必然の風
紫色の海。
11月なので、人もほとんどいない。
少し雲が出ていて、やわらかな光が、砂浜に模様を描く。
土曜日の午前9時に、こんなふうに、のんびりしてる私。
今まで、日曜日以外は、ずっと仕事してたな。
潮の香りを含んだ風が来た。
なんて爽やかな朝。
私たちの日々は、何だったのかな。
今までの毎日は。
ここで流れる時間は、まるで違う。
私たちが東京で過ごした、あの日々。
同じ時刻に、この海では、こんな時間が流れていた?
わすか、数十キロ先の、空の下では?
信じられない。
あ、電話。
「もうすぐ着くよ。今、有料道路を降りたところ。美穂はどこ?」
「うん。海にいるよ」
「え?海?寒くない?」
「今日はそれほど」
「そっか。俺も、海に向かおうかな」
「信吾、疲れてるんじゃない?」
「うん。そうなのかもだけど、今は眠れそうにないな」
私たちは、東京で、同じ年に、同じ会社に入社した。
入社3年目に結婚し、5年目で会社がなくなろうとしている。
信吾はその会社での、最後の仕事を、この早朝に終えたところ。
私は、先週に仕事が終わったので、先に、ここに来ていた。
千葉県の長生村。
海沿いの、信吾の故郷の村に。
車だと、東京から1時間強の距離だ。
「美穂!」
少し離れたところから、信吾の声。
思ったより早かったな。信吾が砂の上を歩いて来る。
「おはよう!美穂」
今朝も、いい笑顔だ。
信吾はどんな時も、疲れていても二日酔いでも風邪を引いていても、
いつも大きな声で、爽やかに「おはよう!」を言い、この笑顔になる。
私は、この笑顔に、何度救われたことだろうか。
きっと、信吾と関わる全ての人が、好感を持つに違いない、ステキな「おはよう!」だ。
信吾の笑顔に、声をかける。
「おはよう信吾。お疲れさま。だいぶ時間かかったね」
「そうだね。最後だと思うと、なんとなく、余計にちゃんと仕上げなきゃって思って。タダ働きになるかもだけどな」
少し淋しそうに笑った。
「これで、終わったんだね」
「ああ」
信吾は両手を挙げて大きく背伸びをした。
「今日の海はキレイだ。沁みるなぁ」
信吾の言う通りだと思った。なんか、今日の海は、ことさら美しく感じる。
信吾の両親は、2年前に、交通事故で亡くなった。
二人とも、即死だった。
私たちの結婚を見届けてくれたのが、せめてもの。
悲しかった。なんか、不条理だって感じた。
日々を楽しく過ごしている、おだやかな夫婦だった。
信吾には、知佳ちゃんという妹がいるが、今は岡山で暮らしている。
なので、両親が暮らした長生村の家は、信吾が所有することになった。
でも、使い道がないので、知佳ちゃん同意の上で、売却しようとしたが、
全く買い手がつかなかった。
ま、仕方がないところかも。電車に乗るには、茂原駅までバスで50分。築25年の木造2階建て。この条件では。
でも、私たちが、ここで暮らすことになろうとは、夢にも思わなかったな。
信吾は、大きなため息をついてから言った。
「ウチのこと、全部任せてしまって悪かったね」
「引っ越し業者さんが全部してくれたから。お隣の浜田さんご夫婦がみえて、私のこと、知佳ちゃんだと思ったって言われた」
「ハハハ。浜田のおじちゃんおばちゃん、耄碌したかな?似ても似つかない」
徹夜明けでナチュラルハイなのか、信吾は楽しそうに笑った。
