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<”Just trust yourself, then you will know how to live.”>



 鈍色の空から氷のような雨が降り注いでいる。

 蝙蝠傘がそれを弾く音を聞きながら、人通りの少ない道を黒のスーツを身につけた男が歩いている。通りで座り込んでいるボロ服に身につけた老人が、その男を見上げた。それを横目で見遣っただけで、男――ノクスは足を止めることなく進んでいく。


 この街では、赤の他人に無干渉であることが常識として一人歩きしている。

 店でも客に声をかける者はいない。勘定の時も最低限の会話で成り立っている。人が道路に寝転がっていたとしても、怪我をしているとしても、声を掛ける人間はいない。

 その原因はこの街の性質にもある。

 人間の邪悪さだけを詰め込んだ様なこの街では、人に騙されるなんて日常茶飯事で、殺しにすら発展することもある。毎日誰かが誰も知らないところで死んでいる。吹き溜まりのようなこの場所で人のことを心配するくらいだったら、自分を守った方が余程賢いことなのだ。この街でイイヒトは生き残れない。故に、イイヒトはこの街を早くに捨て、一層この街はより邪悪に染まっていく。


 邪悪の中で生き残れるのは、街より邪悪な者達だけ。


 いつしかそんな不名誉な謳い文句までついている。新刊の帯にだってそんなマイナスな事を謳う本はないというのに。じゃあどうしてこの街で生き続けるのか、ともう既にこの街を去ったかつての友に問われたことがある。


「ノクス、お前は何のためにこの街に居続けるんだ」


 問いと言うにはあまりも呆れを含んだ声だった。この街にしては珍しい伽藍堂のカフェ。机に乗っていたホコリの塊を指で突いて肩を竦めた彼をみながら、何のために、と頭で繰り返した。


「お前は顔も頭も良いし、背だって高い。性格もはっきりとしてるし、人を蔑ろにしたりしない。どこだってやっていける。此処に拘る必要なんてないだろ」


 友人の言うことは尤もだった。

 此処に拘る必要なんてまるで無い。どちらかと言えば生き抜くには骨が折れる街だ。それでも何故か、離れたいとは微塵も思わなかった。やることがあると言えば聞こえが良い。でも心の底からやりたいことなのか、といわれても即答は出来ない程度のものだ。今持っている地位を捨てたくなかったわけでも、意固地になっているわけでもない。

 でもきっと、希望を捨てられなかったのだ、と今なら解る。

 この街を離れるのは容易い。でも離れてしまったらそれで終わりだ。この街は何も変わらずにまた更に堕ちていく。どんなに酷い街でも自分が育った此処を、簡単に切り捨てる勇気が自分にはなかった。

 出来る事なら、もう少しマシな街にしたい。恐れられても孤立することはない街に。




 耳にざらついた呻き声に、感傷に浸っていた意識を持ち上げる。

 やっと戻ってきた雨音に気付くと同時に、足も止まっていることに気付く。

 うぅ、とまた呻き声が聞こえる。声からして男だろう。止めっぱなしの足を動かそうとした。放っておけば良い、という頭に響いた声に従って。

 だというのに足は動かなかった。

 さっきまで考えていた事が原因かもしれない。傘が雨を弾く音がやけに煩く聞こえる。


 どうした。いつものことだろう。


 そう思うのに、やはり足は動かない。それどころか、呻き声が聞こえた路地へ足先が向く。一歩、一歩と進んでいく足は、止めることが出来なかった。

 行くのが当たり前だといわんばかりに、体が進んでいく。

 差した傘の先が擦れるか擦れないかの狭さのレンガ畳の路地で、一人の青年が力なく壁に背を預けて座り込んでいた。

 冷たい雨に晒された色素の薄い髪から、水滴が滴っている。

 顔は長い前髪の所為でみることは出来ない。その代わりに腹から血を流しているのが見えた。服は泥だらけで、ボロ雑巾のようだった。

 小さく息を吸って、口を開く。


「おい、生きてるか」


 大きく上下していた肩が僅かに震える。

 ゆっくりと持ち上がったその顔。金糸のような髪の隙間から見えたのは、重たい鈍色の空には似合わない爽快な青だった。泥だらけのその顔も気にならなくなるような。

 肩で大きく息をしている青年は声を掛けても、警戒心を露わにしてノクスを睨み付けてくる。当然だろうな、と思う。この街の道端で声を掛けてくる人間なんて、悪人か世間知らずだけなのだから。

