8-3
「それじゃあ、また明日」
そう言ってアパートの前で二人を下ろしたライエルの車が見えなくなるまで見送って、動き出したノクスに倣って、レオもまた足を動かす。
すっかり夜も深くなってしまっている。
明日の予定はどんなものだったか、頭の中で巡らせながらノクスと一緒にエレベーターへと乗り込んだ。
「大丈夫か?」
ふとそんな声が飛んできて、ノクスを見る。
気遣うような光を帯びた深い緑の瞳が、レオを捉えていた。
「何の話だ?」
「いや、随分殺気立っていたように見えたからな。問題ないなら良い」
問われた意味を図りかねて聞き返したら、そんな答えが返ってきた。
あんな呼吸のしづらくなるような緊迫した空気が包む会合の中で、ノクスはレオのことまで気にしてくれていたらしい。吐き気を催すほど嫌いな人間があの場にいたから余計にだが、自分のことばかり考えていたレオとは大違いだった。
冷静に周りの状況を見れるノクスは、やはりギャングのボスに相応しいのだろう。
テミスの面々のことも随分と気遣っているのが、普段から分かる。部下や下っ端をボロ布のように扱き使う連中とは、似ても似つかない。あの人ホントこの街に珍しい特異な人だからな、とライエルが前に言っていたのを、ここ最近より実感する。
まあそうでなければ、憎いであろうモルテの一人息子を、一人の人間として扱ってはくれないのだろうが。
ふっと漏れた笑いのまま口を動かす。
「ありがとな」
レオ自身の心配や気遣いなんて実の父親ですらしなかったのに、ノクスやライエルを始めとするテミスの面々はしてくれる。ありがたいことで、幸運なことだ。
素直に伝えたのに、ノクスの瞳は丸く見開かれた。また意外だとかいうんだろうな、と思ったのと同時、彼は言った。
「レオ、お前本当にこの前から素直になりすぎじゃないのか?」
「うるさいな。あんたが言ったんだろ。斜に構えるのはやめろって」
「確かに言った気もするがそれにしたって」
変わりすぎだろう、と彼は言いたいのだろう。
でも感謝しているのは本当なのだ。
ノクスがあの時拾ってくれなかったら、自分は一生すべてを否定して、常に誰かの所為、環境の所為にして、自分の中に確固たるものとして存在していた『ギャングはクズとクソ野郎どもしかいない』という考えに縛られ続けていた。その結果、自暴自棄になって目的も果たせずに犬死していたかもしれない。
それをノクスやライエルが変えてくれた。
彼らと関わる内に、自分はなんて狭い世界と考え方で生きていたのかを知った。ラッキーだと言ったあの医者の言葉を今更痛感している。あの時の酷い態度を今ノクスに謝りたいくらいには。
「今日の会合に出て身に染みたんだ。あんたに拾われたのは本当に幸運だった。精神が未熟で生意気なクソガキだった俺を、あんたは見捨てずにテミスに置いてくれた。それに、あんたの言葉は正しかった。ギャングはクズばかりじゃない。あんたらみたいな真っ当な人間もいる。そんな人たちに俺も真摯でありたいって思っただけだ」
言葉だけではなく、それを真に行動で示してくれた。
裏切り者には死を、と多くのギャングが掲げる中、他の組織の元スパイであるレミエルですら許して、組織の一部としている。自分側に引き抜いても、利用するだけして使い捨ての紙のように扱う人間がいる中で、ノクスは違った。だからこそ。
エレベーターが止まって静かに口を開ける。
小さく笑いながらノクスが足を動かし始めた。それに倣ってレオもその背中についていく。
「心を開いてくれるのは嬉しいが、僕は本当に信用に足る人間か?」
歩きながら視線だけを寄越す彼の問いの意味を図りかねた。どういう意味だ、というのが顔に出ていたのか、レオの言葉を待たずにノクスは続ける。
「僕が裏でモルテと交渉しているとは思わないのか? お前を保護する名目で、モルテからの攻撃を免れ、上納金の減額を条件にしている可能性だってあるだろうに」
