【三年前の事件】☆
「私は絶対に反対です! 親戚云々はともかく……この時勢に、紫苑を街の外に出すなんて!」
イリスちゃんが机を叩く音と共に、机に置かれた書類が雪崩を起こした。
「先生だって忘れたわけじゃないでしょう、三年前の事! 何をしたってわけでもないのに、この子が」
「教会勢力に誘拐されそうになった。覚えているとも」
前のめりになるイリスちゃんに対して、エリック先生は冷静にカップを置いた。
……三年前。この学院都市に逃れた『イングリッド』を探しに来た、教会の使者が起こした事件。
当事者であるイリスちゃんはともかく、一緒にいた私が攫われそうになった事は記憶に新しい。
あの人たちは──
「──教会の連中は、『恵みの御子』とやらを探してる」
イリスちゃんは、眉をひそめながら言った。
「事件の後に調べたけど、恵みの子と呼ばれる存在は、確かに古くからの伝承に存在していました。
その名で呼ばれる人たちは、心を読む能力、少し先の未来を見通す能力、人より優れた計算能力を持っていた……けど、それは『サヴィラ症候群』と片付ければ、それまでの話だった」
サヴィラ症候群は確か、特定の一分野で突出した能力を示す症状の事だ。
過去の事件以降、文献を片っ端から調べたイリスちゃんが教えてくれた。
「サヴィラ症候群に認定される子は、言語やコミュニケーション能力に遅れが出る事が大半だわ。
それに、全員が全員、星沁干渉力が突出してるわけでもない。紫苑は……そういう条件に当てはまる感じじゃあ、ないでしょう」
イリスちゃんに見下ろされて、私は肩を縮こまらせる。
私は確かに、言語障害があったり、特段優れた能力があるわけじゃない。星沁干渉力は少しだけ高いみたいだけど、それだけだ。
「よく調べているね、イリスくん。だが、君には見落としがあるようだ」
イリスちゃんの話を静かに聞いていたエリック先生は、にこりと微笑んだ。
「……何ですって?」
「過去に『恵みの子』と呼ばれてきた子供達には、サヴィラ症候群の傾向があるという条件以外にも、共通点があるという事だ。それは──」
学院最年少の教授と、飛び級で進学している秀才学徒。ふたりの会話は高度すぎて、私は首を傾げる事しかできない。
そんな状況だったから、エリック先生に視線を向けられた私は、思わず身を逸らしてしまった。
「──そもそものサヴィラ症候群が、一定の血筋から現れる事が多いという事実だ」
エリック先生は、私を見据えて言葉を続けた。
「紫苑くん。君は三年前、瀕死のイリスくんを救う為に治癒術式を発動した。
君自身は覚えていないと話していたが、あの術式は君が知らないはずで、かつ君の実力では発動し得ない規模の朔弥術式だった」
「は……はい」
エリック先生は事件の後、私が発動したという治癒術式の内容を教えてくれたものの、私は全く覚えがなかった。
そもそも、あの時の私はすり傷一つ治すのでさえ苦戦していた。
瀕死のイリスちゃんを治したなんて、そんな大それた事ができたとは自分でも思えない。
「紫苑くん、イリスくん。私はね、紫苑くんがあの術式を発動し得たのは。
そして、教会が求める『恵みの御子』の条件に適ったとされた理由は、君の血筋に由来するものかもしれないと考えているのだ」
だが、決定的な条件には至らない。君があの術式を発動し得た原因までは分からない。
この謎を解明しない限り、君は君自身を守る為の方策を取る事ができないのだ、とエリック先生は言った。
「君の母君の故郷に行けば、何かが分かるかもしれない。私はそのように考え、事件以降里の長と何度も交渉を重ねて来たんだ。
しかし、許可が下りなかったんだ。帝国人の里入りを許すことはできないと、無下に断られてしまったのだ」
だから、相手側から君を招きたいという提案をして来たのは、君が君自身を知るチャンスだ。
かの一族についての伝承を直接聞く事によって、君が狙われた理由が……そして、教会の連中が何をしようとしているかさえも判明するかもしれない。
エリック先生の言葉は壮大すぎて、一学徒である私にはとても難しいものだった。
「だとしても……危険すぎるわ」
イリスちゃんは、ゆるゆると首を振った。
