落語声劇「夜叉」
落語声劇「夜叉」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約30分
必要演者数:3名
(0:0:3)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
※:この演目は昭和55年9月にNHKスタジオで観客無しで収録された
ものを文字起こしして台本化したものです。
原作は中国の怪奇短編小説集「聊斎志異」ですが、おそらく多分に
アレンジがかかっていると思われます。
例:燕赤霞→原作では道士だが、この噺では寧采臣の隣に住む
そそっかしくちょっと間の抜けた男としか紹介されない。
その他にもテレビ局だのマイクだの登場する時点でお察しではありま
すが。
●登場人物
寧采臣:作中では寧、と呼ばれている。
非常にお堅い性格で、女性が嫌いと公言してはばからない。
燕赤霞:作中では燕、とのみ呼ばれている。
寧の家の隣に住む男。原作だと道士で、寧に助言を与えて小倩を
守る事に成功するようだが、この噺の燕はそそっかしくちょっと
間の抜けた男としか描かれていない。
町人1:寧の住む町の町人その1。
町人2:寧の住む町の町人その2。
聶小倩:作中では小倩とのみ記載される。
十七・八歳の若く、美しい娘。寺に泊まった寧を誘惑するが、
頑として退けられたため、かえって彼を信頼し、己がすでに
この世の者ではない事、寺に住む化物、夜叉に脅されて人々を誘惑
していた事を明かす。
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
寧・町人1:
袁・町人2:
小倩・語り:
※枕は誰かが適宜兼ねてください。
枕:世の中には不思議なものが沢山ありますね。
有名な所だと世界の七不思議です。アトランティス、バビロン…、
近代だとUFOや雪男、ネッシーなど、これもまたいろいろいますね。
今日申し上げますこの中国の怪奇短編小説集・聊斎志異という、
これもですね、やっぱり怪獣が出てきたりなんかしますけども、
それよりも何と言っても、この聊斎志異の中にちょいちょい出てくる
のは女であります。
世の中で、実に女こそ一番不思議な怪物なのであります。
怪物と言っちゃどこかから怒られるかな。いやしかし、怪物ですね。
いや何がって、そうじゃありませんかね。
怒りゃ喚くし、叩けば泣くし、殺しゃ夜中に化けて出るという、
本当にあんな、ね、外面如菩薩内心如夜叉なんてね、こういう事をね
、今の日本で言うとすぐどかーんて引っぱたかれたりなんかしますか
らね。ついつい言い慣れないもんですから、口ごもったり、
言い間違えたりなんかするわけですけども。
実にご夫人というものは不思議な怪物であります。
などというお話をそろりそろりとご紹介しつつ、本日の不思議、
聊斎志異のお話にそれとなく入って行くところが、私の値打ちであり
まして。
この世の中にはずいぶん堅い人と言うのは、意外にいるもんですね。
女の人が傍へ寄ってきて手でも触ろうもんなら、おまわりさーん!
なんてんで騒ぎ立てたりしてね、よくあの、職場なんかでも言います
ね。皆でわーってんでキャバレーでも繰り出そうかなんて時になるっ
てと、ダメだよあの人は、誘っても無駄、社内で一番堅いんだからっ
てんで、こういう人は本当に堅いのかってぇと、人の見てないところ
では意外にね、ぐにょぐにゃだったりなんかしてね、周りキョロキョ
ロ見ながら、あ、誰も見てないな、なんて思うと急に大胆になったり
なんかするもんですけど、人間ってものはなかなか複雑な動物であり
ますな。
中国にも大変な堅物というのはいるようでして。
語り:浙という所に寧という人がおりまして、これが大変な堅物で
近所でも有名でした。
寧:いや、私は女は嫌いでね。
世の中にあんな嫌なものはありませんよ。
女は綺麗になればなるほど私は怖い、嫌だなあ。
語り:いつも会う人ごとに、こう言うもったいない事を平気で放言して
はばからない。
中国版・石部健吉みたいなものであります。
家には年老いて病気がちの母親がおりまして、母子二人で慎ましく
暮らしていました。
ところがある時、近所に住む連中から妙な噂が出始めた。
町民1:どうもおかしいんだよ。
あの寧の家に、女がいるらしいんだな。
それもとびきり美人でね、若くてイイ女なんだ。
語り:こう言う噂は広まるのも早く、特に当時の中国はお喋り以外に
これといった娯楽が無い為…まぁ今の日本もどっちかというと
そういう傾向がかなりありますけれども、私も、俺も見た、なんて
感じで、あっという間に町内じゅうにこの噂が広まった。
ネス湖のネッシーの目撃話みたいなものです。
町民1:でもさ、不思議なことに女を見たってのは昼間しか聞かないんだ
よな。
町民2:へえ、夕方以降は見た事が無いってのかい?