「本当に交渉している奴は、そんなこと言わないだろ」
「そういう心理を逆手にとって、あえて話題を出して信用させようとしているとしたら?」
扉の前で立ち止まる。キーがドアのロックを解除する音が聞こえて、扉を開けたノクスが振り返った。彼の顔には静かな笑みが浮かんでいる。その瞳をじっと見つめても、凪いだ湖のように揺らがない。己の直感も何も言わない。はっ、と笑った。
「ないな。あんたの気質は、父親とは相容れない。あんたはアイツが最も嫌うタイプの人間だから」
この世の悪全てを飲み込んだようなあの男が、ノクスのような義理や秩序を重んじる人間を目の敵にしているのは知っている。今やこの街であの男に楯突く者はいない。警察ですら機能せず、法も通じないこの街。それが更に黒く淀むことを願っているあの男からすれば、ノクスは目の上のこぶだ。目障りで仕方ないだろう。もちろん彼の下についている者たちも。
今すぐにでも潰したい組織であろうテミスに、唯一の弱みとも言える一人息子がいるのだ。血も涙もない男ではあるから、当然レオを切り捨てる可能性も高い。
だからよくよく考えれば、この身は交渉材料になり得ないように思う。金の卵などと言われていたが、あの男からすれば一緒に切り捨てる方が余程いい策だろう。
「そもそもあのクズに、一生此処から出ることなく暮らせばいい、って俺は言われてた。それを振り切ってあそこから逃げた時点で価値はゼロ。交渉材料にはならない」
自分で言っていて悲しいが事実だ。
ノクスはいつの間にか笑みを無くしていた。憐れんだ光が少しでもその目に宿っていたら、余計に惨めになっただろう。だが、ノクスはただ真っ直ぐレオを見ている。
「だからあんたが裏であのクズと交渉してる可能性はほぼゼロだ。違うか?」
少しの沈黙を破ったのはノクスの方だった。
頭を下げたノクスから、ふーっ、と大きく吐かれた息。顔を上げたノクスは、眉を下げて少しだけ笑った。
「そこまで見抜かれてるとは思わなかった。どうして彼に嫌われていることまで知ってるんだ?」
そんなに分かりやすいか? と考える素振りを見せたノクスに笑って、その横を通り過ぎて部屋に入る。
帰る場所がない、と言っていた過去のクソ生意気な自分が知ったらきっと驚くだろう。今はお前が最も嫌いだと豪語していたギャングの頭目の家で暮らしてる、なんて。
「そんなの簡単だろ。アイツとあんたは正反対だし、義理とか人情とかアイツは理解出来ない人間だから」
血縁なんて当てにならない。血の繋がりなんてものはあの男には目の前の埃と一緒だ。そうでなければ、お前が死ねば良かった、なんて本人を前にして言わない。
まあでも当然か、とも思う。
あの男が唯一執心していた人を、見殺しにしたようなものだから。執心されていたレオの母親は、レオを生かして逃す為に犠牲になった。そこにいれば殺されると分かっていてなお、地下室に隠したレオが見つからないようにその場に止まった。
元はと言えばあのクズが撒いた種が火種になったことだが、壊滅状態だった敵組織から仕向けられた刺客は容赦なく母を襲った。幸いだったのは、捕らえられて辱められることがなかった事くらいだろう。
モルテの部下が辿り着いた時には、母は絶命していた。それをレオは地下室から見ている事しかできなかった。
静かにしていなさい貴方は絶対に生き延びるの、と彼女に言われたから。叫び散らしてしまいたい気持ちを腕を噛む事で押さえ込んで、泣く事しか出来なかった。枝みたいに細い腕では、ただの子どもでは、大の男に敵うはずなどなかった。
言い訳したところであの男にとってはどうでもいい事で、レオが母親を見殺しにした、という事実だけがあの男の真実だ。あの男が、レオにした仕打ちも当然と言えば当然なのかもしれない。
