chapter22 ⑥
今まで数え切れないぐらい緊張してきた。
それは好きな人の前でも。
でも彼に対する緊張は、それまでの人とは明らかに違うものだと思っていた。
どうしたら彼が喜んでくれるか。
彼にもっと幸せだと思ってもらいたい―・・・。
「熱いので気をつけて」
「ありがとう」
私の部屋に彼がいる・・・・・。
そういえば彼と出会って、晴れて恋人同士となってからも、彼を部屋に招き入れた事は一度もなかった。
それぐらい彼の部屋にいる事が自然になっていた・・・。
「どうしたの?」
手持ち無沙汰気味にマグカップの温かさを確かめていたせいだろうか。私の口数の少なさに彼が優しく尋ねてきた。
「そういえば、和哉さんが私の部屋に来るの初めてだなぁって思って」
「・・・・・あ。そういえばそうだね」
「ごめんね。私の部屋狭いでしょ?」
伏目がちに彼を見ながら苦笑いで返す。
まるで緊張と、ぎこちなさを誤魔化すように。
「これぐらいが普通だよ。それに衣里らしくて可愛いと思う」
「そうかな。慌てて片付けた甲斐あったかな・・・」
衣里・・・、そう優しく問い掛けられて肩が跳ねた。
違う。こんな些細なやり取りの為に彼と会ってるわけではないのだ。
「か、和哉さん。この前はひどいことしてごめんなさい。あんな風に感情的に言うつもりなかったんです」
彼の目をしっかりと見つめて、そうはっきりと伝えた。
彼は、というと驚き眼で目を見開いていた。
「っ。俺の方こそごめん。衣里に心配させるような真似して・・・」
心なしか弱々しい物言いで、そう私に伝えてきたかと思うと逡巡する。
「――和哉さん?」
一・二度視線をさ迷わせ、彼は手にしていたマグカップをテーブルに静かに置いた。
「参ったな・・・・」
俯く彼の顔を見ると少し微笑んでいる。
「俺が謝るべきなのに、まさか衣里から謝ってくれるなんて思ってもいなかったよ」
そうゆっくり微笑んでいても瞳は悲しそうで。
思わず彼の腕を掴んでいた。
「・・・・・衣里?」
「あんな風に言われたら言いにくくなるのに、それなのに私・・・」
「あれは衣里のせいじゃないよ」
「わ、私、待ってるから。和哉さんが言いたくなるまで。本当はそう言うべきだったの。だから・・・」
懐かしい彼の香りがした。
彼の胸に顔を埋めて、彼の大きな腕に包まれて。
――温かくて心地良い・・・・。
思わず目を閉じてしまう。
ずっと。
ずっとこうしていたい・・・・。
「・・・・・美沙子とは婚約してたんだ」
(―――え?)
「和哉さん?」
「ちゃんと話すよ。聞いてくれる?」
放された腕も、心地良い温かさも、全てを忘れてしまう程、彼の顔を見つめていた。
「も、勿論!」
「美沙子とは同じ会社だったんだ。アイツは一つ下でさ。最初は時々、話したり、飲みに行ったりするぐらいだったんだけど、気が付いたら付き合ってた」
テーブルを脇に私達は互いに向き合った。
彼の過去の、深い部分に触れているようで少し落ち着かない―。
「美沙子は・・・。そうだな、サバサバしてるっていうのかな。仲間とか周りの人を大事に思う奴でもあるんだけど、一見ガサツに見えるんだよね。でも責任感は強いし、仕事は出来るし、それでいて相手の気持ちを汲み取れるんだ。相手以上に自分の事みたいに真剣に受け止めてさ。そこが良くも悪くもで。だからかな、子供みたいなところもあったんだよ」
『全然大人じゃないよ、アイツは。衣里の方がよっぽど精神的に大人なんじゃないかな』
彼に尋ねた時の、あの言葉が蘇る。
そういう意味があったのか―・・・。
「何を言っても受け止めてくれるし、それでいて駄目なところは叱ってくれる。一緒にいて安心したよ。だからなのか、いつも俺が先に勝手に決めた事でも、怒られても最後には認めてくれてた」
ふと、あの時と同じ悲しそうな顔になる彼を見ても、私はただ黙って唇を噛み締めて堪えるしか出来ないでいた。
「初めて一生一緒にいたいと思った。だからプロポーズした。美沙子もOKしてくれて。本当に嬉しかったよ。だからなのかな・・・・」
