003
【いや、待て待て】
「なんか、相原の機嫌が悪い」
放課後、冬馬と野武士を招集し、机を囲みながら今日一日で気付いたことを報告した。二人は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。いや、というよりも、どちらかというと侮蔑に近いものかもしれない。
「もう放課後ですよ?」
呆れを露わに、冬馬が言った。
「いや、昼くらいにはなんとなく気付いてたけど」
「それでもおせぇよ」
野武士も似たような態度であった。どうやら二人とも早い段階からお気付きであった様子である。だったら教えてくれりゃあよかったのに、と思うが、気付かない俺が悪いみたいな雰囲気を感じる。
「心当たりがないんだよなぁ……」
俺が数学の教科書を見せてくれと頼んで一蹴してきた女、相原茜は野武士と同じく中学を共にする。猫科を思わせる顔立ちに、陸上で鍛えたしなやかな身体、そして勝ち気な性格が相まって本当に猫のような女だ。
どちらかというと女にモテるタイプであろう。中学校の頃も、よく下級生の女子から黄色い声援を受けていた。
一年の頃は違うクラスだったが、こうして二年に進級して再び同じクラスになった。四月当初は気さくに話していたと記憶しているのだが、連休明けの今日はすこぶる機嫌が悪い。
「本気で言ってるあたりが恐ろしいです」
心底信じられないといった表情の冬馬は、スマートフォンを取り出した。そして「鳴海くん、メッセージ確認しました?」と、メッセージアプリを指して見せる。
そう言われて思い返すと、停学から連休、そして今日までで一切開いていないことに気付く。
「そういや見てねぇな」
俺の発言に、冬馬のみならず野武士までもが深い溜め息を吐き出した。なんなんだ、お前ら。仲良しかよ。
「なんだよ」
「鳴海くんのデリカシーのなさに正直引いています」
繊細なガラス細工を自称する俺に対して冬馬の発言は非常に失礼である。まぁ、冗談である。妹にもよく言われる。しかしそれと相原とどう関係があるのか。
「とりあえず開いて確認したらどうですか」
「あぁ……見たくねぇ。俺ちょっと怖いもん」
両の手のひらで顔を覆い隠す野武士に、なぜお前が怯えるのかと怪訝に思いつつも、自身のスマートフォンを取り出してメッセージアプリを開く。数件の未読のまま捨て置かれたメッセージのリストが目に入った。
まぁ、とはいえスクロールをする必要もないくらいしか溜まっていない。バイト先の連絡すら『シフトはいつもどおり』という一件。家族のグループメッセージも、妹と母親の息子を置いてけぼりな会話のみ。冬馬も野武士も特に何か送ってきているわけでもない。なんなら相原とのやり取りは一番上にあった。
それはいいのだが、俺のメッセージアプリではお目にかかったことのない数十件というメッセージが溜まっていた。どうやら頻繁に連絡を送っていたようだった。
最後のトークは『見ろ』という一言。確かに怖い。
「怖いんだけど、これ」電話入れればいいのに、とも思ったが憚られた。一定間隔に送りつけ来ているあたりに何か恐ろしい執念を感じてしまって、そんな言葉を吐き出すことは出来なかった。
「引くに引けなかったんでしょうね」
スマートフォンの画面を覗き込みながら、冬馬が呟く。「だからってこれは怖いよ」遡って読むのも精神的に辛い。
「あーそこに数学のことも書いてありますね」
「あ? あーホントだ。あるわ」
冬馬の言う通り、相原のメッセージには、月曜日の時間割が変更になった旨が記されていた。なるほどちゃんと読んでれば今日のようなことは起こらなかったわけだ。
「電話なら一発なのに」
俺がそう零すと、冬馬と野武士は長い溜め息を吐き出した。それはもう長い溜め息であった。さっきからなんなんだ、お前らは。
「相原さんから直接電話って経験あるんですか?」
冬馬の問いに過去の記憶を掘り起こしてみたが、しかしそういう経験は一切なかった。電話番号教えてなかったっけ。全然覚えてない。
「そういやねぇな」
「よしんば知っててもかけられないでしょうけど」
「なんでだよ」
「それは自分で考えることですよ」
取り付く島もないとはこのことである。
なんにしても、ここまで放置していたと知ると少しは罪悪感を感じるものだ。「悪いことしたか」
「本当に悪ですよ」とにべもなく冬馬は言い放つ。
相原にはもちろん悪いとは思っているけれど、時間割変更の連絡どころかそれ以外の連絡すら入れない、こんな薄情者に悪呼ばわりはされたくない。
ただ、俺が連絡無精なことくらいは知っているだろうに。何かわだかまったものが喉元にあって、腑に落ちない。
「連絡返さなかったのは悪かったけど、あんな機嫌悪くなるか?」
「なるだろそりゃ。あいつなりに心配してたんだから」