「紫苑を、得体の知れない土地に一人で行かせろって事なんですか。
帝国内の縦断だけでも教会勢力に目を付けられるかもしれないのに、国外。それも、養父を拒絶するような親族に」
「だが、紫苑くんをいつまでも街の保護下に入れておくという訳にもいかない」
イリスちゃんを遮るように、エリック先生は言葉を重ねた。
表情を消したイリスちゃんの髪から、パリッ、と小さな音が響くのを聞いて、私の背筋を汗が伝う。
「紫苑くんも成人すれば、自由に都市外の進路を選ぶ権利を得るのだから。
それに、教会が再び動くまで対応を取れないというのであれば、また後手に回ってしまう。手がかりがあるのであれば──」
「知った事か!」
怒声と共に放たれた電撃が、研究室に影を落とした。
息を荒げるイリスちゃんは、ハッと気まずそうな表情になった直後、歯を食いしばる。
「……私は、断固反対します。いくら学院の利益の為だとしても、紫苑をこれ以上の危険に晒したくないから」
「……。決めるのは紫苑くんだよ、イリス・デューラー」
子供を諭すような言葉から一変、学徒を叱る口調になった先生は、イリスちゃんの目を見据えて言った。
「君の意見は、あくまで友人からの一意見に過ぎないのだ。前提としてそれを理解しておきたまえ。その上で……」
「……っ!」
「い、イリスちゃん⁈」
私が制止する声を無視して、イリスちゃんは椅子を蹴飛ばし、踵を返した。
金髪の尾を炎のように揺らしながら、扉がある方面に消えて──
「どうも、ヴァレンシア商会のもんです。エリック・オードラン教授はいらっしゃいまぶべぇっ⁈」
──外にいたルークくんを、開けた扉で吹っ飛ばしてしまったようだ。
「は、はぁっ⁈ 何でそんなとこにいんのよ危ないでしょクソ人参!怪我してないわよね」
「なんだその理不尽な気遣い方……平気だ、あんがとよ」
「はて。納品を頼んだモノはないと思うが…… 」
教授は首を傾げつつも、立ち上がって扉のある方向を覗き込んだ。私もそれに倣って立ち上がる。
「今日は商会の用事じゃないんすよ。ここに来たいって人がいたんで、その案内で」
言いながら、ルークくんは横に身体をずらした。
ルークくんの背後にいるのは、笠を被った人物。視界の隅に、その人の服の裾が映った瞬間、私は気付いてしまった。
革防具を備えた紺青色の袴、臙脂色の上衣、質素だが質のいいマント。その全てが、帝国ではまず作られていない様式の衣装であるという事。
そしてその服の意匠が、私がお母さんから引き継いだ青袴の戦闘衣に、とてもよく似ているという事を。
「え……」
後ずさった足が椅子ともつれて、重心が傾く。
しまった、そう思った瞬間にはもう、私の身体は後ろに向かって倒れかかっていた。
「紫苑っ!」
私と同じように来訪者に気を取られていたイリスちゃんが、慌てて手を掴もうとしてくれる。
けれど、その手が届く前に。
「大丈夫ですか」
ふわりと、身体にかかる重力が和らいだ。
何が起きたのかわからず目を瞬かせているうちに、私の身体は背中を支えられ、よろめきながらも立ち上がる。
「驚かせてしまったようですね。申し訳ございません」
丁寧な物腰の来訪者は、鳥を招くように手を差し出した。
その手に導かれるように、私の脇を藤色の何かが過ぎ去っていく。
それは、蝶だった。弥紙でできた、精巧な作りの式神。
「これ……」
私の頬を撫でる風と蝶が、おぼろげな記憶を呼び起こした。
真夜中。たったひとりで家の外に出たお母さんの周りに、藤色の蝶が舞っている。そんな光景を。
「君たちは、もしや……」
「申し遅れました。僕の名は風間 天月。こちらは、妹の天祐です」
マントの陰に蝶の式神が消えると、来訪者は笠を脱いだ。
笠を持ったままの右手を胸に当てて挨拶をしてくるけれど、左手には、彼の妹だという女の子がぎゅっとしがみついている。
ふたりとも童顔だけれど、とても綺麗な顔つきをしていた。けれど、十七、八歳に見える少年の顔半分は長い前髪に隠されていて、その表情を伺うことは難しい。
来訪者の少年は、露わになっている片目を細めると、丁寧に礼をした。
「僕達は竜奴の民の使者です。遥かなる東の地より、我らが同胞をお迎えに上がりました」