言葉が途切れた。
彼が言いにくそうで、少し辛そうだった。
彼の言葉より先に自分が発してしまいそうで、奥歯を噛み締めてグっと堪えた。
「美沙子に甘えてたんだ、色々。そのうちに言わなくても分かってくれるだろうって思ってたら段々と美沙子の気持ちを確認したり、尊重したりする事を忘れていったんだ」
「・・・・・・・・」
過去の事だ。分かってる。
彼がいかに美沙子さんを愛していたのか、その表情から痛々しい程に伝わってくる。
でも、彼が今、重い口を開いている―、その気持ちを尊重しよう、そう自分に言い聞かせた。
「その頃、丁度、石渡さんが元気なくてさ。俺、自分の仕事が軌道に乗ってて楽しかったのと、婚約とで浮かれてて周りが見えてなくて。やっと気が付いた時には、かなりやつれててさ。驚いて慌てて声掛けたんだ。そしたら・・・」
彼が一点を見つめたまま動かない。
辛い、のだろうか・・・。
「・・・・和哉さん?」
「ごめん。何て言えばいいのか考えててさ・・・」
「辛かったら無理しなくてもいいから」
怯えながら彼の手に自分の手を重ねる。
彼はそんな私の仕草をゆっくり眺めると、いつものようににっこりと微笑んだ。
大丈夫だよ、そう呟きながら頭をゆっくり撫でられた。
「うちの編集部でリストラしなきゃなんない話があってね。石渡さん、かなり悩んでたんだ。家族がいる人にはそんな話出来ないし、若手には経験積ませてやりたいから出来るわけないって。だからとうとう自分が辞めるとか言い出してさ。だったら俺がフリーになるからって石渡さんを引き止めたん
だ」
「・・・・・・そ、それでフリーのライターになったの?」
「あれはあくまでもキッカケ。前々から少し考えてはいたんだ。俺は書くのが好きだから出来れば管理職は避けたかったし。だから丁度良かっただけの話」
そう言って脇にあるマグカップを二つ手に取ると、彼はゆっくりと立ち上がった。
「衣里。お茶のお代わりいる?」
「――あ、え、私やります」
「いいよ。座ってて」
立ち上がろうとする私を制止すると、そのまま彼はキッチンへ向かってしまう。
「フリーになる話は美沙子に何の相談もしないで俺の独断で決めたんだ」
「え?」
「でも、美沙子ならいつも通りきっと説明すれば分かってくれる。怒られたとしても、後でしょうがないって、きっと言ってくれるんだろうってね・・・」
はい、そう言って温かいお茶の入ったマグカップを私に差し出す。
「――ありがとう・・・・」
「ほうじ茶って美味しいね。初めて飲んだかも」
「あ、そうなんだ。カフェインが少ないから体にいいんだよ・・・」
「俺、さ。そういう古き良き日本、とかの類がよく分かんないから衣里といると、色々勉強になるよ」
「・・・・・・・」
暫し沈黙がおりた。
でも先程までの痛々しさは感じられない。彼が何かを吹っ切れたような顔をしている、気がしたから・・・。
「あ、ごめん。話が逸れたね。つまり結論から言うと俺が悪いんだ。美沙子にとっては俺がフリーになるとか、ならないとかが問題なんじゃなくて、俺がどうしてフリーになりたいのか、ひと言俺の気持ちを言って欲しかった、相談して欲しかったって言われたよ。確かに言われて気が付いた。それまでも美沙子に対して肝心な事をいつもいつもはぐらかしたり、誤魔化したりしてたって・・・」
はぐらかす、誤魔化す、その言葉にドキリとした。
「美沙子は俺の事を出来るだけ信じよう、理解しようと広い心で見てきてくれてたけど、さすがにもうこの件で限界だったんだと思う。俺から気持ちが離れた、一緒にはもういられないって言われたよ。引き止めたかったけど、もう駄目なんだってはっきり悟った。お互い話し合って婚約は破棄する事にした」
「―――・・・・」
「勿論、円満とは言えないけど、憎み合って別れたわけじゃないって事は付け加えておく」
「・・・和哉さんは美沙子さんの事、本当に愛してたんですね」
嫉妬でも嫌味でもない。
これは私の本心、本音だ。心の底からの―。