今度は野武士が口を開いた。普段の茶化した態度とは打って変わって、その真面目な物言いに、俺は気付けばこちらも居住まいを正していた。
「とりあえず謝った方がいいと思うぞ」
先の声音はどこか怒っているようにも聞こえたが、しかし今の野武士の表情は真面目なだけで、その声に怒気は感じられなかった。単なる気のせいだったのかもしれない。
「僕もそう思います」
「面倒だなぁ……」
「本当に嫌われますよ」
「分かってるよ。ちゃんと謝るって」時計を見やる。「今部活だろうし、終わるまで適当に時間潰しとく」
それを聞いて二人は先に帰っていると言い残し、教室を後にした。
一人もぬけの殻になった教室で、机に突っ伏し、物思いにふける。静寂に包まれる教室の外からは、部活動の掛け声が響く。心地よい風が吹き抜け、それがだんだんと俺を睡眠へと誘った。
◇
目を覚ましたのはちょうど部活動の終わり頃であった。もう少しで寝過ごすところだったので、危なかった。外の喧騒は、帰宅のものへと変わっている。
呆けていては相原も帰宅してしまう。カバンを手に、急いで運動場へと向かうことにした。
靴を履き替えたあたりで、陸上部らしき生徒がぞろぞろと校門に向かって歩いていた。視線を泳がせ、相原の姿を探すがその影を捉えることはなかった。
もう帰ってしまったのだろうか、と諦めかけた矢先である。
「なんでまだいんのよ」
バッグを片側の肩に背負った、ジャージ姿の相原が俺の背後に立っていた。額にはうっすらと汗が滲んでいる。心地悪いと感じたのか、首にかけたタオルでそれを拭う。
「お疲れさま」
ここで飲み物の一本でも差し入れればスマートなのだろうが、しかし慌ててここまで来た俺にそんな余裕があるはずもなかった。
「一緒に帰ろうと思ってな」
「連絡無視したくせに」
「悪かったよ」
普段の凛とした様子とは違う、拗ねた表情を見せる相原。中学の頃からこういうところは変わっていない。いつも後輩と接する時などは格好をつけて外面を良くしているだけなのだ。
俺や野武士といる時は、姉御というよりも、末の妹のようになる。
一度疲れないのかと聞いたことがあるが、返ってきたのは「ひたすら走り込みをするよりはマシ」というものだった。面倒な生き方をしていると思う。人のことをとやかく言える立場ではないので、口が裂けても言わないけれど。
「ジュース」
「何?」
「ジュースで許してあげる」
そっぽ向きながら相原は小さく呟くように言った。まぁ、なんとなく何か奢らされるんだろうと予想していた。だから、特に反抗することもなく、「分かったよ」と俺は肩をすくめて答えた。
一応それで満足はしたらしい。相原の纏う雰囲気は先刻よりも柔らかなものとなっていた。ゲンキンなやっちゃ。
「じゃあ帰るか」
「うん。カバン持って?」
「それは甘え過ぎ」
「ケチ」
赤く小さな舌先をちろっと出して、それから不機嫌そうに頬を膨らます相原を無視して前を歩く。コンビニは駅の近くにあるし、そこで何か買えばいいだろう。「待ってよ」と、相原が小走りで俺の後ろをついてくる。
すぐに追いつかれ、夕日に照らされた二人分の影が揃う。
他愛無い話をしながら歩いていると、校門のほうがやけに騒がしくなっている。人だかり、というわけではないが、校門あたりに差し掛かった誰も彼も歩みが遅くなっていて、それが混雑の原因になっているようであった。
「なんかあったの?」
「俺が知るわけないじゃん」
相原の質問に淡白に応じながら、人な波に飛び込む。何事かと周囲の人の視線を追うように、校門の外側の壁際に目を向けた。
うちの高校のものではない制服姿の女子が、壁にもたれて立っていた。それだけでも目は引くだろうが、大きく着崩しているあたりも一因だろう。胸元は大きく開いていて、ネックレスが日の光に反射している。短いスカートから伸びる脚を軽く交差させ、退屈さを紛らわすかのようにふらふら揺らしていた。
俺にはいささか刺激的すぎるものだった。
健全に部活動に打ち込む男子生徒もまた同じようで、ちらちらと視線を送ったり外したりと、忙しそうにしていた。いや、良くも悪くも『中堅』とはまさにこのこと。
しかし男の視線をものともせず、緩く纏めた茶髪の毛先を弄りながらスマートフォンを操作している。時折光るのは、耳につけた小さいピアスが反射しているからだろう。
なんにせよ、美咲高校の校則からは逸脱しているその姿に、周囲の視線は引き寄せられていた。あるいは、それ以上に整った顔立ちのせいかもしれないが。
しかしどこかで見たような。
自身の記憶を探ろうとした時、女と視線が交差した。
「あ! やっと出てきた!」
無表情だった女の顔が笑顔に変わり、そして壁から身体を離し、こちらに駆け寄ってきた。……はい?
