【私の番】
父さんの葬式の日は、灰色の雨が降っていた。
頬を雨に濡らしながらも、冷静に先の事を考えていた私は、きっと周囲の人たちには不気味に映ったことだろう。
私に親戚はいない。
頼るなら、住んでいた小さな町の知り合いを頼らなければいけない。でも町の人は、書物を取り憑かれたように読み漁るはぐれ者の学者を。人を癒したり、風を呼ぶ星沁術式──〈魔法〉を使える流れ者の事を、頼りにしながらも不気味に思っていた。
そんな二人の娘である私を引き取りたいと思う人は、そうそういない。だから結局、私は北方にある教会が経営する孤児院に預けられる事になった。
その教会には、私と同じ立場の子供達もたくさんいた。
でもそれだけじゃない。同化政策の一環で親から引き離された異民族の子や、一座を襲われて親とはぐれたという放浪民の子。
そういった子供達が集められ、各地方の大きな修道院にまとめて出荷される……あそこは、そういう場所だった。
『聖母アラディルの恵みあらん事を』
そんな事を言いながら、ニコニコしながら、大人たちは集めた子供を出荷する。みんなに絶望の目で見られても、恵みをもたらしてくれるはずのアラディル様の像は微笑んでいるだけ。都合良く救われるだなんて夢、みんな諦めていた。
あらゆる検査が終わり、〈引取先〉が決まった私も出荷が決まった。ちょうどその頃だった。
『知り合いの娘がここにいると聞いた。その娘を引き取りたい』という人がやって来たのは。
言い争っている大人たちの様子をこっそり見に来た私を見つけて、その人は私を抱きしめた。
最初は誰だか分からなかったけれど、その人が父さんの友達である『エリックおじさん』だと思い出すのに、そう時間はかからなかった。
『ケインに君の事を頼まれていた』
『君の町に行ったのだが、行方が分からなくなったと聞いて探していた』
『見つかって、本当に良かった』
強く、痛いくらい強く抱きしめられながら、私は聖堂の影に隠れている他の子供達を見た。
みんな驚いて、喜んで……でも、いま抱きしめられているのが〈自分〉じゃない事に、絶望していて。
〈エリックおじさん〉に手を引かれて教会を出た私の脳裏には、女神アラディル様の虚ろな微笑と、寂しそうに、あるいは妬ましそうに別れを告げるみんなの笑顔が、今も張り付いていた。
♢♢♢
研究室を飛び出した私が向かったのは、湖が見えるいつもの斜面。
混乱して泣くのは私の悪い癖だ。感情の整理をしようと身体が流した涙の跡をこすると、私は柔らかい草の上に腰を下ろした。
「親戚……かぁ」
抱えた膝に顎を乗せながら、私は唸る。
蒼穹には薄い雲がたなびき、湖からの風は草木を穏やかに揺らしている。
急にいろんな事が起きすぎて、あまり良くない記憶も思い出してしまった。
普通よりも、状況に流される事には慣れているつもりだ。そのつもりだけれど、受け入れるには少し、ほんの少しだけ時間が必要だった。
(そういえば、母さんは……私に全部話すのは、十五歳の誕生日を迎えてからって、言ってたな)
母の形見……三年前に砕けた鈴を溶かして作った、無音の鈴を見下ろす。
十五歳を迎える前に、母さんはいなくなってしまった。ある日ふらっと家を出て行って、それっきり。
父さんはその行き先をきっと知っていたのだけれど、私に教えてくれる前に病気でいってしまった。
帝国内では異民族に比較的寛容とされるこの学院都市でも、当然のように差別は存在している。
朔弥人の根無し草。教授にひいきされているだけの混血児。陰口を言われ、髪を引っ張られ、転ばされた回数を数えるのには、とっくの昔に飽きてしまった。
(だって私には、先生も、イリスちゃんもいるから)
表向きには冒険者の出身とされているイリスちゃんは、母親の一族を内戦で失い、存命の父親からは『いなかった事』にされている。きっと寂しい思いをする事もあるだろう。
それでもあの子は前を向いてきた。自分が世界で一番不幸だと思っていた私を投げ飛ばす勢いで、目を覚まさせてくれたのだ。
(だから私も……)
前に進む選択肢があるのなら、それを選んだ方がいい。
それに、あの人達なら……今はいない母が教えてくれるはずだった事を、教えてくれるかもしれない。
