第四話 檻の中
先程誤って第五話を先に投稿してしまいました。ご覧になって混乱された方がいらっしゃいましたら申し訳ございません。
ガイウスが出ていったあと、コルベラは服を切り裂かれて頭から湯を被ったリーゼの見るも無残な姿に絶句していたが、我に返ってきびきび指示を出して他の侍女たちを浴室の準備に向かわせると、寝台の傍に膝をついてリーゼの手をそっと捧げ持ち、深々とこうべを垂れて礼を取った。
リーゼは冷ややかにその礼を受け取りながら、自分の手首にガイウスに押さえつけられたときの痣ができていることを知って、ぞっと肌を粟立たせた。
侍女たちが浴槽の準備が整ったと報告を寄越すころには、諸々の衝撃から抜け出したリーゼは、自分に降りかかった理不尽に苛立ちをすっかり募らせていた。
普段からリーゼを目の敵にして散々小言をぶつけてきたコルベラが、リーゼに従順に傅くのをいいことに、他の侍女を全員追い出して湯浴みの介添えにコルベラを指名する。
湯舟でふんぞり返ってお世辞にも綺麗とは言えない体を洗わせ、中途半端に染め粉の落ちたまだらな髪を何度も湯に晒して拭わせ、傷んでぱさついた毛先を香油をつけた櫛でたっぷり梳かせ、上質な布地で仕立てられた手間のかかる衣装を一から着付けさせ――
そこで八つ当たりと意趣返しを果たしたリーゼは溜飲を下げたが、コルベラはなぜか嬉しそうに破顔して、さらに甲斐甲斐しくリーゼの周囲を動き回っていた。
「わたくしは八年前にユ―リア様の離宮で女官を務めておりました。宮付きではありましたがお部屋付きの侍女ではございませんでしたので、リティーツィア姫様に直にお目にかかることもほとんどなく、姫様は覚えていらっしゃらないかもしれませんが……再び姫様にお仕えすることができてわたくしはたいへん光栄に存じます」
コルベラはそう語るが、ほとんど薄れてしまった遠い記憶を探ってみるまでもなく、リーゼはコルベラの顔など知らなかった。
ふうん、そう、と気のない返事をするリーゼにコルベラは悲しげに目を伏せたが、知らないものは知らない。一年以上自分の部下として顎でこき使ってきた相手にすぐに礼を尽くすことのできる神経も、リーゼには理解できない。
「リティーツィア姫様にはしばらくこの邸にご滞在いただくことになります。宮廷儀礼と王族の教養を身につけ、同時に祈力の扱いに関しても神殿より神官を呼んで修練を積んでいただきます。秋の――リティーツィア姫様の成人のお誕生日までには宮廷入りしてお披露目を済ませなければなりませんから、多少のご多忙はどうかご容赦くださいませね」
リーゼにつけられた侍女らはどうやら大なり小なり、かつて国王の愛妾であったユーリアに関係のある人間が揃えられたらしい。
彼女たちはさも嬉しそうにリーゼの周囲に侍り、母譲りのリーゼの髪と目を美しいと褒めそやし、『神殿での奉仕活動』に荒れた手や傷んだ髪を我がことのように嘆き、これまで打ち捨てられていた国王の娘をいっそう憐れむように「リティーツィア姫様」「リティーツィア様」と囀る。
コルベラですら何の疑問も持たない顔でリーゼを昔の名で呼び続けるので、リーゼは我慢の限界に達して侍女たちを睥睨した。
「――私は貴女たちに、名を呼ぶ許可を与えたつもりはないわ。それとも母の離宮に上がっていた女官は、主に許可も得ぬままに無粋に御名を呼ぶような、礼儀知らずの集まりだったのかしら」
ひとりにして、食事も着替えもお茶も不要、呼ぶまで部屋に入ってこないで、と慌てて平伏する侍女たちを下がらせて、リーゼはしんと静まり返った部屋でため息をつく。
瀟洒な家具と数々の生活用祈術具が揃えられた豪勢な部屋の内装も、平民には手を触れることもできないような華やかな服飾品や宝石類も、窓の外に広がる貴族街の美しい街並みも、リーゼの沈んだ心にはちっとも響かない。