「・・・・・衣里にはもう嘘はつきたくないから正直に言う。美沙子の事は本気で好きだった。忘れるのに時間もかかった。だから、その間も結構ボロボロだったよ」
「良かった」
「え?」
「ここで本気じゃないなんて言ったら殴ってるところでした」
衣里・・・、そう小さく呟く彼は困ったような笑顔。
その顔を見つめながら私もにっこり微笑み返した。
「確かに、この前、美沙子に会った時、動揺した。それは認める。でもだからこそはっきり感じた事もあるんだ」
彼の手がゆっくり伸びてきて私の手を捉える。
温かくて心地良い・・・。
「俺は衣里を愛してるんだなって」
「・・・・・・っ」
真っ直ぐに私を見据えて、でも瞳は優しくて甘い。
いつもの意地悪な瞳じゃない。だから余計に心に響いた。
「でもそれが衣里に伝わってないんじゃ本末転倒だけどね」
「・・・・私っ」
震える心に負けない為にか、それとも直視する勇気がまだ持てないのか、彼から一度視線を逸らしてしまった。
「和哉さんが大人で経験もある事は分かってる。それでも!それでもっ、つ、辛い事はどんな人にも降ってくるし、苦しい事はどんなに遭遇してもその都度辛いものだって思ってるよ。もっと苦しい、とか、しんどいとか、言ってくれてもいいって思ってるから!」
彼の目を見つめ直して告げた言葉が、空回り、している・・・。
「あ、あれ?つ、つまり。全然余裕ない姿とか、そういうの見せてくれて構わないっていうか、その方が私としては嬉しいっていうか・・・」
(・・・・・・・・・)
う、上手く言えない・・・。
あれほど考えていたというのに、肝心な時に限って。
「何だか上手く言えなっ・・・・、和哉さん?」
「・・・・・凄いな」
私の手を強く握り締めながら、彼は俯いたまま。
「俺が言おうとしてたこと、先に言うんだもんな・・・」
「え・・・」
「・・・・俺、衣里に対して余裕ないとか言ってるくせに格好悪いところを見せるのが嫌だったんだ」
「どうして・・・?」
「変なプライドと言うか、そういうのかな。後は・・・」
そう言うと、彼はゆっくり少しずつ顔を上げた。
悲しそうで、辛そうな顔だった。
「年が離れてるせいかな。そのせいか変にそれに囚われてて・・・。衣里の気持ちを尊重してるんだって、だからみっともないところを見せられないんだって思い込んでたみたいだ」
「私は年の事気にしたことないよ?」
気が付くと彼の手を強く握り返していた。
「確かに年が離れてるのは事実だけど、それは好きになった人がたまたま年が離れてただけの話で。でもっ。でも気にさせてしまったんなら私の振る舞いのせいなのかも・・・」
「俺から気持ちが離れるのが怖かったからなんだ!」
強く肩を掴まれると、そのまま引き寄せられた。
(――・・・・・・)
初めて、だった。
いつも優しくて温かい彼の腕が、とても弱々しくて震えている・・・。
「弱いところを見せたら俺から離れるんじゃないかって、どこかで思ってた。どこかで自信が持てなかったんだ。だから誤魔化したりしていたんだと思う」
でも・・・、背中に回されていた腕がより一層強くなった。
「衣里からそういう風に言われて・・・。自分がちっぽけだって思い知らされた。本当に凄いよ」
「凄い?私が・・・?」
「ああ。衣里になら、どんな姿も見せられる。受け止めてもらえる。それに悪いところは、ちゃんと叱ってもくれる・・・・」
「・・・・・・・・・」
「そういう衣里だから大切にしたい。この先もずっと。衣里の全てを大事にしていきたい」
「――っ・・・」
言葉が紡げない。体に力が入らない。感じるのは全身を駆け巡る熱さだけ・・・。
その強過ぎる熱さが我慢出来ず、私の頬を静かに流れる。
代わりに、彼への問い掛けへの応えのように、強く強く抱き締めた。これ以上ない程に。
彼が好きだ。彼を愛している。この先もずっと変わらずに愛している。
でも、この想いを彼にはっきり伝える術が思いつかない。
今、口にしても、全てが表面的に思えてしまって言葉に出来ない。
しっくり、ぴったりと当てはまる言葉が見えない。
彼に伝える一番の言葉が・・・・・。