町民1:そうなんだよ。
町民2:いやぁ、たまたま昼間だけ見かけたんだろ。
そんなにイイ女なら、さぞかし夜の生活も…。
町民1:おいよせよ、のぞくなんて。
町民2:へへへ、かまやしねえよ。
あのお堅い寧が若い美人と一緒で、どんなふうに夜を過ごしてんの
か、気になるじゃねえか。
ようし…。
語り:どこの世にも下世話な人間がいるものであります。
そんなわけで好奇心にかられた者が器用に寧の家をのぞき見た。
ところがいるのは寧と病気の母親だけ。
若い女の姿なんて言うのはどこにも見えない。
町民2:やっぱり、若い女は夜はいないみたいだな。
町民1:へえ、やっぱり根が堅い奴だからな。
昼間だけ来てもらって夜になると返すのかなぁ。
それにしてもあの女は、どこから来てどこへ帰るのかね?
町民2:うーん…!そうだ、昼間はいるってのは分かってるんだから、
夜に帰る時に後をつけてみよう。
町民1:だからなんでそうお前は下世話なんだ。
よしなよ。
町民2:へっ、そう言いながらお前もさっきの話、
興味津々に聞いてたじゃないか。
そうとなればさっそく…!
語り:なんて話で噂のネタは尽きず、物好きで暇な奴が夕方、
寧の家からその女が出てくるのを待ち伏せし、後をつけようと物陰
に潜んでいました。
町民2:お、出てきた出てきた。
…うわぁ、いい女だよ。
こらぁ、驚いたね。こんな薄暗い中でもあれだけ綺麗に見えるん
だから大変な美人だよ。
小倩:……っ……。
町民2:おろろ、おろ、おろ?
辺りの様子をうかがってるよ。
おっと見つかっちゃいけません…おや、おやおやおや、
歩き出しました、歩き出しましたよ。
語り:町民がそのまま後をつけていくと、寧の家の裏手が墓地になってお
り、その北のはずれに、一本の白揚の木が植えてあった。
その傍まで女は歩いていく。
町民2:いったいどこまで…っ!?
あらっ? あらららっ?
消えた…あの木の辺りですーーーっと消えちゃったよ…。
語り:あくる日、この話を友達にすると、
町民1:そりゃあお前の目の錯覚だよ。
ボケーッとしてたから消えたように見えたの。
それだけのもんだよ。
町民2:そんなに言うんなら今晩、一緒に見に行こうじゃねえか。
町民1:…わかった。じゃあ行ってみようか。
語り:なんて話でその日の晩、今度は二人で後をつけることになった。
女性は相変わらず裏の墓地へ向かっていく。
そしてやっぱり北はずれの白揚の木の傍まで来ると。
町民1:うわ…すーーーっと消えたね…。
町民2:な?だから言ったろう。
本当に消えるんだって。
語り:あくる日に二人がその話を他の町民にする。
すると俺たちにも見せろと、野次馬が増えまして見物人が五人に。
町民1:ほら、そろそろ消えるよ…!
町民2:ッほら消えた!
語り:そうしてだんだんだんだん噂が噂を呼んで、
野次馬見物人が増えてきます。
しまいには団体で五十人くらいがぞろぞろぞろぞろと後をつけてい
く。
中にはガイド役を引き受けるのが出てきたりなんかする。
町民1:本日はようこそおいでくださいました。
大変長らくお待たせいたしました。
そろそろ消えますのでお待ちくださいませ。
はーい消えます、消えますよー。
町民2:ほら消えますよー、一瞬の事ですからね。
お見逃しの無いようにー。
はーい消えたー。
全員:おぉぉぉ~~~…!