街並みの奥に尖塔の並び立つ王城が見えた。次にあそこに戻るときは、きっともうリーゼは下級女官リーゼではなく、王女リティーツィアと名乗っているのだろう。
部屋に備えつけられた鏡台の前に立ち、戸惑いながら埋め込まれた薄緑色の水晶石に指を触れた。
指先からするりと何かが吸い出されていく感覚があって、鏡面が水紋のように揺らめく。
真っ赤な髪に金色の目の貴族然とした少女が映り込む。
毎日見ている自分の顔立ちはまったく変わっていないはずなのに、身に帯びる色合いを変え、肌にまとう衣を替え、髪を梳って整えただけで、今日までの平民のリーゼが八年前に死んだはずの王女リティーツィアに生まれ変わってしまった。
懐かしいと浮き立ってもよさそうな自分の姿に、リーゼはなぜだか泣き出したいような気持ちになって、堪らずその場を離れてふらふらと続きの居間に足を運んだ。
なんだか疲れた。とても体が重い。
横になりたかったけれど、リーゼに当てがわれた隣の寝室のベッドはつい先ほどガイウスに押さえつけられて散々痛い目を見た場所だ。
シーツも毛布も取り替えられているが、自分から横たわろうとは思えなかった。
結局クッション付きの肘掛け椅子を窓際まで引っ張っていって、その上に足を抱えるようにして収まった。
鍵穴も見当たらないのに窓は開かなかった。きっとこれも祈術なのだろう。
それでも息の詰まるこの部屋で一番新鮮な空気に触れられそうな気がして、初春の柔らかな陽射しの降り注ぐ窓辺で束の間リーゼは目を閉じた。
眠るつもりはなかったが、目を開けると部屋は薄暗くなっていた。
どれくらい寝ていたのか、瞼を擦りながら時刻を確認する。
祈術具を扱えない平民の住まいならとっくに照明灯の点火に走り回っている頃合いだが、貴族の邸宅では明かりはどこでどのように点けるのだろうか。
疑問に思いながらも自分で動くのが億劫で、リーゼは街灯が点き始めた眼下の街並みを、ぼんやり眺めていた。
立派な邸の立ち並ぶ整備された貴族街の遥か向こうに、小高い山の頂上に聳え立つ巨木が見えた。
――大地に加護を与えるという、聖樹。
ブロア王国が管理する紅焔の聖樹は王都のどこからでも見えるようになっていて、夕闇の中でも淡い赤みの光を帯びてぼんやり浮かび上がっているのは、照明で光らせているというわけではなく、聖樹に咲く赤い花自身が常に祝福の光の粒子を放っているからなのだという。
リーゼがリティーツィアであったころの時代には、聖樹の頂には赤い花が咲き乱れ、この燐光も王都中を覆うほどだったというのだから、聖樹に捧げる祈りを媒介する国王が祈力器官を損なったという話もリーゼが思う以上に大事なのかもしれない。
「……姫様。コルベラでございます。入ってもよろしゅうございますか」
ドアがノックされてコルベラの声が聞こえてきた。
ちょうどいいから明かりを点けてもらおうと、深く考えずに入室の許可を出して、リーゼはすぐに後悔することになった。
コルベラが真っ暗な部屋に驚いて照明の祈術具を灯していく。
眩しさに一瞬目を細めたリーゼは、コルベラの横に佇む人影に気づいて、ぞわりと背筋を凍りつかせた。
「まあ、姫様、そのような格好で――」
リーゼが椅子の上で丸くなるように縮こまっている様子にコルベラが何事か言っていたが、リーゼの耳にはその声は届いていなかった。
「――来ないで!」
悲鳴を上げるリーゼに、コルベラと――戸口にいたガイウスが立ち尽くす。
リーゼはガイウスを睨みつけ、クッションを抱きしめるようにして、震える声で侍女の名を呼んだ。
「コルベラ、貴女はこちら――ここにいなさい」
