第六話 乳母の言い分
「――昨日の朝に出てきた、あの麦粥をもう一度用意してちょうだい。それから白湯と、スープ用の器も」
侍女たちもリーゼ自身も気乗りしない昼食の時間が近づき、途方に暮れている侍女たちにリーゼが助け舟を出したのは、絆されたわけではなく完全に単なる気まぐれだった。
この邸に来てから自分から食べ物を所望したことのなかったリーゼの言葉に、侍女のひとりが慌てて厨房に走っていく。
しばらくして運ばれてきた麦粥を給仕しようとする侍女を制止し、リーゼは粥鍋の蓋を開けた。
中に混ざっている具材は多少違うが、濃厚なクリームで煮詰められたミルク粥は昨朝と同じもの。このまま食べたら気持ち悪くなって戻してしまうことは分かっている。
リーゼは粥を半分だけ器に移し、そこに躊躇いなく白湯を投入した。匙で適当にぐるぐる掻き混ぜて、むっつりしたままひと口掬う。
噛んで飲み込んで、事務的に繰り返して器の中身をすべて空けると、侍女の期待の視線を他所に残りの粥をあっさり下げさせた。
量としては半分しか腹に収めていないのだが、それでも侍女たちはリーゼが食べられたことをまず喜ぶべきだと判断したようだ。
侍女のひとりが「ナッハトラウム卿に報告してきます!」と飛び出していったので、もしかするとリーゼの食事事情は結構な大事として扱われていたのかもしれない。
「姫様。……その、先ほどのような味付けは、姫様にとっての美味なのでしょうか?」
喜び合う侍女の合間からコルベラが恐る恐る尋ねてくる。貴族階級の美食とはかけ離れた食事だから心配しているのだろう。
リーゼは白々とコルベラを一蹴した。
「不味いわよ。薄めた粥を好んで食べる人間がいるわけないじゃない」
美味しくても体質に合わない料理を並べられて腹を壊すくらいなら、味がしなくても食べられるものを飲み込むしかない。
あんなものを食べさせるのが嫌なら早くリーゼが食べられる食事を用意してもらいたいものだ。このままだとこの邸で食べられる食事を見つけ出すより、リーゼが飢え死にするほうが早そうだけれど。
すっかり食事には期待していなかったリーゼは、ところが夕食に侍女が困惑がちに出してきたスープ皿を見て、驚くことになった。
やけに具材がぎっしり入っているが、スープは白く透き通っていて、ほのかな塩味の他は香辛料や香草の風味はほとんどしない。
随分と上品な味付けではあるものの、リーゼが女官宿舎で食べてきたスープによく似ていた。
大振りの野菜はカトラリーで切り分ける必要もなく、存外よく煮込まれて柔らかくすぐにほどけた。
リーゼは洗濯女官だったのでわりあい早めの時間に夕食にありつけたが、ときどき厨房の応援に回されると夕食の時間は王侯貴族たちの食事のあとになるため、そのときは何度も温め直されてくたくたになった鍋の具材を食べたものだった。
同じ食感を思い出しながら匙を進めているうちに、いつの間にかスープ皿は空になっていた。
久しぶりに満腹まで食べた気がする。
貴族階級の食事にしては質素に過ぎる料理に困惑していた侍女たちも、初めてリーゼが食事を完食した事実の前に些事への拘りを捨て、抱き合わんばかりに喜んだ。
昼食のときといい大袈裟な反応だと思うのだが、コルベラまで「よろしゅうございました」と嬉しそうに言うので少しばかり居心地が悪い。
「しばらくはあのスープで少しずつ食材や味付けに慣れて参りましょう。大丈夫ですよ。いきなり貴族用の正餐を食せなどとは、ナッハトラウム卿もおっしゃいませんから」
コルベラだけを伴った湯浴みの最中に、彼女は穏やかにそう言った。
あの男はそんなことまで口を出してくるのかと辟易したリーゼを困り顔の笑みで見つめ、真っ赤な髪を優しく泡で洗いながら言う。
「……姫様が普段召し上がっていたお食事を調べるようにと、卿がわたくしにご命令なさったのです。女官を統率する立場でありながらお恥ずかしいことですが、わたくしも下級女官の宿舎の食事がどのようなものか把握しておりませんでしたので、午後から姫様のお側を離れて王城に行って参りました。今日の姫様のご夕食は、わたくしの報告を基に卿が厨房長と話し合って作らせたものだったのですよ」
ふうん、そう、とリーゼは気のない返事をした。それ以外にどう反応したらいいのか分からなかった。
あのガイウスが、リーゼの今までの食事を調べて、それに寄せた料理をわざわざ作らせた。リーゼの中のガイウスはそんなことをするような男ではない。
――平民リーゼとしての名を捨てろと言った、冷徹な眼差しが脳裏をよぎった。
されるがままに体を洗われながら黙りこくっているリーゼに、コルベラはあくまで柔らかく言葉を続けた。
「……卿は、ガイウスは、お見合い話で話題に挙がるような部分は一見涼しげな顔でこなすように見えますが、実のところあまり器用な男ではないのです。ですが、姫様にユスブレヒト殿下と並ぶお立場を必ず取り戻すためにずっと努力してきたことは確かです。ガイウスが姫様にしでかしたことを、許してほしいとは申し上げませんが……ガイウスの心遣いの一部でも、姫様が受け取ってくださることを、わたくしも願っております」
どうして、私が、あんな男のことを。
むかむかとせり上がってくる反抗心を堪えているリーゼに気づいているのかいないのか、コルベラはそれ以上は何も言わずに口を閉じた。
泡立てた海綿でリーゼの指先まで拭い、祈術具が作り出した湯をそっとかけて、飛沫が跳ねないように石鹸を流していく。
沈黙に耐えられなかったのはリーゼのほうだった。
「……コルベラ、貴女の称号は『ディス』だったはずよね」
コルベラの家名であるクレーエンは三等爵家である。生まれながらに一等爵家の『ノイン』を持ち、自力で二等爵の『ゼーア』の称号を賜る男の名を呼び捨てにするのはなぜかと問えば、コルベラはああと頬を緩めた。
「わたくしはガイウスの乳母を務めておりましたゆえ、ガイウスのことは幼少のころより存じているのですよ」
一等爵家の子息に三等爵家の子息。ゆくゆくは側近にするためにそういう組み合わせの乳兄弟を作ることは貴族社会ではよくあることだ。
息子同然に育てた乳母としてはガイウスの肩を持ちたくなるのだろう。
リーゼは喉に力を込めて頑なな声で言った。
「……私は、あの男と同じくらい、コルベラ、貴女のことも厭わしいと思っているのよ。貴女の進言など聞き入れる気はないわ」
コルベラの苦笑混じりの吐息が降ってくる。
リーゼが浴槽から立ち上がると、コルベラが慌てて浴用ガウンを羽織らせた。
リーゼはガウンの前を合わせ、コルベラのほうを見ないまま脱衣用の衝立に手をかけた。
「だから、今から言うことはただのひとり言よ。……ユスが過ごしていた場所で暮らせることは、純粋に嬉しいと思っているわ。食事のことも、そろそろ吐くのがつらくなってきたところだったから、助かっていると言えなくもないわね」
言い捨てて唇を曲げるリーゼを「ガイウスにそのように伝えますね」というコルベラの声が追いかけてきた。
リーゼは低い声で「勝手にしたら」と呟いて、にこにこしているコルベラから顔を背けた。