chapter16
長かった。
あれから一ヶ月、彼に会えない日が続いた。
『やっとひと段落ついた。今週末会えるかな?』
待ちに待った一番欲しい言葉が、一番好きな人からもたらされた。
もうメールや電話だけじゃない。
彼、に会えるのだ。
何が何でも会うよ、と彼からの嬉しい申し出はあったものの、落ち着くまで待っているー、と思わず自分から口にしていた。
それに・・・。
それに前回会った時の事もあって。
自分が冷静になれるのか、冷静、という言葉が適切なのか判断に困るのだけれど、とにかく一度、落ち着きたかった。
彼の態度が言葉が、全てに震えてきてしまって。勿論、とても嬉しいことでもあるのだけれど。
つまり・・・・、これは彼の全てを受け止めるまでの準備時間だった、という事でもあったのだ。
◆◆◆
目の前の人が凄く輝いてる。
それは、恋は盲目、とかいう事でなく、久々に会えて嬉しい以上の気持ち、というか・・・。
彼の顔の近くに、更に輝かせるものがあったからだ。
花。
そう、花束だ・・・。
「あー、やっと久々に会えたね」
満面の笑みを浮かべた彼は、同時に疲労も滲ませていた。
北海道出張の仕事の追い込みで猛烈に働いてる、とは聞いていたが心配になるぐらいの疲れ具合。
そして・・・。
謎の花束。
「はい。・・・・・・・あの、聞いてもいいですか?」
「あ、もしかしてこれ?」
彼が花束を少し掲げた。
チューリップ、かすみ草、ガーベラ・・・・、色とりどりの花達が揺れる。
「誕生日プレゼントのつもりらしいよ」
「・・・・え?」
「この前、誕生日だったから編集部の人達がくれたんだ」
言葉が詰まった。
(な、なんで、ど、どうして、言ってくれてもいいのに・・・!)
「・・・中林さん・・、言ってくれれば・・・」
言ってくれれば、お祝い、いや、私だって贈り物の準備をしたかった・・・・。
「あ~・・、多分、衣里ちゃん、そう言うかなと思った。でもね、この年になると結構恥ずかしいからさ、だから言わなかっただけで、別に他意はないんだよ?」
そうでも、例えそうであっても、好きな人の誕生日。
しかも久々に会えた、恋人の誕生日だ。
何かしらしたいと思うものなのに・・・。
「この花束も結構恥ずかしいんだよね・・」
苦笑いを浮かべる彼の腕を掴んでいた。
「あ、お祝い、したいです・・」
「え?」
「さすがにプレゼントは今、贈れないですけど、お祝いはしたいです・・・」
「・・・・・・」
「駄目ですか?」
彼の反応が予想外で慌てた。
「駄目なわけないよ。何だかそういう風に言ってもらえたのがくすぐったくてさ。ちょっと驚いた」
照れくさそうに微笑む彼がそこにいた。
「あ、でも、急だったので、ごはんは・・、作れないので、えっと、ご馳走させてください!」
――こっちの方が照れくさくなる、私も慌ててしまった。
「ありがとう。・・・・じゃ、お言葉に甘えて」
◆◆◆
「ご馳走様」
「いえ。次の誕生日は私が作りますね。あ、でも大したものは作れないです、けど・・」
「その前に、衣里ちゃんの誕生日だね。その時は俺が作るよ」
「あ、嬉しいです。凄く・・・」
胸が熱くなった。
彼の誕生日なのに、私が感動させられてどうするのだ、という話ではあるけれど・・。
で、彼が小さな声で呟いた。
「俺の家、来る?」
「は、い」
一瞬、息が止まった。
冷静に答えたつもり、ではいた。
けど、彼はそういう微妙な間ですら、敏感に感じ取ってくる。
「・・・もし疲れてたら無理しなくていいよ」
「だ、大丈夫。疲れてないので、行ってもいいですか?」
いつもの笑顔。いつものこの彼の笑顔を離したくない、彼から離れたくない。
だから自分としては心の底から言っている。
――つもりだった。
奥底にある迷いを、―それはまるで喉に引っ掛かる骨のような、その違和感に気づかぬように誤魔化すように
気づかない振りをして・・・・。
「中林さん、プレゼントは何が欲しいですか?」
彼が注いでくれたコーヒーを飲みながら、横に座る彼に尋ねた。
「何でもいいよ。食べ物でも物でも。衣里ちゃんが無理しない範囲内であれば」
「あ、じゃあ、今度買物に行きましょう!それで欲しい物があったら言ってください」
「・・・・うん」
彼が戸惑っている。
それもそうだ。
部屋へ着くなり自分の迷いを誤魔化すように先回りして、彼からのアクションを見ない振りをしているのだ。
今だってそう。
二人でソファに座っている、と言うのに妙な間を持たせてしまった。
(・・な、何で、何で私こんなに緊張してるの?)