先ほどは追い払ったくせに都合のいいことを言っている自覚はあったが、明らかに怯えているリーゼに何か勘づくところがあったのか、コルベラはリーゼの望む通りに傍に近づいてきた。
手を差し伸べ、リーゼがその手に手を重ねることはせずにコルベラの袖を掴んでも、気遣わしげな目をするだけで好きなようにさせる。
「何の用」
コルベラがリーゼを守るように一歩前に立ったので、少しだけ宥められた気持ちでリーゼはガイウスを見据えた。
本当は今すぐ出ていけと言ってやりたいが、ここはガイウスが差配する邸である。リーゼは――コルベラが言うところでは賓客として――留め置かれているに過ぎない。
「……食事を拒絶していると聞いたが」
「食べる気にならないだけ」
「そのまま餓死するつもりか」
大袈裟なことを言う。
毎日四食の食事を取る貴族の基準では、昼食も夕食も取らないリーゼは不健康に映るのだろうか。
リーゼは“持つ者”特有の視野の狭さを嘲笑した。
「王城で下級女官に供される食事は昼と深夜の二回だったわ。さっきコルベラたちが用意したお茶と茶菓子は、下級女官の宿舎で出される昼食よりも豪勢だったわよ。これ以上食べたら次に私の胃が何かを受けつけるようになるまで何日かかるのかしらね」
上質な麦と砂糖と乳製品をたっぷり使った焼き菓子は、手のひらに載る程度の大きさの薄切りパンと塩漬け野菜のスープ一杯で生活してきたリーゼには重すぎた。
茶菓子もほとんど残して侍女たちに下げ渡し、それ以降リーゼは食べ物を口に入れる行為そのものを一切拒絶している。この調子で貴族の常識に沿って食事を続ければ、数日は胃もたれに苦しむことになると自分で分かっているからだ。
それを取るに足らない反抗だと思われているのだとしたら、とんだ笑い話である。
「貴方たちに王の娘を餓死させた汚名を着せるのは気分が空くかもしれないけれど、そんなことのためにそんな馬鹿馬鹿しいことに体を張ったりしないわ」
「……夫人、まずは麦粥かパン粥から食べさせろ。このままでは貧相で見るに耐えないが、食事自体が摂れなくなるのでは本末転倒だ」
コルベラは神妙に頷いているが、リーゼは果たしてその粥も食べられたものかどうか怪しいと睨んでいた。
麦粥もパン粥も乳製品で煮詰めた病人食だが、貴族階級に流通している濃厚なミルクと平民が口にできる水で薄められた乳汁に雲泥の差があることを、ガイウスやコルベラは理解できているのだろうか。
あまり期待せずにいようと早々に諦めて聞き流すリーゼを、ガイウスが眉間に皺を寄せて見据えている。
まだ何かあるのだろうか。話が終わったのならさっさと出ていってほしい。
ガイウスを部屋に留まらせるくらいなら、あの騒がしい侍女たちを部屋に置いて勝手に囀らせておくほうがまだましだ。
「……他には」
「なに」
「他に要望はあるか。……王女として王城に連れていき、成人の儀を受けてもらうことは決定事項だが、それ以外のことについては、可能な限り望みに適うよう便宜を図る」
望み。リーゼは再び鼻で笑いたくなるのを堪えて、うんざりとガイウスを見遣った。
ここまでリーゼの意思をことごとく無視してきた男の言葉とは到底思えない。
なら今すぐこの部屋から出ていけ、金輪際二度と顔を見せるなと言ったら、この男はどうするのだろうか。
王城入りしたあとのリティーツィア王女の主席側近を務めることになるのは、きっとこの男だろうに。
「……それなら、部屋を替えて」
無理難題を言って困らせるのも一興だったが、ガイウスの不興を買ってまた寝台に縛りつけられるような事態はごめんだった。
少し考えてリーゼが口にした望みに、ガイウスが不可解そうに目を細めた。