なんて、考えることが出来るのもノクスやライエルのおかげだ。
自分の視野の狭さを、環境や生い立ちの所為にしていた頃には考えられない。
「……本当にお前、レオか?」
「どういう意味だよ、オイ」
「ふふ、そう思いたくなるくらい変わったってことさ」
振り返って文句を言えば、ノクスは笑みを深めてそう言った。
足元に寄ってきた黒猫を撫でながら、笑みを浮かべたままのノクス。あんたのおかげでな、とはまだ素直に言えそうにはない。でも感謝している。
今日確信を持てた。
あんな男のようにならない、とずっと思ってきた。でも思い返してみれば、テミスに拾われる前の自分はどちらかと言えば、あの男の方に似ていたと思う。何も出来ないと言い訳して、破壊衝動と他責だけで出来た肉の塊。
ライエルは言っていた。言い訳したってどうにもならないし、待ってたって何も起きない、と。
本当にその通りだと今は思う。自分の意思を通して行動出来たら、きっとあの男のようにはならない。筈だ。何かに囚われ続けるあの男のようになりたくない。いつまでも此処に留まっていれば、それは果たせる。だが。
「どうした?」
深い緑に射抜かれて、何でもない、と首を横に振る。
レオには果たしたい本懐がある。
此処にずっといることは出来ないだろう。あの最悪の日、母に手を掛けた下卑た男の顔は覚えている。その男がテミスの中にいないのは、この数ヶ月を過ごした中で確認した。そもそもそんな男をノクスが手元に置くとも思えない。ギャングの数は大小合わせて相当だ。専門家に手を貸してもらった方がいいかもしれない。
その本懐を果たした上でまだ、テミスにいてもいい、とノクスが言ってくれるなら、今度は彼らに恩返しが出来たらいいと思う。
それは夢のまた夢ではあるけれど。
「嗚呼、そう言えば」
思い出したように声をあげたノクスを見やる。
黒猫はいつの間にか居なくなっていた。
「あと一週間くらいでガランの所の工事が終わるそうだ」
テミスの面々の帰る家であるあのマンションの事だろう。工事が終わるということは、もう此処にいる必要は無い。つまり、出ていけ、ということだろう。そうか、と己の口から漏れた声は少しだけ残念そうに聞こえた。
あれだけ警戒していたというのに、ノクスとの生活は心地が良かった。必要以上にノクスは干渉してこないし、黒猫もいるし、何より食事は一人で摂るよりも誰かがいた方がいいと言うことを、彼の所為で思い出してしまった。
「このまま此処にいても良いし、あっちに戻っても良い。あっちに戻るなら特訓を付けてくれてるライエルに連絡しておいてくれ」
荷物をまとめておけと言われるのだろうな、と思ったレオを否定したのは他でもないノクスだった。
「……、それだけなのか?」
「? それ以外何かあるか? 急に居が変わって困るのはライエルぐらいかと思ったが」
「いや普通は、」
出ていけ、というのではないだろうか。自分のテリトリーにずっと他人が居続けるのは、それなりのストレスがある筈だ。居候させてもらっている身からしたらそれを我慢することは普通だが、家主は文句を言っても良いはずで。
そう思うのにノクスは、本当に何とも思っていないのか、それ以上心当たりがないような顔をして、わずかに首を傾げている。
「このまま此処に居てもいいのか?」
「構わない。駄目なら最初から連れてこないだろう?」
何を当然な事を、と言いたげだが、普通はそうではないと思う。もしもそう言っても、ノクスには伝わらないような気がする。
ふっと漏れた笑いと共にまた言ってやる。
「あんた、やっぱ変なやつだな」
「……だから僕のどこが変なのか具体的に教えてくれるか?」
やや不満げなノクスにレオはまた笑ってしまった。
水面下で歯車を回し始めた不穏な動きに、この時のレオが当然気付くはずもなかった。