「ねぇ、父さん……母さん」
空を仰いで、私は呟いた。
「私ね、ふたりが教えてくれなかったことを、知りたいから……少しだけ怖いけど、ちゃんと向き合ってくるね」
音のならない鈴を握り締めて、私は立ち上がった。
湖畔の風は涼しく、穏やかで力強い。峰々を越えて渡る風に頷いて、私は歩き出した。
♢♢♢
竜奴の使者である風間 天月は、窮地に立たされていた。
東の果てよりの長い旅路を乗り越え、ようやく学院に辿り着いたまでは良いものの。
己の従姉妹に当たるという紫苑・アスタリスは『事態を整理する時間が欲しい』と席を外してしまい。従姉妹の養父であるエリック・オードランは学徒に呼び出され、こちらも席を外している。
「……」
よって、今自分の対面に座っているのは不機嫌を絵に描いたような表情の女人が一人。
先ほどの会話から察するに、従姉妹の先輩に当たる人物のようだ。
「あの……でゅーらー、殿」
「イリス・デューラー修位生。学年は違うけど、年齢は紫苑と同じ十五よ。所属はここの研究室で、紫苑とは同室。イリスで良いわ」
無愛想だが、必要な情報を込めた返答が返ってきて、天月は安堵した。
「ではイリス殿。先程は失礼致しました。どうやら我々は、到着の間合いが悪かったようで」
「端的に言えば最悪よね。でも、あの子は考える時間さえあれば大丈夫よ。しばらく放っておいてあげて」
イリスはそう言って、淡々と『こーひー』を口にする。
天月も真似して黒い液体を飲もうとするが、苦くてどうにも飲みきれない。顔をしかめていると、無言で牛乳の壺を差し出された。
「……竜奴の民。朔弥皇国の中でも、特に閉鎖的とされる長寿の一族」
何とか飲めるようになった液体を口に含んでいると、イリスはぽつりと声を落とした。
金と若草の瞳が、探るような視線を帯びる。
「辺境に隠れ住む貴方達は、ずば抜けた寿命の長さと、若々しい外見。それから、秀でた術式操作技術を持つ事から、仙人伝説の由来になっていると聞いたわ」
様々な要因から人生を全うすることが少なかった古代人はもちろん、現代に生きる人々と比較しても、十二分な長寿を誇っている、と。
論文の記述をそのまま暗記したような言葉遣いで、少女は淡々と続けた。
「貴方達の能力は、自分たちの里を護るために活用されてきた。若々しい外見を保つ貴方達は、多くの人々に妬まれ、また不老長寿の秘密を知る者として追われることもあった」
そういう歴史の積み重ねから、他民族との交流が不幸なモノであると捉えている。
自分たちが暮らしている里を厳重な結界で覆い、他民族との交流を避けてきた歴史がある。
そんなイリスの説明は、天月が絶句してしまうほどに的確なものだった。
「……以前に、我らの事を聞いたことがおありで?」
「紫苑のお母さんがそこの出身なんじゃないかって話は、前から聞いてたから。
まさか、そこに行くって話になるとは思ってなかったけどね……で。そっちとしては、どういう心境の変化なわけ?」
「と、言いますと?」
「紫苑の事よ。先生が貴方達に接触を始めたのは、最低でも二年は前の事でしょ。どうして今更になって、里に紫苑を入れる気になったのかって聞いてるの」
少女の眼光に、天月は喉を鳴らした。
(この方は、こういったやり取りに慣れている)
己の里において、勘の冴えすぎる人間は良しとされない事が多い。
天月は逡巡しつつも、小声で言葉を紡いだ。
「理由は……おそらく三つあります。一つ目は、紫苑殿が帝国人の血を引いている事を嫌った人々の反対を受けて、会議が停滞した為です。我々の歴史をご存知のイリス殿なら、お察しいただける事と思います」
「……」
「二つ目は、紫苑殿が成人するのを待ったという事。これは我々の基準ではなく、帝国側の基準による成人という意味です」
「……紫苑が修位課程に行くと決めなければ、あの子は今年、学院の所属から外れる。無所属の人間になり、自分の進路を決められる立場になるのを待ったと言う事ね」
「……仰る通りです」
息をついて、天月は顔を上げた。
ひとふさだけが白銀に染まった、はちみつ色の髪。がっしりとした輪郭の顎や鼻筋を持つ少女を見据えながら、忠告を紡ぐ。
「長が帝国人学徒の同行を許したのは、若年の学徒を脅威とは見做さなかったからです。
