてしまう。
「今日頑張れば、明日休みだよ・・・」
現実と夢の、その境目に堕ちてしまいそう―・・・。
でも、彼のその言葉が夢に堕ちそうな私を既の所で引き止めた。
しがみついていた腕を緩めて、ぎゅっと閉じていた目をゆっくりと開いていく。
「そうだよね、ごめんね。ちょっと言ってみたかっただけなの・・・」
(うん。今日一日気合入れて頑張ろう・・・・)
お腹に力を込めて彼から離れると、精一杯の笑顔を向けながら顔を上げた。
そこにはいつもの愛しい人の笑顔。噛み締めるように笑顔を見つめて、彼に背を向けようとした時、ゆっくりと腕を掴まれてもう一度向き合わされた。
「仕事が終わったら俺のところにおいで。ご飯作って、衣里の帰り待ってるから」
「・・・・・・・」
何かがストン、と落ちてきた。
現実でも夢でも、境目でもない。それは温かくて、でも自分の足でしっかりと立っていて、何より心から訴えてくる確かなもの。
今、この瞬間に確かに生まれたもの。敢えてそれに名前をつけるなら自信・・・・。
そう、確固たる自信。
やっと。
やっと求めていた彼への応えがはっきりした。
私の答えが、言葉が、全てがそこにある事を――・・・・。
◆◆◆
扉が開くと同時に満開の笑顔を向けられた。
「お帰り」
「た、ただ今・・・」
くすぐったい。
その笑顔が彼の全てで、私の想いや言葉が全てが、ふんわりと包まれる、気がした。
そして思うのだ。私の決意なんかお見通し、と言わんばかりのようで・・・・。
「ずるい」
「え?」
「だって、お帰りって言われたら、嫌な気分とか、考えてる事とか、色々ごちゃごちゃしてた事とか、小さく思えてくる。何だか・・、安心出来るっていうか。ずるい・・・」
そう。私の決心が、遅々として進まなかった決心が、様々な思いを通過してきている事が、良い意味でどうでもいいのだと。ううん。それすらももう彼には丸ごと分かってるように思えてきて・・。
「俺だってそうだよ。衣里に言われたらそう思う」
「・・・・・・・・」
「だからずっといたいんだって言ったでしょ?」
(――・・・・)
本当、ずるい。
俯いていた顔を上げれば、そこにはいつもの笑顔。少し先走ってしまいそうだった心が彼の笑顔で溶かされる。
――やっぱり彼には適わない・・・。
「今日、夕飯頑張ったよ。オフだったから一日使って色々作ったから」
「・・・・ほ、本当だ。凄いご馳走」
私の苦笑いに安心したのか、そう優しく声を掛けてくれる。
彼が鍋の蓋を開けると、途端に温かい湯気。同時に食欲をそそる美味しそうな香り・・・。
と、音。
私のお腹の・・・。
「――あ」
「光栄だなぁ。匂いだけで反応してくれるなんて」
「・・・・・・・」
返す言葉もない。
本当に美味しそうだったから。
「もう出来てるから準備するね」
「あ。手洗ったら私も手伝う」
「え?いいよ・・」
「待ってて」
「衣里、眠いの?」
「――え?」
「何かさっきから黙ったままだから」
「ううん。違うの・・・」
そう、違うの。
何をどう進めるか。突然何の突拍子もなくストレートにすべきなのか考えていたのだ。
でも、さっきの事もある。あまり気持ちだけ先に優先させたくもなくて・・・。
「考え事?」
「え?」
「衣里はいつも何か考えてるよね?俺と会った頃からそうだった気がするなぁ」
そう言って懐かしそうに微笑む彼の横顔をチラリと見る。
彼こそ、そうやって微笑む顔は出会った頃と何も変わらない・・・・。
「何か癖っていうか。つい色々考えちゃって。でも、結局ぐるぐる回っちゃって、そのまま何も答えが出ないまま終わっちゃうっていうか・・・」
「今もそうなの?」
今?彼と出会う前の、あの頃のまま?