「そうねぇ。かわいい知佳ちゃんには、私は全然似てませんねぇ」
笑ってた信吾が、急に慌てたように言った。
「あ、いや。俺にとってはさ、うん。もちろん、美穂のほうが、かわいいと思う」
今度は私が笑ってしまった。
「とってつけ、ありがとうね」
その時、雲が流れて、サッと日が差した。
眩しかった。
会社が、いよいよ危ないとなった時、二人でいろいろ相談した。
でも、二人とも、日々の仕事に追われているので、思考が断片的になり、じっくり考えることもできなかった。
信吾は、いったん辞めて、失業保険の出る間に、夫婦でじっくり考え直そうと言った。
その時に、私が提案したのだった。
「ね、だったら、信吾の実家で、暮らさない?」
ちょうど、借りていた部屋の更新時期でもあったので。
信吾も、ほぼ即断で、賛成してくれた。
「なるほど。その手があったか。うん。どうせ空いているんだし、ある意味ちょうどいい」
元々売るつもりだったので、内装も整っている。
エアコンもついていたので、カーテンや照明器具と、あとは引越業者の手配だけ。
業者もオフシーズンで、すぐ手配できた。
とんとん拍子に事が進み、今、私たちはここにいる。
「全く問題ないな。完璧」
家に戻ると、ひととおり部屋の中を見まわした信吾が言った。
「でしょ?ちょっと、お風呂の形が昭和だけどね」
「ハハ。ま、仮の住まいだから、少し我慢だな」
「うん」
「俺、寝てくる。いいか」
「もちろん」
2階の寝室から、信吾の声がした。
「なんか、東京で使ってたベッドが、自分の実家にあって、そこで寝るって、不思議だ」
そうだろうな。私も、初めて寝た日にそう思ったけど、信吾にとっては自分の実家だから、私とは、また違った感慨があるんだろうな。声のした2階に上がってみたが、信吾はもう眠っていた。
リビングで、音楽を流しながら、次の仕事をどうするか考えていると、電話が。
「美穂ちゃん?久しぶり」
「知佳ちゃん元気?」
「うん。まぁね。相変わらず、忙しくしてる。美穂ちゃんも?」
「私は今週から、のんびりしてるよ」
「え?何それ。旅行でもしてるの?」
「え?信吾から聞いてない?仕事辞めたの。二人して」
「え?え?聞いてない!じゃ、兄貴もいるの?」
「うん。今は寝てるけど」
「全くあの男は。何も言わずに。昼間っから寝てるってか!」
「昨日最後の仕事で徹夜だったの。でもゴメン。私が言うべきだった。信吾、知佳ちゃんには連絡しとくって言ってたんだけどね」
「ま、兄はそんな感じだよ。いつも。美穂ちゃんのせいじゃない。あ、じゃ、ちょうどいいかな」
「何が?」
「急で悪いんだけど、今夜泊めてくれない?」
「え?今東京にいるの?」
「いや、これから新幹線に乗る」
「これから?」
「うん。都合悪い?」
「あ、いや、そうじゃないんだけど、えっと。きっと信吾言ってないと思うけど、今ね、千葉の実家にいるんだ」
「な!え?ちょっと兄、困ったやつ」
「どうする?実家まで来れる?」
「仕事は明日なので、ま、時間的には大丈夫だけど、明日の朝が早くなっちゃうな」
「そっか。東京のホテル予約しとこっか?」
「いや。あ、ちょっとこれから新幹線乗るんで、あとでLINEする」
「わかった。待ってる」
時計を見る。午後2時前。
あの感じだと、17:15東京着の、のぞみに乗ったのかな?