ですが、帝国人を里に入れる事に反対する声は非常に大きい。我らの血を引く紫苑殿ですら、議論の対象となったのだから」
「……だとすれば、私は無知で、世間知らずな学徒のふりをしておいた方が安全って事かしら?」
即座にこちらの意図を読んだイリスに、天月は感嘆と共に頷いた。
「仰る通りです……出過ぎた忠告を、お許し下さい」
「いえ。忠告をいただけるのは助かるわ。それに、貴方個人の事は信用できそうって分かったし」
ふいに、対面する少女の表情が和らいだ。その笑顔に歳を経た賢者のような面影を感じ、天月は目を瞬かせる。
「それで、三つ目の理由は?」
「……申し訳ございません。そちらに関しては、まだお話しする事ができません」
「そう」
短く頷き、イリスは立ち上がった。机が並ぶ一角から菓子らしき缶を取り上げ、それを妹の前に置く。
「じゃ、話せる時に話してちょうだい。あなた達の方から、何か聞きたい事は?」
「……。では」
「イリスは、なんで顔の横だけ髪が白いの」
天月の言葉を、妹の高い声が遮った。
無言を貫いていた妹が声を発した事に驚くうちに、天祐は無遠慮にイリスを眺め回す。
「髪もだけど、目の色も、なんか不思議。あと、なんで部屋の中で手袋してるの?」
「て、天祐……」
──天月に女性経験はないが、女性に外見的な指摘をするのは宜しくない、と言う事くらいは理解している。妹のあまりに無遠慮な口聞きに、天月は頬を痙攣させた。
「すみません、妹が」
「……良いのよ。慣れてるから」
とっさに謝罪しようと顔を上げたところで、天月は少女の穏やかな表情に気付いた。
「おちびちゃん。世の中にはね、髪や目の色が違ったり、ちょっと耳が尖ってたり……そういう人達が、たくさんいるものなのよ。私ごときで驚いてるようじゃ、まだまだ世間知らずね」
「むっ……」
「あんたみたいな知りたがりには、この本をお勧めするわ。世界の人種を、形態学で比較した一覧で」
「わ、何この書。分厚い。やだ」
「文字はこの際無視で良いのよ。この本は、図説が非常に丁寧で」
イリスは本を取り出し、それを妹の前で開いた。どうやら子供の扱いには慣れているようだ。
『この街の人々に妹が馴染めるかどうか』という懸念が減った天月は、安堵のため息をついた。
(後は、従姉妹殿から良き返答がいただけるかどうか……ですね)
初めて会う従姉妹は、いかにも気弱そうな態度をしていた。
用意周到なお膳立てがあったとしても、未知を恐れて、首を横に振られてしまったなら意味がない。
(僕は、使者の役割を果たせないまま、里に帰る事はできない……)
天月は手に汗が滲むのを感じた。妹が無邪気に図鑑を読みふけるのを見下ろしながら、群青色の袴を握る。
「……。そんなに心配しなくても平気だよ、天月くん」
「は、はいっ⁈」
ふいに投げかけられた声に、天月は肩を跳ねさせた。
会話が終わったエリック教授が、机の向こう側から声を掛けてきたのだ。
「先生の仰る通りね。紫苑のことなら平気よ」
教授の言葉を聞いた少女も、したり顔で頷いた。
「あの子、あぁ見えて図太いし、好奇心も旺盛な方なんだから」
「あぁ。彼女はあぁ見えて大胆でね。事故ではあるが、何度か壁をぶち破った事で有名なのだ」
「ぶ、ぶち破……」
「とある教授に逆らい謹慎を食らった上で、脱走をかましたりもしている。あの子の見た目に騙されては、痛い目を見るぞ」
「脱走……」
告げられた言葉に、ふらりと視界が傾く。不安要素が次々と蓄積していく中、キィ、と扉が開いた。
おさげにした髪、小動物を彷彿とさせる目、細く大人しそうな印象を持たせる体格。告げられた経歴にそぐわない外見の従姉妹、その再登場だった。
「……あの。お待たせしました」
「お帰り。結論は出た?」
背もたれごしに笑いかけたイリスに、紫苑は無言で頷いた。
可愛らしい、と言って差し支えない相貌には、水面のように静かな表情が湛えられている。
「風間さん」
「……はい」
部屋が静まり返る。時計の刻む音が、己の鼓動と同期し大きく響く。
喉を鳴らした天月に──少女は、花のような笑みで答えた。
「今後ともよろしくお願いします。天月さん、天祐ちゃん」