「鳴海義仁って名前聞いても誰も答えないからとりあえず出てくんの待ってたんだけどさぁ。めっちゃ待ったわー。もー足パンパン。それにしても遅かったよね。もしかして部活とかしてる系? 何部?」
言葉のキャッチボールというものを知らないのか。それとも待ち続けていたせいでタガが外れたのか。とにかくまくし立ててくる目の前の女に、どうしていいか分からず慌てふためく。
「いや、待て待て。ちょっ……待てって」
「何?」女はようやくブレーキが効いたのか、首を傾げる。
「あー……あんた誰だ?」
「はぁ?」
何言ってんの? みたいな顔された。
「何言ってんの?」普通に言われた。「昨日助けてくれたじゃん」
「昨日……ってまさかあんた」
そりゃあ、見覚えがあるはずだ。昨日のことで今日は朝から怒られていたのだから。忘れるはずもない。ただ、訳もわからないまま巻き込まれたせいで、そこまでしっかりと顔を覚えていなかったのだ。
整った顔立ちの、派手なギャルという認識はあったが、そこまで記憶にとどめていなかった。もう二度と会うこともないだろうと思っていたし、よしんば会っていても気付くこともなかっただろう。
「あれか。昨日のギャルか」
「そーだよ! 何、一日で忘れちゃったの? 記憶ヤバくない?」
「いや、制服だったから……」
我ながら苦し紛れの言い訳だと思ったが、ギャルはそれで一応納得したらしく、「ふーん。そんなに違うもん?」と自分の姿を確認していた。
「鳴海……」相原が恐る恐るといった様子で俺の袖を引っ張った。「その人、知り合い?」
「なんと説明したものか……」
名前も知らない相手を、どう紹介すればいいのだろう。ましてやこちらも突然現れてきて困惑している最中だ。上手く説明できる気がしない。
それでもなんとか言葉を捻り出そうと頭を悩ませていると、ギャルの方が俺と相原を交互に見比べていた。
「あ、もしかして隣はカノジョ?」
そして素っ頓狂なことを言い出す。
何をどう勘違いしたらそうなるのか。
「ちげぇよ。幼馴染だ」
相原が俺の袖から手を離す。いつもの快活さが噓のように随分と大人しいが、まぁ、案外人見知りする性格だ。突然よく分からん女が現れたから萎縮しているのかもしれない。
「ふーん?」
ギャルは相原を見つめる。相原もまた、ギャルを見続けていた。どれくらいの時間そうしていたのだろう。おそらく十秒にも満たないものだったろうが、妙に長く感じた。
「ま、違うならいいか」ギャルは何やら独りごちるように言うと、「じゃあちょっと付き合ってくんない?」と、俺に誘いをかけてきた。
最初は言っている意味がよく分からなかったが、こんな往来では確かに周囲視線が邪魔だ。お互い居心地も良くないだろうし、そう解釈すれば、寸刻の逡巡はあったものの、了承することにした。それに、わざわざ他校の生徒の元まで来て出待ちをしているくらいだ。用件を聞かずして帰れば後で悶々とするのは目に見えているしな。
つーかそもそも、俺がこの学校の生徒だとどうやって知ったのかも気になる。
俺が頷くのを見ると、「じゃ、そこのサイゼねー」と言ってギャルは先に歩き出した。すぐに踵を踏んでサイゼに向かおうとするが、相原がまた俺の袖を掴んで引っ張ったせいで少し立ち止まる。
「な、鳴海。ジュース奢ってくれるのはどうなるのよ」
「わりぃ。ジュースは今度奢るわ」
「え……ちょっと」
何か言いたげな相原に、再度「悪い」と謝罪を述べ、「あ、メッセージは今度からちゃんと見る」と付け足してから、俺はギャルの後を追った。