と思っていると、信吾が起きて来た。
「お、YOASOBI聞いてたんだ。ikuraちゃんの声は癒しだねぇ」
「ちょと信吾、それどころじゃないよ」
「え?」
「さっき、知佳ちゃんから電話があって、信吾、実家に引っ越すこと、言ってなかったでしょ?仕事辞めることも」
「あ、忘れてた」
「でね。今夜泊めてほしいって、言われたの」
「東京に来てたんだ」
「いや、これから新幹線で東京に着くみたい」
「そっか。美穂が大丈夫なら、来てもいいよって連絡しようか?」
「今日は移動だけで、仕事は明日みたい。で、朝早いみたいだった」
「じゃ、明日の朝の時間次第だな。何時にどこ?ってか、なんで知佳は、いつもいつも、美穂に連絡するんだ?」
「そんなのどうでもいいよ。私はもちろん、泊ってもらうの大丈夫だけど、知佳ちゃんの明日の予定次第だね。今新幹線の中だから、LINEくれることになってるんだけど」
「そっか」
LINEが来た。
「明日の朝は、9時に、舞浜駅前のディズニーアンバサダーホテルに行くことになってるんだけど、私が実家に泊ったとして、間に合うのか、兄に聞いてみてくれる?」
画面ごと、信吾に見せた。
「俺が茂原駅まで送るとして、7:38茂原発の電車。ウチを7時少し前に出れば間に合うな。って、俺が自分でLINEすればいいか。日曜にディズニーって、あいつ本当に仕事か?」
ぶつぶつ言いながら、信吾がLINEを送った。
と、少しして、私のスマホが。
「じゃ、美穂ちゃん、今日よろしくね。兄に、18:51茂原着の電車なので、お迎えよろしくって、伝えといて!」
私が画面を見せる。
「あの野郎。ま、仕方ないか」
二人して笑った。
知佳ちゃんが来ることになったし、信吾に、晩ご飯の買い物に行こうと言うと、信吾は浜田さんにだけは挨拶しとかないとと言って、出て行った。が、1時間経っても戻らず、4時前になって、やっと帰ってきた。
「今年の新米、もらっちゃった。早く子供作れって、そればっか言われた」
なんか、嬉しそうな信吾。久しぶりに、故郷の方と会ったのだから、当然か。でも、急がなきゃ。
「信吾、知佳ちゃん迎えに行くのに、何時に出れば間に合う?」
「えっと、18:51に茂原着だから、6時にウチを出れば充分だね」
「今4時だから、手間のかかる料理は無理だな。お鍋にでもしようか?」
「あ、いいねぇ!ビールとか、買ってある?」
「もう冷えてます」
「さすが美穂だなぁ」
近くのスーパーで、材料を買う。信吾と二人で、ショッピングカートを押す。こんなこと、いつぶりだろう?なんか新鮮だった。見たこともないキノコとか、関係ないものばっかりカートに入れようとする信吾。子供みたい。でも、こんなに楽しそうにしてる信吾、久しぶりに見た気がする。
「私たち、就職してから、今までずっと、忙しかったね」
「うん。本当に。あっという間の5年半だったな」
信吾が、何かを思い出すように少し上のほうに視線を送りつつ、そう言った。
「考えてみると、割とブラックな会社だったね。楽しかったけど」
「ハハハ、ほんとだ。でも、ちゃんと退職金も払ってくれるし、社長も頑張ったんじゃないかな」
「みんな、バラバラになったね」
「うん。ま、仕方ないね。淋しいけど」
今度は、足元を見てる信吾。
「私ね、ほんの数日だけど、ここで過ごして、感じてたの。私たちが東京で過ごしている、同じ時刻に、この海辺の村では、どんな風が吹いてたのかな?って」
「風?」
「うん。なんか、何もかもが違うんだよね。ここは。風を意識できる余裕をくれた、って思った。それに比べて、私たちの東京での日々の正体は、一体何だったんだろうって」
そう。今朝、あの海で感じたこと。
信吾は、少し考え込むような様子を見せて、こう言った。
