【フラスコ・コーヒーと共に】
実験器具が並ぶ防火テーブルから、コーヒーの芳醇な香りが漂ってくる。
鼻歌交じりで作業しているジェシカさんが身をずらせば、フラスコを使って人数分のコーヒーを淹れているのが見えるはずだ。
「…… 」
スギ材の丸椅子に何度も座りなおしながら、私は向かい側に座る二人組を盗み見た。
蒼紫の髪と、空色がかった藤色の瞳をした兄妹。
紅色の化粧をした切れ長の目元も、年齢以上に幼く見える容姿もよく似ている。
『オレ仕事あるから 』と早々に帰って行ったルークくんによると、ルークくんは運悪く意地の悪い門衛さんに絡まれていた二人を見つけ、門衛さんが違う裏門から入り直したんだとか。
街について早々にそんな事があって、気を悪くしてないかな──おっかなびっくり様子を伺う私と目が合うと、天月さんはにこりと微笑んだ。
「あ……っと 」
一旦は口を開こうとしてみたけど、やっぱりうつむいて言葉を喉に戻す。
そこまで歳が離れていないのは確かだけど、何を話せば良いのかなんて分からない。
「……」
しかも、隣のイリスちゃんは不機嫌を隠さず腕組みをしている。たぶん、話題を振られない限り喋ろうとはしないだろう。
気まずい沈黙が、テーブルを挟んだ面々の間に揺蕩っていた。
「あの、ジェシカさん……」
沈黙に耐え兼ねた私は、ジェシカさんに話しかけた。
ジェシカさんは、コーヒーをフラスコからカップに移し替えている真っ最中だ。
「コーヒー淹れ、買わないんですか。買ったら毎日使うでしょうし、フラスコでコーヒー淹れる手間を考えれば、無駄な買い物でも無いと思うんですけど」
どう考えても、沈黙をごまかす為の適当な世間話ではあるけれど。これは至極まっとうな意見……のはずだ。
「紫苑くんの言う事にも一理ある。しかし、そこにロマンは存在しない」
でも、教授の反応はもちろん──といっては失礼かもしれないけどやっぱり違う。
マグカップを優雅に持ち上げて応えながら、教授はぱちりとウィンクしてみせた。
「費用をかけずに同じ事ができ、かつそのやり方にロマンがあるのであれば、それに越した事は無いだろう?」
「いや、まぁ、そうなんですけど」
イリスちゃんは眉をひそめながら何か言おうとしたけれど、観念したように椅子に沈み込んだ。
教授としてはアレで話題に乗ったつもりだったのだろうから、さらに突っ込むべきだったかもしれないけど……
(突っ込むには間が悪い……)
完全に突っ込むタイミングを失った。
再び研究室に重苦しい空気が流れる。フラスコから漂うコーヒーの香りが、古紙の匂いと混ざって立ち上った。
「まぁ、置き場所が確保できたら私のを持ってくるつもりだからねぇ」
そこで見かねたジェシカさんが、けらけらと笑いながらマグカップを机に置いてくれた。
絶妙のタイミング。素晴らしい合いの手。さすが年配者。
今この瞬間、研究室で不摂生な生活をしているジェシカさんの株が、私の中で急上昇した。
「それまでは、フラスコ・コーヒーを堪能してねぇ」
全員分の飲み物を淹れ終えたジェシカさんは、不満げな表情のイリスちゃんを見て苦笑した。
湯気の立つコーヒーと、まだ幼い天祐の前にはフルーツ・オレの入ったコップを順に置いて行く。
それが終わると、ジェシカさんは床の散乱物を器用に避けながら歩き始めた。
……扉の方向に向かって。
「じゃ、私はまた事務室まで顔を出してきますねぇ。集めないといけない書類があるので」
逃げた。これ完全に逃げた。
待って逃げないで。この面子に残されてもまともに会話できる気がしないです。逃げないで。
視線に思いっきり感情を込めて見ると、ジェシカさんはにこり、とこっちに笑いかけてきた。
「じゃ、ごゆっくりぃ」
……あぁ、ジェシカさんの笑顔が眩しい。隣で殺気を放つイリスちゃんの眼光を打ち消すくらいに眩しい。
私の中で、ジェシカさんの株は元通りちょっと下くらいの位置に落ち着いた。
「……もう自己紹介は済んでいるが、改めて紹介しておこうか」
壁に掛けられた振り子時計が、無機質な音を刻む続けている。
その音に急かされたように、オードラン教授は言った。
「風間家次男の天月くんと、長女の天祐くん。〈竜奴の里〉から派遣された使者だよ 」
教授の紹介に合わせて、天月さんは丁寧な礼をしたけれど、妹の天祐ちゃんは違った。
おもちゃ屋に来た子供のように目を輝かせて、研究室を見まわしている。
大人でも興味を引かれる珍しい器具や遺物、本がたくさんある──気が散るのは仕方ないだろう。
「……。天祐」
「っ!」
天月さんに肘で突かれると、天祐ちゃんは大慌てで頭を下げた。
そんなやり取りを微笑ましそうに眺めながら、教授は言った。
「しかし……君たちがこんなに早く到着するとは思っていなかったよ。まさか、私が街に到着した翌日に来るとはね。予定日よりもずっと早いじゃないか」
その言葉に、天月さんはちょっとだけ肩をすくめた。
落ち着きのない妹の肩に手を置き、困ったように微笑む。
「天祐……妹が、街を見たがっていたので。少し、時間に余裕を持たせておきたかったのです」