語り:見物人が驚いて、まるでお祭りの屋台で手品でも見てるような騒ぎ
になって来る。
こうなるともう出店を出そうなんてなる有様。
町民1:えー、べっこう飴はいかがかねー?
隣にはカルメ焼きもあるよー。
町民2:えー、たこ焼きはいかがですかーっ?
語り:なんてわけで、毎日こうなるとどうも町内の風紀が乱れてしょうが
ない。
これはやはり寧に事情を聞いて何とかしなければならない、と、
町内の会長が心配しまして、彼の家の隣に住んでいる、燕という
男に頼んで聞きにいかせた。
ところがこの燕、はなはだそそっかしく、おまけにちょいとばかり
間の抜けた、手数のかかる男だった。
寧:だからお前さん、何の用があって私のところに来たんだよ。
燕:いやだからね、つまりあの…消えちゃ困るって事だよ。
あの、あの女がね、消えることについちゃ町内の、まぁ早い話がさ、
まぁ早くはないけども、町内の風紀が乱れてると。
そういうことで、ふだん堅い堅いと言われてるお前さんが、
なぜに急に柔らかくなったのかと。
まぁその、町内会長が言うには、そのへんの事を聞いてこいと言う。
だから包み隠さずね、まぁ早い話が素直に白状して、
あの女が何者かって言う、そういうね?
あの、だから…どういうことなのかなこれは。
寧:なんだかちっとも分からないけど、
お前さんの言いたいのは、こうじゃないのかい?
私のところへ来ている女は、何者かということだろう?
燕:うんうんそうそうそう、早く言えばね。
寧:私もね、小倩が…あ、その小倩、というのは女の名前なんだけどね。
彼女が町内で妙な噂になっているのは薄々感づいていて、何とかしな
くちゃならないとは思っていたんだけどね。
実は、あの小倩という女については大変な話があってね。
この話はあんまり人にしたくない。
いや、というのはね、この話を聞いた人に妙な事が起こるといけない
と、そう思ってね。
燕:ぉぉいおいおい、なんか変な言い方だな。
その小倩とかいう女を、まるで化物みたいに言うな。
寧:みたい、じゃない。
化物なんだ。
燕:ぇっ、ぁっ、そ、そのもの??
寧:実はあの小倩は、化物の夜叉に操られている、可哀想な女なんだよ。
燕:ぁっぁ…っ、さよならぁ…。
寧:っちょっと、待ちなさいよ。
待ちなさい。
燕:い、いぃや、も、もういい、いい。
寧:良かないよ。
燕:ちょ、ちょっと忙しいんだよ。
これからほら、税務署へ行かなくちゃいけないから。
寧:何を言ってるんだ…。
聞くのを途中にして帰ると、後で余計に恐ろしい祟りが
来るかもしれないよ?
燕:ぉ、おぉ…嫌だね、脅かしちゃいけないよ…。
しょうがないな…座り直すから。
くわしく聞かせてくれ。
寧:…私がね、ひと月前ほどに金華地方へ旅に出た時だよ。
下廓のお寺へお参りした。
参詣する人も無いらしく、荒れ果てた庭にはヨモギが丈成すほど
生い茂っている。
ところが庭の竹林と言い、傍らの蓮池と言い、
なかなか優雅で私の好むところだったので、寺の南の棟に泊めてもら
った。
その夜、月は中天に澄んで清らかな光は水のように輝いていた。
やがて疲れてそのまま横になったが何とも寝苦しい。
ウトウトしていると部屋の北の方で話し声がする。
燕:ああ、そりゃあ他に誰か泊まっている奴が、
暑くて寝苦しいから、夕涼みがてらに喋っていたと言うんだろ?
寧:いや、私の他に泊まっている者は誰もいない。
不思議に思って戸の隙間からのぞいてみた。
すると塀の外に小さな庭があって、四十がらみのひょろっとした女と
それに十七・八の娘の二人が、月の光の下で何かしきりに話し込んで
いたんだ。
燕:あはは、引っ越しの相談かなんかしてたのかね?