「美穂の言いたいことが、なんとなく伝わったよ。風、かぁ。美穂は詩人だね。でも、よくわかる気がする。そうだな。立ち止まって、風を感じることが、俺たちには必要だったのかな。今、会社が倒産して、無職になったのは、偶然じゃなかったのかもな」
さ、買い物も終わった。駐車場で、買ったものを車に積む。
車を運転しながら、信吾が言う。
「知佳は、なんで美穂のこと、姉さんとか、言わないのかね?美穂ちゃんて。友達か?」
「私は、その方が嬉しいんだ。友達みたいなもんだよ、実際。2つしか、歳も違わないし」
「うん。そうか。でも、なんか俺以上に、美穂と知佳が、実の姉妹な感じがする時があるんだよね。なんでだろ?」
「あ、その方が、もっと嬉しいかも。私ね、ほんと知佳ちゃん、好きなんだよね」
「それは、俺も嬉しいなぁ。なんか」
信吾は、いい笑顔をしていた。
「でも、やっぱり、知佳ちゃんと信吾は、兄と妹だって思う。しかも、強い絆のある」
「そう?それは意外。2つ上の兄としては、あまり尊敬されてない感じなんだけど」
「うん。尊敬、ではないかな。でも、強い絆。なんでそう思うんだろ?私」
信吾は、静かに笑っていた。
3人で、鍋を囲む。
「ん?美穂ちゃん、これ、何?」
「ヤマブシダケって言うキノコ。信吾が、知らぬ間に買い物かごに入れてたんだよ。子供みたいでしょ?全く」
「じゃ、兄!毒見して!」
「あ?全く兄のことを何だと思ってるんだ!」
「いいから、早く」
楽しそうな信吾。
「うん。あ!熱っち!」
「子供か!」
知佳ちゃんのツッコミの早さ!さすが。私もヤマブシダケの味が気になるので聞いてみる。
「どんな味だった?」
「うん。普通」
「普通って、何やねん!」
知佳ちゃんのツッコミ、再び。
「癖のない味だって言うことだよ。さすが関西で鍛えたツッコミ」
「兄は何度言ったらわかるの?岡山は関西じゃないんだって」
このやりとりを見るのが好きだ。
私は一人っ子だったから、この雰囲気は憧れだ。
私は、知佳ちゃんという妹を持てたのが、本当に嬉しい。
「美穂ちゃん、お料理うまいなぁ」
知佳ちゃんが、ほんわかした笑顔で言う。
「え?いやいや、お鍋は料理とは言えないよ。手抜きでゴメン」
「何言っちゃってるの?鍋、すごく嬉しいんだよ。一人暮らしだと、鍋なんてなかなか食べられないし、ね」
「だからぁ、早く嫁に行け!」
「うるさい!兄!」
いいなぁ。こういうの。
「美穂ちゃん、こんな田舎で暮らすの、イヤじゃない?」
「うううん。私が、信吾にお願いしたの。東京暮らし、ちょっと疲れた気がして」
自分で言って、そうだったのかな?って思った。
「でもね、ここは本当に、何もないところだよ。ね、兄」
「そうだなぁ」
珍しく、少しお酒に酔っているのか、赤い顔をした信吾が相づちを打つ。
私は知佳ちゃんに言った。
「あんなにキレイな海があるじゃん。私、海を見るのが好きだから」
「そう?でもね、いつでも近くにあるものは、あまりありがたいと思わなくなるかも。今では私も、この九十九里の海、いいものだなって思うけど、ここで暮らしてたときは、何とも思わなかったから」
知佳ちゃんが、話の途中で、少し言葉を選んだ気がした。久しぶりの実家で、兄と妹が揃ったのだから、ご両親の話、したいのでは?と思っているのだが、二人とも、その話題を避けているような気がする。お二人が亡くなって、まだ2年しか経っていない。突然両親を失った兄と妹にとって、傷は相当に深く、思い出話をする気持ちには、まだなれないのかも知れない。
楽しい時間が過ぎた。
明日は5時起きしなければいけないので、早めに寝ることにした。
少し早く起きて、朝食の用意。
知佳ちゃんは、朝はあまり食欲がない人なので、食べられない時を想定し、おむすびにした。電車の中で食べられるように。具は鮭と梅干し。お味噌汁は、お豆腐。