その表情の変化が氷のような硬質な美貌をさらに冷酷なものに見せるような気がして、リーゼは唾を飲み込む。
「何か不服が?」
「ここでなければどこでも、空きがないなら屋根裏部屋でも何でもいいわ。ここだと落ち着かないの。……ここにいると気が休まらないのよ」
このままだとリーゼは、この椅子か、そちらのソファーで毎晩を明かすことになるだろう。
硬い藁葺きベッドで寝ることに慣れているリーゼにとってはクッションに身を預けられるだけで上等だが、リーゼにまとわりつく侍女たちが騒ぎ立てることは必至だ。
高位貴族の邸に他に空いている客間がないとは思えないけれど、今リーゼに与えられているこの部屋は、きっとリーゼのために整えられた部屋だろうと思う。
女性向けの意匠の家具や調度品をわざわざ用立てたのだとしたら、リーゼの部屋を移りたいという要望はガイウスの手間をひとつ増やすだけでなく、この部屋にかけた分の手間をまるごと無に帰すものになる。
聞き入れられるだろうか、はたまた激昂されるだろうか、また恐ろしいことをされるだろうか――
じっと警戒するリーゼを感情の窺えない目で見ていたガイウスは、不意に顔を逸らして、小さな声で答えた。
「……分かった。別に部屋を用意させる。数日中には用意が整うはずだが、それまでの間は暫定的に隣室を使え。夫人、王女殿下を隣室へ」
言うなり身を翻して出ていこうとするガイウスを、ねえ、ちょっと、とリーゼは呼び止めた。
ぴたりと足を止めて視線だけで振り向くガイウスを精一杯睨む。
「私の下級女官の登録は、どうなるの」
「明日、退職の手続きを書類上で済ませる。……夫人から聞いていないのか」
「他の侍女がいる場で私が王城の下級女官務めをしていたことを話しても良かったの?」
「人払いをかけろ」
「別用でコルベラだけを私の近くに置いてみたら、他の侍女たちがまるでコルベラが私から一の信を得たような扱いをし始めたわ。コルベラ以外を残した人払いなんてそれに拍車をかけるようなものじゃない」
暗にコルベラなど信用するに値しない、そう周囲から思われることすら我慢ならないと言いきって、リーゼはコルベラの袖を掴む手をほどいた。
ガイウスはそれにも顔を顰める。
「クレーエン夫人は、いずれリティーツィア王女の筆頭侍女になる」
「どうでもいいわ。勝手にして」
主からの信頼を得ていない筆頭侍女など笑い者になるだけだろうが、リーゼが自分で選んだわけでもない。経緯が経緯だけにこれから先も信頼を置くかどうかは分からない。
「……呼び止めた用件は、それだけか」
「……そうね。やっぱりいいわ。それだけよ」
本当は女官宿舎で同室だったあのお喋り好きの同僚にひと言挨拶をしたかったけれど、その伝言をガイウスやコルベラに頼むのは嫌だった。
どうせ二度と直に口を利けない相手になるのだから、最後の挨拶ができなかったからといって何になるわけでもない。
視線を外して話の終わりを告げると、「明後日から家庭教師と神官を呼ぶ。そのつもりでいろ」と素っ気なく言い置いてガイウスが部屋を出ていく。
その姿が扉の奥に消えて見えなくなった途端、リーゼの肩から力が抜けた。
思いの外自分が緊張していたらしいことを嫌でも自覚しながら、案じる目をするコルベラを払いのけるように立ち上がり、隣室に案内するよう命じる。
とにかくこの息の詰まる部屋から早く離れたかった。
夕食は絶対に要らないと突っぱね、窮屈な貴族向けの日中用衣装を解いて、軽すぎて落ち着かない寝着に替え、新たに用意された寝室のベッドにようやく横になる。
不寝番は外で控えるように言って侍女はすべて寝室から追い出した。
だだっ広い寝台に身を沈めて、リーゼはそれ以上の考え事を拒むように、きつく目を瞑った。