大八車どこに頼もうかなっていう。
寧:そういう話じゃなさそうだったがよく聞き取れない。
おそらく近所の人同士が何か喋っているのだろうと思って、
そのまま寝てしまった。
しばらくして、部屋の中に誰か入ってくる気配がする。
起き上がってみると、さっき北の庭で話していた女だ。
燕:あぁ、四十がらみの方かい?
寧:いいや、十七・八の若い娘の方だ。
燕:うわぁ、上手くやったなァ。
ツイてる。
寧:何がツイているだよ。
燕:だってさ、そのあまっこ、何だってそんな夜中に男の部屋に入って
来たのかねぇ?
寧:私もおかしいと思って聞いてみた。
そしたらこう答えたんだ。
小倩:あまりにいい月夜なので寝られませんでした。
貴方とお友達になれそうなので、今夜一晩、ゆっくりと打ち解けて
話したいと思って参りました。
燕:じゃあ、さすがの堅物で通している寧さんも、据え膳食わぬは何とや
らでね、鼻の下のばして…へへへ、いただきまーすって。
寧:私がそんな事、言うわけがないだろう。
お前さんじゃないんだから。
若い女の方とこんな深夜に話をしていると、色々とあらぬ誤解を
招きかねません。
また一歩間違えば破廉恥な行為に及びかねない。
せっかくですが、この場はこのままお引き取りください。
とこう言ったんだ。
燕:堅いなぁお前さんも。
深夜に訪ねてきた若い女に言うセリフじゃないよ。
第一その気になった女に対して、このままお引き取りくださいなんて
失礼だろ。
で、女はなんて言ったんだ?
寧:でも、深夜の事で誰も他に見ている者もございません。
どうか今宵一晩、今宵一晩と言って傍へ寄ってくるんだよ。
燕:うんうんうんうん!
じゃ、さすがのお前さんももう。
寧:馬鹿者、早く帰りなさい!
ご両親が心配している!そう怒鳴りつけてやりましたよ。」
燕:ええ、怒鳴りつけたぁ!?
堅い、堅いねぇ!
それで、女はどうしたんだい?」
寧:それがしつこいんだ。
着物の裾をたくし上げてどうか一晩…。
燕:むふぅぁぁ!
そこまでやられちゃうとお前さんも、むはぁー、うふぅー…。
寧:下がれ、見苦しい!
そう一喝した。
燕:っそ、そんなこと言っちまったのか!?
しょうがねえなこりゃあ。
寧:さすがに女はもじもじしながら、いったん戸の外へ出た。
燕:うんうんなるほど、やっと諦めたんだなあ。
寧:ああ、口惜しそうに捨て台詞を吐かれたよ。
小倩:本当に貴方は分からず屋の堅物ね。
燕:【悶えている】
んぐぅあっぎゅうぁぁ!
もったいない事したなぁ!
寧:それで明くる朝、また不思議なことが起こったよ。
燕:ぉ?どうしたんだい?
寧:この寺に泊まっているのは私一人かと思っていたんだけどね。
東の方の棟にもう一人、泊まってた青年がいたんだ。
燕:ふんふん。
寧:その青年が朝になっても起きて来ない、不思議に思った寺の者が行っ
てみると妙な死に方をしていたんだよ。
燕:へぇー、鼻から提灯かなんか出して死んでたのかい?
寧:そうじゃないよ。
足の裏の芯のところに、錐で刺したような小さな穴が開いていてね。
そこから血が糸のように流れている。
どうしてそんな事になったのか、誰も分らないでおかしいと思っていると、
次の朝…今度はその寺の坊さんがやっぱり同じような死に方をしていた。
燕:はぁぁ、吸血鬼って言うのは大概首筋にかみつくって言うけどね。
ひぇぇぇ…足の裏の芯の所に錐で刺したような小さな穴から血が出てたのか。
寧:それで、三日目の晩だよ。
燕:よくまたお前も、そういうところに二日も三日もいられるね。
寧:例の正体不明の若い女がねーー、
燕:あぁあぁあの、最初の夜に来た、十七、八の娘ね。
寧:すぅーっと部屋の中に入ってくるとねーー、
燕:またまっ白い太ももか何か見せて口説こうとしたんだろ。
ちきしょうめ、こんちきしょう。
寧:なんだいそのこんちきしょうというのは。
燕:でも今度はお前も誘いに乗ったんだろ?