「美穂ちゃん、おはよう!」
知佳ちゃんが起きてきて、大きい声で言った。爽やかな笑顔。この挨拶、本当に信吾に似ていて、やっぱり兄と妹なんだなぁって思う。人を幸せにする笑顔だ。お母さん似の信吾とは違って、お父さん似の知佳ちゃんだが、この笑顔は信吾とよく似ていると思った。
「おはよう。知佳ちゃん。ちゃんと寝れた?」
「うん。なんか、久々に熟睡できた気がする」
「それは良かった」
「わ!おむすびだ!大好き!」
「良かった。朝はあまり食べないでしょ?食べられないときは電車の中で食べられるようにって思って」
「ありがとう。全然食べられそう!楽しみ!」
知佳ちゃんが食器の用意を手伝ってくれた。
そろそろ朝の5時だ。信吾が起きてきた。
「おはよう!」
信吾も、大きな声。そして、あの爽やかな笑顔。いいなって、思った。
「いただきまぁす!」
3人で食卓を囲む。少し寒い気がして、暖房を入れた。
「まだ真っ暗だね。天気はどうなんだろ?」
信吾がそう言って、スマホを見た。
「いい天気そうだよ。まだ、空は見えないけど」
私が答えた。
「美穂ちゃん、おむすびの塩加減が絶妙!私も美穂ちゃんみたいなお嫁さんが欲しいなぁ」
「なんでお前がお嫁さんもらうねん!」
変テコな発音の関西弁で、信吾がツッコミを。
「兄、わかってる?美穂ちゃんは、兄にはもったいない、すごいお嫁さんだよ」
「わかってるって」
お味噌汁をすするために、視線を下に落としながら、信吾が答えた。
その時、私は、何気なく、こんな話をした。
「今朝、改めて思ったんだけど、二人とも、いつも元気よく『おはよう!』って言って、笑顔になるでしょ?なんかその感じがよく似てて、やっぱり兄と妹なんだなぁって、思ったよ」
すると、知佳ちゃんが、少し驚いたような表情をして、じっと信吾を見た。信吾も、じっと知佳ちゃんを見ていた。そのうちに、知佳ちゃんの目元から、スーっと、涙が流れた。それを見て、信吾は席を立って、知佳ちゃんのところに行き、知佳ちゃんの頭をそっと撫でた。気づくと、信吾も涙を流しているようだ。二人とも、声もなく、互いを見ていたが、ガタン!と、知佳ちゃんの椅子が音を立てて、兄と妹は、床にヘナヘナと座り込んで、互いに抱き合って、泣いた。声を上げて、泣いていた。
私は、ビックリしてしまったが、少しして、理解した。
二人は、ご両親の葬儀の際、一切涙を見せず、気丈にふるまった。感情を、どこかに置き去りにしたような、そんな様子で。きっと、あまりに突然の別れに、その事実を受け止められなかったのだと思う。それから2年の間、この兄と妹は、消化できない感情を抱えたまま、日々を送っていたのだろう。それが、私の言葉の中の何かを触媒として、頑なだった感情が、ほどけ、溶け出し、溢れ出たのだと思った。やっとやっと、悲しむことができているのだ。私もなんか、泣けてきた。
どのくらいの時間が経過したのだろうか。やがて兄と妹に落ち着きが戻って、今度は互いに笑いだした。
「もうやだ、兄。美穂ちゃんの前で泣くなよ」
「お前が先にだろ!」
知佳ちゃんは、涙を拭って、私のほうに、笑顔を向けた。メイクは直す必要がありそうだが、本当にキレイな笑顔だった。
「美穂ちゃんゴメン。今ね、やっと両親にお別れできた気がする。美穂ちゃんのおかげ。本当に、ありがとう。あぁ、スッキリしたぞ!」
また目元に、うっすらと涙が滲んだ。
「なんで美穂まで泣いてんだ?ハハ、ゴメンな。ビックリしたよな」
そう言って、信吾が私の涙を拭ってくれた。
3人が、互いに平静を取り戻すために、それぞれが、メイクを直したり、顔を洗ったりした。
窓の外に目をやると、空が明るくなりかけていた。
朝まだきの空。群青色。
ふと、時計に目をやると、もう7時を過ぎている。大変!