――ううん、違う・・・。
「ううん。考えるのは相変わらずだけど、例え答え出なくても前とは違う・・・・」
「ちゃんと行動に移してるからじゃない?」
「え?」
「衣里はちゃんと考えてから行動に移してる。熟慮した上で出した結論だから後悔したりしないんじゃない?」
「全部ってわけじゃないけど・・・」
彼を通してみた私の面。
彼にはそういう風に見ていたのかと思うと何だか不思議だった。
「俺はそういうところ好きだよ」
「・・・・・・・」
「何も考えないで行動するのと、何かを考えた上での行動するのとでは違ってくるからね。いずれにしても衣里は最後にちゃんと行動してる。俺はそういうところ好きだよ」
「・・・・・っ」
何故だか言葉が紡げなかった。
熱く湧き上がって迫ってくる想いの為なのか、それともこれから成そうとする事への重圧だったのか・・・。
彼の言葉が温かい。だからこそ私の一番奥の奥を優しく開くのだ。
知らなかった未知の扉を・・・。
「衣里・・・?」
温かい手が頬に触れられている―、そう感じてはっとした。
言いようのない想いが頬を伝って零れていた。
「あ・・・」
「体調悪い?それとも俺、何かした・・?」
「ちがっ、違うの!嬉しいのと、色々なのが混ざって、でも、凄く嬉しいの」
「・・・・・・」
ただ黙って涙を拭ってくれる彼のその手が、気遣いが、たまらなく愛しい。
「・・・じ、自分じゃ分からなかった事、褒めてくれて。私いつも自分に自信がなかったから、そういう風に言ってもらえて凄く嬉しいの。本当に・・・」
「ありがとう。俺は衣里がそういう風に自分の気持ちを言ってくれるところ嬉しいよ」
私の頬から離れようとしていた手に自分の手を添えた。
「和哉さんといると自分でいられる。もっと優しくなりたい、強くなりたいって思う。それに和哉さんにもっと幸せになって欲しいって思うの」
「・・・・・衣里?」
「和哉さんが幸せで、嬉しいって思ってくれたら私も凄く嬉しいし幸せ」
この手から私の気持ちが伝わればいい―、そう思いながらより強く掴む。
「俺も」そう優しく紡いでくれる彼の瞳を、ゆっくり見つめた。
「俺も同じだよ。衣里が幸せだと俺も嬉しい・・・」
ゆっくり静かに彼の胸に体を預けた。そんな私を察するように背中を強く包んでくれる。
やっと帰ってきた、そう心の底から沸き上がる。
「もう離れたくない」
「俺だって嫌だよ」
彼の温もりを、香りを、確かめるようにゆっくりと目を瞑った。
今なら言える。迷うことなく、自分の気持ちを・・・。
「今朝、和哉さん言ってくれたでしょ。"待ってる"って」
「うん」
「凄く嬉しかった。帰る場所があるっていいなぁって」
「うん」
「ずっと、私とずっと一緒にいてください」
「うん」
体を起こして彼の瞳を捉える。
彼の右手を自分の両の手でゆっくり包んだ。
「・・・・・衣里?」
「この先も和哉さんを永遠に愛しています。だから私と結婚してください」
「―――・・・・・」
そこには戸惑う、でも優しい顔の人。
残された左手が戸惑うように、でも、優しく私の唇に、頬に触れてきた。
「勿論!」
強く、強く、これ以上ない程に抱き締められた。
「すっげぇ嬉しい・・・」
「・・・・和哉さん苦しいっ」
「うん・・・・」
「・・・・和哉さん、本当に苦しいよ」
「ごめん・・・」
謝罪の言葉と共に私を離しても、そこにはちっともそうは思ってない、幸せそうで嬉しそうな笑顔。
彼のその笑顔が嬉しくて、離したくなくて、思わず身を乗り出して、自ら彼の唇に触れていた。
そっと離れれば、いつか見たあの意味ありげな笑顔・・・。
「・・・・もっとしてよ衣里から」
「え・・・・」
「して?」
「・・・・・・っ」
勇気を振り絞って軽く触れる。啄ばむように。何度も角度を変えて。
時折、彼を見つめても、まだ足りないと言わんばかりの顔で。
静かな部屋に響き渡るのは、自分の心臓の音だけ・・・。
「あー・・。何かこうもったいぶられてるようで煽られるなぁ」
耳元で低く呟かれたかと思うと、背中に彼の腕が回ってきて反転させられる。
「ん!」
宣言通り、熱い想いが唇に落ちてきた。
「か、和哉さ・・・」
放された唇で彼の名を紡ぐと、その瞳は先程とは違う思いをもたらす。
意地悪でも、ただ優しいだけでもない。あるのは私を捉える真剣な瞳。
私の右手を優しく掴むと、彼の温かい唇が触れてきた。
それはまるでお伽話のようで、どこか遠くで繰り広げられているようで、彼の手をぼんやりと見つめるだけしか出来ないでいた。
「衣里」
「・・・・なあに?」
「もう一度、改めて言う。俺と結婚してください」
彼に組み敷かれて、私の体を跨って、そんな状況で言うことなんだろうか・・・。彼の温かい笑顔を噛み締めながら、そんな思いを抱きながら、ゆっくり笑顔で応える。
「はい・・・・」
「それじゃあ、続きしようか」
「え?」
「ここでする?」
「こ、ここじゃ嫌!」
「じゃあ、どこだったらいい?」
「なっ・・・」
「ほら、早く言わないと続きしちゃうよ?」
「・・・・・・っ。べ、ベッドで」
「OK」
彼は、ううん、私の婚約者は優しくなんかなくて、とんでもなく意地悪で、とんでもなく余裕なんかない人だった。
でも・・・・。
それでもとびきり甘くて、溶けてしまいそうな程で、困ってしまうぐらい優しい人だった。
「和哉さんの馬鹿!」
「今日は何言われてもいいや。どうせ頭に入ってこないし」
「・・・・和哉さんが好き」
「え?」
口をつぐんで笑顔を見せた。
自分なりの"意地悪な笑顔"だ―。
「何も頭に入ってないんでしょ?どうせ・・・」
「衣里・・・。何だかどんどん強くなっていくなぁ」
目を細めて困ったように笑う彼にはやっぱり逆らえなくて、つい耳元近くに近寄った。
「和哉さんが大好き。愛してます。この先も和哉さんを大切にします」
この人でなければ駄目なの。
この人だから私は私でいられる。
だから、これは私の決意。永遠の・・・・。