寧:今度はそうじゃないんだよ。
小倩:わたくし、今までにずいぶん色々男の方を見て参りましたが、
貴方のようなしっかりした方は初めてでございます。
貴方は本当の聖人です。
ですから、本当の事を申し上げるのでございますが、
わたくしの姓は聶、名は小倩と申しまして、十八の時に死んで
この寺に葬られました。
ところがこの寺に住む化物の夜叉に脅かされて、貴方に厭らしい事
を強いるよう命令され、無理矢理色仕掛けなどをしておりました。
うっ、うう…【泣く】
燕:へえぇ…でもなんだってそんな事をさせてるのかねえ。
寧:いや、私も聞いてみたんだ。
小倩:大概の男は私の色香に迷って言う事を聞いてしまうのです。
その隙に夜叉がやってきて、錐でもって足の裏に穴を開ける。
そうすると男は痺れるような快感によってポーッとなります。
そこを狙って足の裏から生き血を搾り取るのです。
燕:へぇ…でもお前さんは生まれつき堅い人だから助かったと、
こういうわけなんだ?
寧:まぁ、そういうことになるかねえ。」
燕:はぁあ、人間、何が幸いするか分からないもんだなァ。
でもそういうことってあるね。
ちょっとイイ女だなぁと思って気を許すと、
知らないうちに財布の一つ持ってかれちゃったりなんかしてな。
よくあるんだ。
やっぱり、男が一番弱いのは女の色香だからなあ。
寧:そこまで言うと女は楽になったのか、一気にしゃべり始めたよ。
小倩:私は苦界に落ちて彼岸にあがれない、業の深い女です。
ですが、貴方の強い義侠心でもしお救いいただけるなら、
何とか夜叉の手から逃がしていただけませんか。
寧:ふむ…それにはどうすればいいのか?
小倩:寺の北側に白揚の木が一本ございます。
それが私の住処なのですが、夜叉に知られてしまっております。
できることならば、昼間の日の高いうちに白揚の木を抜き取って、
できるだけ遠くへ逃げてください。
そうすれば夜叉から逃げられるかもしれません。
寧:北の白揚の木だな。
わかった、やってみよう。
それで明くる朝、陽がのぼるのと同時に、
寺の北側の白揚の木を抜き取ると、そのまま一日中走り続けて
やっと家までたどり着いた。
で、裏の墓地の北のはずれ、元あった方角と同じところだな。
そこに植えて、薄命な女の為に祈ったな。
詩を詠んでやったよ。
「貴女の古今を憐れみ、我が家近くに葬る。願わくは悪魂に
侵されることなかれ。貧しくも捧げる一杯の酒、永遠に乾ける君の
御胸を潤さん。」
燕:はぁぁ、手厚くやったんだねえ。
寧:祈り終えて帰りかけると、後ろで私を呼ぶ声がするんだ。
振り向くとね、いま弔ったばかりのあの哀れな女、小倩だった。
小倩:一緒に連れていってください。
ここなら夜叉に見つかることもなく暮らせます。
昼間だけ、昼間だけぜひとも貴方様と貴方様のお母様の為に
尽くしたいんです。
どうかお願いします。
寧:そう泣いて頼むんだ。
仕方がないから昼間、家で色々な仕事をして働いてもらって、
夜は自分の住処の白揚の木に戻ってもらっていたんだ。
燕:じゃ、じゃあ、あの女はいったん死んだ…死んだ幽霊だったのか。
寧:まあ、そういうことだな。
燕:いやあ、そうかあ…良かったなァ。
上手くやったな、万々歳だなあ、万々歳!」
寧:何が良かった万々歳だよ。
町内の誰かさんのおかげで妙な噂が立って、
それが金華の夜叉の耳に入ってしまったんだ。
近いうちにやってくると言うので、近頃の小倩は怯えきって
おどおどしてるじゃないか!
