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ボク・ス=フォン・グラナート・イェンセンの倦怠 ―全能なる独裁者への無敵なる黙殺―

作者: 新里泰久
掲載日:2026/05/08

 歴史家は、人類が「箱庭」という名の恩寵を与えられた瞬間を、平和の始まりと記録した。だが、それはあまりに楽観的すぎる誤謬(ごびゅう)というものだ。

 この世界には一つの呪いがある。隣の箱庭を砕かなければ、自らの庭を彩る資源は湧き出さない。神が設定したこの「システム」は、善良な隣人を瞬時にして貪欲な略奪者へと変貌させた。

 人々は外へ出た。壁を壊し、領土を広げ、自らの正義を叫ぶ「独裁者」が、地平線の数だけ乱立した。彼らは熱狂していた。略奪という行為に「開拓」という高尚なレッテルを貼り、他者の生活を破壊する全能感という麻薬を、自らの意志だと信じ込んで。


「……実に、醜いな。見ていられない」


 ボク・ス=フォン・グラナート・イェンセンは、白磁のカップを唇に寄せた。

 彼の「庭」は、周囲の喧騒が嘘のように静まり返っている。開拓を拒み、拡大を呪い、ただ四隅の壁の内に引きこもる男。周囲からは『無能な隠者』、あるいは『臆病なカストロプ(去勢者)』と嘲笑されていたが、彼にとってそれほど名誉な称号もなかった。



 事態が動いたのは、大陸東部を統一したと称する「鉄血公」の軍勢が、ボク・スの境界線に接触した時だった。

「開拓を拒む者は、世界の発展を阻害する逆賊である!」

 鉄血公は宣言した。拡声魔法を通したその声は、空気を震わせ、ボク・スの庭の美しい芝生を汚した。数千の開拓兵が、システム上の「重機」を携えて、ボク・スの箱庭を解体しようと殺到する。


 かつて、この世界が「ゲーム」と呼ばれていた時代。ボク・スはそのすべてを知っていた。どの土地を壊せばどの資源が出るか。どの軍勢が効率的か。彼はその頂点に立ち、そして絶望した。

 開拓の果てには、何もない。ただ、プログラムされた「勝利」の文字が虚空に浮かぶだけだ。

 画面の向こう側の退屈を、この異世界でもう一度繰り返すほど、彼の神経は図太くはなかった。


「外へ出ろ、戦え、とシステムが言う。従わぬなら死を、とも。……だがね、鉄血公。君の信じている『正義』は、単なる開発者の設定ミスだよ」


 ボク・スは、ティーテーブルの上に指を置いた。

 それは、この世界の物理法則――魔力回路とは全く別の次元で動く、禁忌のシーケンス。



 ボク・スの指が、空中を叩く。

 右。右。左。左。下。上。上。下。

 最後に、虚空に浮かんだ見えない「決定ボタン」を、愛おしむように押し込む。


 その瞬間、世界から「音」が消えた。


 振り下ろされた鉄血公の剣は、ボク・スの眉間数センチの位置で停止した。いや、停止したのではない。衝突判定そのものが消滅したのだ。

 どれほど魔力を込めようと、どれほど憎悪を燃やそうと、鉄血公の攻撃はボク・スの肉体を「認識」できない。彼はもはや、この世界の計算式から除外された存在――「無敵属性(God Mode)」となったのだ。


「……何をした」

 鉄血公が呻く。ボク・スは答えず、ただ椅子に深く腰掛けた。

「君たちに、素晴らしい贈り物をしよう。君たちが望んだ『永遠の勝利』を、今ここで確定させてあげるよ」


 ボク・スの周囲から、物理的な色彩が抜け落ちていく。

 彼はバグを利用した。世界のメモリを意図的にパンクさせ、この一帯の「時間軸」を無限ループへと追い込んだのだ。

 敵対者は死なない。だが、一歩も進めない。剣を振るうというプログラムが完了せず、彼らは永遠に「攻撃待機状態」のまま、箱庭の装飾品オブジェクトと化した。





 数十年後。

 歴史家は、この地を『静止した地獄』、あるいは『絶対平和の聖域』と記した。

 数多の独裁者たちが、ボク・スの庭を侵略しようとしては、その境界線で石像のように固まり、動かなくなった。彼らは今も、剣を振り上げたまま、永遠に終わらない「開拓」の夢を見続けている。


 その中心で、一人の男が優雅に紅茶を啜っている。

 彼の名は、ボク・ス=フォン・グラナート・イェンセン。

 神のゲームを降り、システムを壊し、誰も殺さずに「すべてを無力化」した唯一の人間。


 彼はカップに最後の一滴――芳醇な琥珀色のブランデーを落とした。

 立ち上る香りに目を細め、静止した世界を見渡して、彼は独りごちる。


「……恒久平和など、人類の歴史にはなかった。だが、バグの中になら、それは確かに存在する。……それがどうした、という話ではあるがね」


 世界はフリーズし、紅茶はいつまでも温かい。

 彼にとって、これ以上のハッピーエンドは存在しなかった。

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