「ね、知佳ちゃん、もう7時を過ぎちゃった。早くしなきゃね」
「え?うそ。うん。兄、送ってね!」
「おう。でも、予定の電車には間に合わないぞ。今日は休日ダイヤだから、次の電車は何時かな?調べるな」
「え?兄、今なんて言った?」
「え?休日ダイヤって」
「え?」
知佳ちゃんが固まって、自分のスマホを見た。
「兄、大変申し上げにくいのですが、私、日付勘違いしてた」
「あ?」
「今日は日曜日。私が仕事に行くのは、月曜日」
今度は信吾が固まった。
「良かったねぇ!じゃ、今日一日、ゆっくりできるね」
私が言うと、知佳ちゃんは申し訳なさそうに言った。
「せっかく美穂ちゃんに早起きしてもらったのに、ほんと、申し訳ない」
「いいえぇ!全然。無職の夫婦なので、お気遣いなく」
3人で、笑った。
信吾が運転する車で、海に向かう。
せっかく早起きしたんだから、3人で海に行こうと、信吾が言い出した。
今日は、気持ちよく晴れていて、雲一つない。
ほんの数分で、海辺の駐車場に着く。
車を降りて、砂浜を歩く。
乾いた砂の上は歩きづらくて、私はいつも、足を取られそうになるけれど、
信吾と知佳ちゃんは、普通に歩いて行く。
いつの間にか、私を真ん中にして、3人で手をつないでいた。
潮の香り。
空の色が、群青から、浅葱色になっている。
海は、サーモンピンクが差す濃紺と、波が作った純白の縁取り。
なんてキレイなんだろう。
私が右によろけると、知佳ちゃんが支えてくれた。
左によろけると、信吾が助けてくれる。
人のつながり。支え合うということ。
私は、今、幸せだ。
「美穂ちゃん、本当にありがとう」
私は無言で、知佳ちゃんに微笑む。
「私、生涯ずっと、美穂ちゃんと仲良しでいたい。兄と別れても、仲良くしてね」
「お前、何言っちゃってるの?別れるわけ、ないだろ!」
信吾が、つないだ手に力を込めた。
「だって、本当に驚きなんだよ。兄が、こんなステキな人と結婚できたこと」
今度は知佳ちゃんが、手に力を込めてくれた。
「だいたい兄は、女を見る目がないから。高校の時だって…」
「だぁぁぁ!何を!余計なことを言うな。知佳!」
慌てふためく信吾。兄と妹。いいなぁ。
「知佳ちゃん、続き、今度聞かせてね!」
「絶対ダメだぞ!知佳。俺もバラすぞ!」
「へ?何のこと?私には、過去はないから」
「俺に過去があるような言い方するな!」
波が寄せては、また引いていく。
繰り返すその運動が、様々な音と、香りを生み出している。
沖の海面が、キラキラと輝いて。
ほんとうに、美しい。
信吾が静かに、語りだした。
「両親は、よく俺たちに言っていたんだ。世の中を、楽しく幸せに過ごすには、人に好かれることが大事で、そのためには、人を好きになればいい。その、好きだという気持ちを伝えるのが挨拶で、特に朝のおはようは、一番大事なんだよって。おはようが、ちゃんと言えれば、幸せが来るって、そう教えられててね」
少ししてから、今度は、知佳ちゃんが言った。
「朝は、全てのものがキレイになる。人の心を前向きにする。朝は、全ての元気の元が詰まってるんだって、言ってた。でも、朝が特別なのは、夜があるからだって。夜の闇が深いから、朝の、命の塊のような日の光が尊いと、感じることができる。人は、夜がないと、光をありがたいと感じなくなってしまう。だから、朝が大切なんだって」
改めて感じた。この二人のご両親は、ほんとうに、ステキだ。
私は思った。きっとこれは、偶然なんかじゃない。
実家が売れなかったことも、会社が倒産したことも、知佳ちゃんが日付を間違えたことも。
すべては偶然なんかじゃないと、強く感じた。
3人の上に、命の塊のような日の光が降り注いだ。
潮の香りを含んだ風が来た。
なんて爽やかな朝。
(完)