この事は一体どうしてくれるんだ?
燕:そらぁ大変だ。
そうだったらよ、緊急朝来人事寄合を開こう。
何とかしてその夜叉から小倩さんを守るようにしようじゃないか。
それじゃ、帰って今から皆と相談するよ。
語り:というわけで燕は急いで寄合を開き、そこで町内の有志が小倩さん
を夜叉から守る会を結成。そこに解散した山口百恵を守る会が合流
するなど、続々と集まって騒ぎが大きくなってしまった。
また個人や小規模集団からも、家にあったお守りだの、クラス一同
でカンパした化け物退治の武器だの、あげくにはニンニクや十字架
まで、なにかと間違えて送られてくる始末。
そのうちいよいよ明日あたり夜叉がやってきそうだとなると、前日
から寧の家周辺は週刊誌、新聞社、テレビラジオ局のマスコミ関係
者が勢ぞろい。
撮影アングルの一番いい場所を巡ってカメラマンが陣取り合戦、
生録マニアはステレオマイクを林のように立て並べ持ち。
放送局ではニュースセンター九時、ゲストは小倩を夜叉から守る会
、略して小夜会の会長です、なんてもう大変な騒ぎでございます。
当日は守る会の男達が、手に手に武器を持って寧の家を守る。
そして真夜中近く。
町民1:へへ…さあ夜叉め、いつでも来いってんだ。
町民2:そう言ってるわりには足が震えてるぞ…って、おい見ろ!
町民1:な、なななんだありゃあ…!?
町民2:東の空から光の塊が飛鳥のように飛んでくる…!
あっ、じ、地面に!!
町民1:うわぁぁ来たぞ!
夜叉だぁ!夜叉だ夜叉だ夜叉だァ―――ッ!
町民2:稲妻みてえにギラギラギラギラ目ぇ光らして、
真っ赤な大口開けやがったぞ!
町民1:うわああ食われるゥゥ!
町民2:バカ、怖気づいてどうするんだ!
小倩さんを守るんだ!
いくぞぉぉぉ!!
町民1:っこ、こうなりゃヤケだああああ!!
町民2:行くぞぉぉぉーーー!!!
語り:夜叉はグゥゥアアーーーッ、グゥゥアアーーーッなんて唸り声を
上げながら応戦するも、そうはさせじと守る会の必死の防衛戦の
おかげで、形勢不利と見たのか逃げてしまった。
町民1:いやぁよかった良かった、良かったなァ!
町民2:しかし、大変な化物でしたなあ。
町民1:なぁにを言ってんだ。
あんなものはいくら来たって大丈夫だぜ。
ひと捻りだよ!
町民2:だがまたやってくるに違いない。
みんな、気合を入れ直そう!
語り:あくる夜も同じ時刻が近づきますってえと、守る会の面々は
武器を握りしめて待ち構えます。
町民1:さあそろそろまたやってくるぞぉー!
町民2:やってきますよ皆さん!
気を抜かないで下さいよ!
……うん?
町民1:なんだ、この音…。
町民2:足音だ…それも裸足の。
町民1:たしかに…、ひたっ、ひたっ、と聞こえる…。
町民2:俺ァまたてっきり、グワァーーガガガガァーッグラグラグラ―ッ
てくると思ったんだが…何だろう?
寧:皆さんはここにいてください。
私が様子を見て来ます。
町民2:わ、わかった!
町民1:寧さん、気をつけなよ!
語り:中国版・石部健吉の寧が一人で様子を見に行く。
しばらくして帰ってきたが、その顔を見ると真っ青で震えている。
町民1:!?ど、どうしたんだ寧さん!
町民2:そんなに怯えて…いったい何を見たんだい!?
寧:あ、あぁぁ…ダメだ今夜は…。
語り:昨日よりも恐ろしい妖怪が来るのかと思い、
みんな固唾を飲んでいる。
やがて遠目にその姿が闇に浮かび上がった。
誰かが息を飲んだ。
小倩など及びもつかない、若くて美しい女が一人、
ひたっ、ひたっ、ひたっ、ひたっ、ひたっ、ひたっ、
歩いてきた。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
柳家小三治(十代目)