第三話 暴挙
「――おまえの言い分は、よく分かった」
不意にガイウスが言った。
案外あっさり引き下がるものだと拍子抜けしかけたリーゼは、その考えが間違っていたことをすぐに思い知った。
いつの間にか触れそうなほど接近していたガイウスが、リーゼに向かって手を翳した。
その手のひらから光の粒子が溢れたかと思うと、光は帯のような形を取ってするりとリーゼの腕を絡め取り、瞬く間にリーゼをベッドに縛りつけた。
「なっ……!」
「あくまでも自分は平民のリーゼだと言うのだろう。ならばもはやおまえの意思など尊重する必要もない。私はノインの後継者、ゼーアを賜る者。聖樹に刻むべき位階を持たぬ平民が、聖樹の加護を受けた我が意に反することは許さない」
ガイウスが寝台に乗り上げて、もがくリーゼの手足を自重で押さえつける。
息がかかりそうなほど至近距離から鋭い視線に貫かれて、リーゼは咄嗟に息を呑んだ。
リーゼの四肢の自由を奪う男の双眸は、切り刻まれてしまいそうなほど冷徹でありながら、その最奥に底知れぬ烈しい怒りの炎を燃やしていた。
「――ガイウス・ゼーア・ナッハトラウムの名において命じる。平民リーゼ、おまえはその名をここで捨て、これより先は王女リティーツィアとして生きろ」
凍てつく声で告げ、ガイウスはリーゼの胸の前ですっと指を走らせた。
一瞬あと、はらりと音を立てそうなほどすべらかにリーゼが着ていた衣服の前合わせが解け、上着の間から覗いた下着までまっぷたつに裂ける。
人の目に晒すことのない部分が空気に触れる感覚にリーゼは初めてぞくりと肌を粟立たせた。
「い、いや――やめ、」
「黙れ。動くな」
暴れかけたリーゼを鋭く戒め、ガイウスは躊躇いなくリーゼの胸に手を伸ばした。
ひ、と喉を鳴らしてリーゼは身を強張らせたが、その手はちょうど心臓の真上から指一本ほどのところで動きを止め、リーゼの慎ましやかな膨らみには触れる気配もない。
息を詰めたリーゼは、ガイウスの手のひらから再び溢れ出す光の粒子に目を見開いた。
ガイウスの手に呼応するようにリーゼの肌に光の線が走る。
心臓を中心として、腕や手の指先まで全身にその線が伸びていく光景を固唾を呑んで見つめていたリーゼは、次の瞬間全身を貫いた激痛に、我を忘れて絶叫した。
「ああああああああーーーーーーー!」
痛い。熱い。痛い熱い痛い熱い痛い。
熱した刃で皮膚を抉り削がれるような痛みが全身を襲う。
リーゼは死に物狂いでガイウスの手から逃れようともがくが、ガイウスは暴れるリーゼを顔色ひとつ変えずになおも押さえつけ、「暴れるな。苦痛が長引くだけだ」と冷たく言い放った。
リーゼが泣いて叫んでも、その手が緩むことはなかった。
絶叫を上げ続けた喉が嗄れ、涙や涎で顔がぐちゃぐちゃになり、脂汗と冷や汗でまとわりつく衣類がじっとりと湿るころ、リーゼの全身に浮かび上がっていた光の線がようやく消えた。
激痛から解放されたリーゼはぐったりと体から力を抜き、は――は――と胸を喘がせながら虚ろな眼でガイウスを見上げる。
ガイウスはリーゼの上から身を起こすと、ひとつ息をつき、少しタイを直すだけで元の隙のない出で立ちに戻って、満身創痍のリーゼを見下ろした。
「……起き上がれるか」
緩慢に瞬きを繰り返すリーゼに眉をひそめ、腰を屈めてリーゼへと片手を伸ばす。
リーゼが体を起こすために手を貸そうとしたのだと気づく前に、体が勝手に竦んだ。
怯えたように肩を震わせるリーゼにガイウスが動きを止め、そっと手を下ろしてベッドから離れていく。
部屋の反対側の壁際まで距離を取ってから、少しだけ声の温度を和らげて言った。