 自分の立場を考えれば確かに悪人には違いないが、青年を殺そうだとかそういうつもりは一切ない。と、言ったところで信用してはもらえないだろうが。


「死にそうだな、青年」


 フーッフーッ、と威嚇する青年の眼光は未だに鋭いままだ。それに比例するように腹の血が流れ続けているにも関わらず、彼は止めようとはしなかった。


「そんな顔しなくても何もしないさ。ただ、僕が何もしなければお前は死ぬだろうけどな」

「うせろ」


 片眉がぴくりと持ち上がる。この状況でも虚勢を張ることが出来るのは、賞賛に値する。声を出すのもやっとの筈なのに青年はもう一度、うせろ、と言った。


「お前の言うことを聞く義理はないな、青年」

「おまえにくれてやるものなんてない」

「欲しいなんて一言も言ってないだろう。怪我人らしく助けを乞うくらいできないのか?」

「だれが、ぎゃんぐ、なんかに」


 今にも切れそうな意識の中でまだ噛みついてくる。

 見上げた根性だな、と言った声は多分届いていないだろう。たよってたまるか、という言葉を最後に青年は頭を下げてしまった。レンガに滴る赤を見遣って、一つ息を吐く。


 これも何かの縁だろうか。


 懐から携帯端末機を取り出して、発信ボタンを押す。

 一コールで取られた電話先から、お疲れ様です、と労われた。


「今から迎えを頼む。三番通りの路地だ」

『了解しました』

「怪我人がいる。腹を刺された青年だ」

『え。まさかそいつに襲われたんですか?』

「いや、たまたま見つけただけの死にかけの子犬だよ」

『珍しいですね、貴方が拾いものなんて。明日は雪かな』

「バカな事言ってないで迎えを早く頼む。処置が遅れると子犬が死ぬ」

『はいはい。五分で到着します』

「助かるよ」


 電話を切ってから、青年の近くへと寄ってしゃがみ込む。鉄臭さが鼻を突いて、気持ち程度に持っていたハンカチを刺傷部に当ててやる。白かったはずの布はすぐに真っ赤に染まった。


「全く。困った犬だ」


 聞こえた自分の声は存外楽しそうな響きでその場に広がって、やがて消えていった。



 ***



 規則的な機械音が鳴り響いている。

 屋敷の客間はよく使われているせいで特にそれが不自然というわけではないが、そのベッドに横たわっている人間が組織の人間ではなかった。それが珍しいのか、部下達の間ではノクスが見知らぬ人間を連れてきた、という話題で持ちきりらしい、と直属の部下であるライエルが笑っていた。


「貴方の隠し子だとか恋人だとか遠縁の親戚だとか、いろんな憶測が飛び回ってますよ」

「くだらないな。たまたま拾っただけなのに」

「そうは言っても、貴方ってあまり拾いものしないじゃないですか。真実はどうあれ、物珍しさっていうのはいつまでも尾を引きますからね」

「いっそのこと捨ててくるか」

「いいや貴方はしませんよ。薄情そうに見えて情に厚い人ですもん」

「あんまり良い意味に聞こえないんだが」

「良い意味ですよ勿論。見た目と中身は必ずしも一致しないって話です」

「……ライエル、お前そんなに他の仕事が欲しいのか?」

「勘弁してくださいよ。もう手一杯ですって」


 けらけらと笑いながらじゃあシゴトあるんで、とその場を去って行ったライエルを見送って、ノクスはこの客間を訪れたのだった。

 金糸のような髪が陽光を反射しているのを見ながら、ベッドからは距離がある場所に置いてある一人掛けのソファへと腰を下ろす。あの雨の日に此処に連れてきてから、かれこれ一週間は経とうというところだが、青年は目を覚ます様子がない。余程疲れているのか、それとも余程の怪我だったのか。どちらかは分からないが、医者の見立てでは山は越えたらしい。後は目を覚ますのを待つだけだ。