「じゃあさ、欲しい物、今言ってもいい?」
「え?」
私の手からカップが取り去られた。
気がつくと、彼に射る様な瞳で覗き込まれている。
彼の視線が鋭くなればなる程、聞こえてきたのは自分の鼓動・・・。
しかも逃げ、られない。
彼の手が私の腰に、頬に回されていたから・・・。
視線はー、逸らせなかった。
彼の瞳が熱を帯びていて普段の、いつもの優しいものじゃなく、これは自惚れじゃない、と思った。
私を・・、求めてくれる瞳だって事を。
優しくて温かい香りが、感覚を、思考を、鈍らせる媚薬に感じてきた。
(・・・大丈夫。だって、私、好きだし・・・)
「ん!」
早急なキスが、彼の強い意志に感じて来た。
(・・・・・・だって、私、は・・・)
――甘くて溶けそう・・・・。
・・・・・・・・・・。
・・・・・には、感じてこなかった。
(――え、ちょ、何で?)
現実へと引き戻されるー・・・・、そんな感覚が私を鈍く突き刺してくる。
彼の唇に塞がれながら、同時に優しい手は、私の体を迷うことなく熱くさせていく・・・。
誤魔化していた違和感が顔を覗かせる。見ない振りをしてきた小さな欠片が私を襲う―。
(や・・・)
思わず拳を作った。
(・・・っ)
――彼の体が重い、そう感じた時には、両の拳で胸を強く押し返していた。
「・・・嫌っ!」
温かさが消えた。代わりに感じてきたのは冷たい、感覚。体が心がー・・・。
でも。
でも今はそれが、私をひどく安心させる。
「・・・・・う・・・」
気持ちと体が追いつかない――・・・。
そう思った瞬間、零れた。
胸の奥の、どうしようもない気持ちが、想いが・・・。
「ごめん、なさ・・い・・・、私・・」
止まらなかった。
どうすればいいのか、どうやったら止まるのか。
(・・・・どうして?好きなのに、何で・・・・)
うずくまって小さく震えた肩に温かさと、それにほんのり香る・・、彼の香り。
彼の上着が優しく掛けられた事以上に、頭をもたげる重く暗い想い。
「・・・・・・・」
ひたすらすすり泣く声だけが静かに部屋に響く。その音は耳の奥深くまで伝わって私をより一層沈ませていく。
俯く視線の先にはソファに置かれた彼の手。彼の顔。
悲しそうな瞳―・・・・。
「・・・・っ、ご、めんなさ・・・」
「謝らなくていいよ」
搾り出すように出した声に、彼はいつもと違う声音、それも一段とトーンの低い声で応えた。
小さく体が震える。彼の言葉が、態度が、怖い――・・・。
ギシっという音がたてられたかと思うと、彼がソファから離れていた。
「・・・俺、近くのコンビニ行ってくるよ」
「え」
「もし良かったら風呂沸いてるから、温まってて」
「中林さ・・」
「あ、ここに俺のでよければだけど、着替えとかタオル置いておくね」
彼の背中が遠い・・、縋りついてでも彼を引き止めたい。
――でも、今の私にはそんな事を考える余裕など全くなかった・・・・。
「鍵掛けて出るから・・・」
静まり返る部屋に、ドアの閉まる音だけがやけに大きく響いた。