「起き上がれなければ、そのままでいい。……話は、できるか?」
あれほどリーゼに無体を働き苦痛を強いたくせに、今さら気遣うようなことを言うのか。
普段のリーゼにならそんな当てこすりも浮かんだかもしれないが、リーゼの思考回路は麻痺したように鈍くなっていてうまく回らなかった。
首を巡らせてガイウスをぼんやり見つめるリーゼに、再びガイウスは眉をひそめた。
「……その髪は、」
「……」
「……おまえの祈力の封じを解いた。今はまだ感覚が掴めていないかもしれないが、元より器に収まるべき中身だ、じきに馴染むだろう。既に瞳の色は元の色に戻っている。……髪の色も、戻るかと思っていたが、それは祈力由来の色の変化ではなかったか」
身も世もなく頭を打ち振ったせいで帽子が外れ、結ぶものもなくただ収めていただけの暗褐色の髪が、シーツに散らばっている。
ガイウスははっきり疎ましげに見つめていた。
「リティーツィア王女の鮮やかな真紅の美しい髪は、軍神の加護篤き証左であると同時に、ユ―リア様の御子である確たる証拠でもあった。幼少期の髪色が成長に従って変化することはままあるが……」
「…………」
しばらくリーゼの返答を待つように黙っていたが、やがて諦めたようにガイウスが顔を逸らした。
そのまま部屋を出ていこうとする後ろ姿にリーゼはぽつりと呟いた。
「……髪は、染めているから」
ガイウスが振り向く。
リーゼはがくがくする腕をどうにかシーツに突き立てて、重たい体を持ち上げた。
散々暴れたせいでスカートが太腿までめくれ上がっているのに気がついて、慌ててスカートの裾を伸ばして脚を覆う。
腰や肘にまとわりつくように引っかかっていた上着をずり上げて、切り裂かれた前を掻き合わせて中の下着を隠す。
震えていて動かしにくい指を手櫛にして、べたつく暗褐色の髪をのろのろと梳いた。
「……染めた?」
「私の赤髪は、目立つから。リティーツィアが赤い髪をしていたことを知っているのは、離宮に出入りしていた人間くらいだったでしょうけれど……平民があまり目立つ容貌で外を出歩いていると、人買いに攫われるの。余計な視線を集めるのは、煩わしかったから」
ガイウスが顔を歪めた。
口振りから察するに彼はリティーツィアの赤い髪に少なからず思い入れがあったようだった。あまり耳に好ましい話ではなかったのだろう。
「……お気に障るなら、お湯を用意してもらえれば、すぐに落とすわ」
「水で落ちるのか」
「雨や汗では落ちないように配合してあるの。ある程度の量のお湯でないと――」
それ以上言わせてもらえなかった。
ガイウスが手のひらを掲げたと思うと、頭上から大量の湯がいきなり降ってきたからだ。
温度は人肌ほどだったので火傷をすることはなかったが、湯を飲み込んでしまってひとしきり噎せてから、リーゼは雫の滴る前髪の合間から呆然としてガイウスを見つめた。
祈術で生み出された湯に染め粉の褐色が溶け出して、リーゼの仕着せごとシーツを汚していた。
ガイウスが手元で鈴を鳴らした。
部屋に揃いの仕着せをまとった使用人が入室してくる。
そこには王城の東宮付き女官長であるはずのコルベラの姿もあって、リーゼは初めからガイウスとコルベラが結託していたことを知った。
「……この者たちをおまえの傍付きとしてつける。染め粉の残りはこの侍女たちに落とさせろ。染め粉がすべて落ちるまで湯殿から出ることを禁じる。クレーエン夫人、湯の支度を。あとは任せる」
ガイウスは一方的に告げて今度こそ部屋をあとにした。
リーゼは全身ずぶ濡れになったまま、その背中を見送るしかなかった。