 目を覚ましたら覚ましたで、かなり噛みつかれそうな気もするが、子犬と思えばまあ許せる範囲だな、とぼんやりと思う。しかし何度考えても、どうして彼を拾ってきてしまったのか、自分でもよく解らなかった。普段ならば絶対に拾いものはしない。今までしたことがないし、他人を気にしようとも思わない。今の部下達は勝手に自分に付いてきたから、声を掛けて連れてきたのはこれが初めてだ。

 ならば何故、自分は彼を連れてきて治療までしてやっているのだろう。

 足を組んでその膝に頬杖を突いて考える。一定のリズムで上下を繰り返す布団を見ながら、何がそんなに自分の心に響いたのかを考えてみるものの、やっぱり何となく、という言葉しか出てこなかった。金糸の間から見えた青が美しく見えたからかもしれないし、その瞳が何者にも折られることのない強い意思の光を宿していたからかもしれない。

 それにしたって、ギャングと分かっていながらあの態度に出るその無謀さと気高さは、見上げた物だ。もしも自分の配下の人間だったらそれなりに可愛がっただろう。この街でギャングに逆らうことが何を意味するのかわからない赤ん坊でもないのに、あんな態度を取られたから余計に興味を惹いたのかもしれなかった。嗚呼そういえば、青年が何者かはまだ調べさせてなかった。情報通の知り合いはいくらでもいるから、また調べさせるか、なんて思った時だった。

 呻くような声が聞こえて、規則的だった布団の上下が止まる。


「目が覚めたか」


 声を掛けてやれば、勢い良く体を起こそうとした青年が、痛みに呻いてまたベッドへと逆戻りしたのが見える。ふっと鼻で笑って席を立つ。ベッドまで近寄れば、拾ったときと何ら変わりない敵意剥き出しの青がこちらを睨んでいた。


「どういうつもりだ」


 掠れた声でそう言った彼に、肩を竦める。


「見れば分かるだろうに。治療してる」

「いったいなにがもくてきだ」


 尚も噛みつこうとしてくる彼にため息を吐く。何が目的か、なんてノクスが一番知りたいことだ。どうして彼を此処に連れてきてしまったのか、どうしたかったのか、なんて考えたところで分からなかった。


「ただの気まぐれさ。礼も見返りも必要ない。治ったらさっさとお家に帰れ、青年」

「いみがわからない」

「奇遇だな、僕も何で生意気なお前にこんなことしたのか分からないよ」


 じっと見つめてくる青年から目を放して窓際へと足を進める。締め切ってあったそれを勢い良く開ければ心地良い風が頬を撫でて、部屋全体を駆け抜けていった。


「医者を呼んできてやるから、大人しく寝てろ」

「だれがいうとおりにするか」

「まあどうぜ動けないだろうから、こんなこと言ったところで無駄だろうけどな」


 追い打ちを掛けるように言えば、大人しく黙った青年に緩んだ口元。正論を返されると何も言えないらしい。口達者なのかと思ったが、可愛らしいところもあるようだった。


「本当に何かするつもりだったら、今頃お前はバラバラになってあちこちに臓器が売られてる頃だよ。一週間も経ってるからね」


 トドメの一撃を置いて、その場を後にする。スーツから携帯端末を取り出して、馴染みの医者をコールすればすぐに行く、と言ってくれた。もうこれで安心だろう。やっと煩わしい子犬ともおさらばできる、と思っていたノクスは知らない。 

 これは波乱の始まりに過ぎない、ということを。



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