「ふむ。この街も、帝国有数の観光名所だからね……良い思い出になるだろう」
満足げに頷いてから、教授は私たちの方を振り返った。
「さて……天月くん。最初に聞いておきたいのだが、事前に提示した条件について、里長の承諾はいただけただろうか」
「はい。学院の規則……そちら側の掟があるのならば、ある程度までは尊重すべきであると里長が」
「それは素晴らしい。その朗報を以ってすれば、そこでむくれているお転婆娘も機嫌を直してくれるかもしれない」
「……それ、私の事ですか」
「そうとも、イリス・デューラー修位生くん」
教授が高位の学年を示す呼称をあえて使ったことに、イリスちゃんも私も眉をひそめる。
そんな私たちを笑みと共に見返しながら、教授は聞いてきた。
「紫苑くん、三年位以下の学徒が学外活動を行う場合の条件は知っているかね」
「は……はい。三年位以下の学徒は、試験による認定を受けた修位生の監修・保護下でのみ、学外調査が認められて」
と、そこまで言ったところでイリスちゃんと顔を見合わせる。
私の所属は、学徒三年位。飛び級しているイリスちゃんは、更に上のランクである修位生の一年位だ。つまり……
「イリスちゃんの監修下であれば、今回の事は学外調査として認められる……って事ですか?」
「その通りだ」
エリック教授は嬉しそうに頷いた。
「君を都市外に出す事は、我々としても懸念が多い。そこで活きてくるのが、学外活動規約だ。
イリスくんは成人済みの修位生という条件を満たしているし、戦闘力も申し分ない」
唖然としているイリスちゃんに、教授は訊ねた。
「私の同行が許されなかった以上、頼れるのは君くらいだ。君が紫苑くんの旅に同行してくれるなら、これほど心強い事はないのだが、どうかね?」
「……」
一、二、三秒。
振り子時計が正確に沈黙を刻んだ後──
「それ、先に言ってくださいよ!」
──イリスちゃんの絶叫じみたツッコミが、研究室に轟いた。
「言おうとはしていたのだよ、前提を話した上で。君が早とちりをして、勝手に出て行こうとしていただけなのだが」
「ぐっ……」
冷静に指摘されたイリスちゃんは、喉の奥で声を詰まらせた。
状況が若干読み込めていない天月さんは、教授とイリスちゃんを交互に見比べている。
「……冷静さを欠いてました。すみません」
やがてイリスちゃんは、謝罪の声を絞り出す。
イリスちゃんの謝罪に対して、エリック教授は一度だけ頷いた。
「君がこの件において、冷静さを欠いてしまうのは当然だ。だが、今後は己を律してくれると助かるよ。我々や、何より君自身の為に」
「……はい」
うつむき、深いため息をついて、イリスちゃんは立ち上がった。
ザッと革靴の踵を揃え、無駄のない動きで学院式の敬礼を行う。
「──イリス・デューラー修位生、紫苑・アスタリス三位生の監修と保護の任務を受領します。以後は、何なりとお申し付けください」
若草色の瞳に、秋の木漏れ日のような黄金色が光る。
突然の軍人然とした行為は、使者への威圧という意味も含まれているのだろう。教授はイリスちゃんの意図を読み取り、苦笑した。
「あぁ。君になら安心して任せられる。だが……行くか行かないかを決めるのは君だ、紫苑くん」
「ふぁいっ⁈」
教授の声に、私は文字通り飛び上がった。視線の集中砲火を浴びて、心臓が萎縮するような感覚を覚える。
「え、えと、その……私、は」
少し、状況を整理しよう。
エリック教授は、三年前の事件の手がかりとして、私の母方の親族と接触を続けてきたけど、里への立ち入りは許可されなかった。
でも彼らは、私だけなら里に招待すると言って、手紙と使者をよこしてきた。
対抗策として先生が講じた手段が、三位生は高位学徒の保護下になければ学外活動が行えないという学院規則。
『イリスちゃんの同行がなければ、里に向かう事を許可しない』と牽制する事によって、教会勢力と、未知の一族に対しての『万が一』を防ごうとしている。
……こんなところ、だろうか。
「イリスちゃんは、その、大丈夫なの……?」
「当たり前の事を聞かないで。私は、あんたの『先輩』なんだから」
でも、と。同い年の友人は、私をまっすぐに見据えながら言った。
「あんたは、この場で意見を決めない方が良いと思う。今の雰囲気に流されないで、外で頭冷やしてきてから結論出しなさいよ」
あんたは考えるのに時間かかるんだから、と付け足して、イリスちゃんは私の背を押した。
私がこの場の雰囲気に圧されて萎縮している事に、彼女は気付いていたのだ。
「……ありがとう」
私の言葉に、イリスちゃんは小さく頷いた。
後ずさるように立ち上がり、机の周囲に集う面々を見下ろしながら言った。
「……少し、整理する時間を下さい」
「あぁ、勿論だとも」
「ありがとうございます」
淡々と言葉を交わして、扉の方へ。
石作りの廊下に出て、後ろ手に扉を閉めると……私は天井を見上げた。
「嫌だなぁ。なんでいつも、私が理解する前に状況が動いちゃうんだろ……」
問いかける声は、冷たい石の廊下に吸い込まれて消えた。
次話は明日。