【異国からの手紙】
紫苑の同室であるイリスは、非常に朝が弱い。
特に朝の日光を嫌う為、カーテンを閉じきって眠りこけている事が圧倒的多数だ。
「イリスちゃーん? 朝だよ」
自分の支度を済ませてから、カーテン内に声を掛けるが返事はない。
ため息をつきながら、紫苑は白布のカーテンをそっと開いた。
枕元に積まれた本の山、吊るされたランプ。白布から見えているのは、ひと房だけが白銀に染まった、はちみつ色の髪だ。
紫苑が苦笑しながら肩を揺すろうとした、その時だった。
「コンヴィ……死な……で」
白布の中から、絞り出すような声が響いた。それを聞いてしまった紫苑は、伸ばしかけた手が止まる。
(もう……三年も経ってるのに)
そんな思いをよぎらせながら、紫苑は白布に幼子のようにくるまっている少女を見下ろした。
──イングリッド・フォン・バルヒェット少尉。それが三年前までのこの子の名前であり、血生臭く華々しい戦果と共に二階級特進した事になっている、国内でも著名な英霊の名でもある。
バルヒェット家という将校貴族の妾腹として生まれた彼女は、内戦によって祖父母を失い、軍人として生き、森の中で果てた。
……いや。果てかけた所を救われたのだ。
イリスを救ったのは人ではなく、ヒトと獣の姿を併せ持つ異形の民だった。
『思い出させる者』と名乗る彼女に、二度も命を救われ……そして今は、彼女から課せられた呪いを背負って、生き長らえている。それがイリス・デューラーという少女だった。
いつもは楽しげに過ごしている友人。目の前で、小さな子供のように眠っている親友。彼女の心は、まだ戦場から戻って来ていない。戦場を、死のにおいを忘れられない。
それがイリスに課せられた強さの代償。そして、『思い出させる者』から与えられた呪いであり、祝福の証なのだ。
(イリスちゃんが……戻ってこられる日は、来るのかな)
分からない。時間が癒せない傷に触れる事はできない。紫苑は傍観の立場を取るしかないのだから。
(でも……きっと、それでも)
私は私にやれる事を。息を吸い込み、紫苑は目の前の白布を勢いよく引きはがした。
「イリスちゃーん!おっはよー!」
◇◇◇
石造りの廊下に、朝日がステンドグラスの影を落として遊んでいる。
朝食を済ませた私は、イリスちゃんと一緒にオードラン教授の研究室を目指していた。
「あー、また廊下に私物を散らばして……学務課から怒られるわよ、こんな有様じゃ。また片付けないと 」
廊下の隅に纏められた石の人形やホコリを被った冊子の山を見て、イリスちゃんがため息をついた。
「いくら学術的価値が低いからって、棺桶に鉢植え飾るのもどうかと思うし」
イリスちゃんが指差したのは、壁に固定された人型の棺桶。
中に木板を挟んで棚にしたそれの中には、各地の迷宮から集めてきたらしい植物の鉢植えが並べてある。
「うーん……活用してるっちゃ活用してるけどね。まぁ、捨てたり倉庫に入れとくよりは良いんじゃないかなぁ」
「そういうもんかしらね」
ため息をつきながら、イリスちゃんは戸を開けた。
朝日で白亜色の光に満たされている研究室の中では、桃茶髪の女性が書類の束を整理している。
「あらぁ、イリスちゃんに紫苑ちゃん。早いのねぇ。今日は迷宮に行かないの?」
「行こうと思ってたけど、予定変更。今日はゆっくりする事にしたのよ」
「調査は適切な休息も大事だからねぇ。ま、今日はゆっくりしても良いんじゃないのぉ?」
それだけ言うと、女性は書類が散乱するソファに座り込んだ。
穴が空いたソファの背もたれには、何年も洗ってなさそうな毛布が引っかかっている。
「ジェシカ……あなた、またここで寝てたの? ちゃんと研究生用の寮があるでしょうに 」
顔をしかめるイリスちゃんに、女性──助手と事務職員を担当するジェシカさんは、眠たげに微笑んだ。
「まぁねぇ、寝落ちしちゃって。でもイリスちゃんの将来の姿でもあるのよぉ。ほらほら先輩の姿をしっかり目に焼き付けてぇ」
「えぇ分かったわ。反面教師としてしっかり記憶しておく 」
「あはー、照れちゃってもう」
憮然とした表情のイリスちゃんを見て、ジェシカさんは楽しそうに目を細める。
彼女が台所に置かれたポットを傾けると、柔らかい湯気が研究室に立ち上った。
「紫苑ちゃん、お茶どうぞぉ」
「あ、ありがとうございます」
ジェシカさんからカップを受け取って、私は木箱にクッションを置いた簡易椅子に腰掛けた。
私はイリスちゃんと違って、この研究室に所属しているわけではない。
でも、養父がいて、友達や馴染みの先輩がいるこの場所は、入学前から休息の場として利用している。
学院が私の家だとしたら、この研究室は居間みたいなものなのだ。
「おや、紫苑くんにイリスくん。今日は早いな」
ふいに扉が開く音がして、私は振り返った。
書斎に続く扉の前に、眠たげな緑玉色の目をこすっているオードラン教授の姿がある。
「おはようございます、エリックおじさ……先生」
「他の生徒がいない時には、無理をしなくて良いのだよ、紫苑くん……あぁ、そういえばイリスくん」
「はい?」
「君の望み通り、学外調査の許可証を研究室で発行したよ。君はもう成人済みで、かつ高位学徒にも昇級しているからね。今後は保護者の了承を取らずとも学外調査が可能になる」
教授は満面の笑みで、防水加工された羊皮紙を振って見せた。
オードラン教授の研究室は、各民族の術式と文化や歴史の関係を調べる〈術式文化学〉を専門に研究している。
必然的に野外調査が多くなるから、学内で時間割通りに動いているワケにも行かないらしい。
「ありがとうございます、教授」
許可証を受け取ったイリスちゃんは、安堵の息をつきながら言った。
「これで毎度毎度、面倒な申請を出したりしないで済むわ……」
「私としては寂しいわぁ。イリスちゃんたら、ここに来た時は男の子かと思うほどぺったんこだったのに、たわわに成長しちゃってぇ」
「どこ見て言ってんのよ燃やすわよ」
けらけら笑うジェシカさんを睨みつけて、肩を竦めるイリスちゃん。
ふたりがちょっとした喧嘩を始めるのを笑いながら見ていた私は、ふと教授がこちらをじっと見ているのに気が付いた。
「あの、どうかしましたか?」
「……。君ももう十五歳になるのか。君を引き取ってから、四年も経ってしまったのだね」
教授は、緑玉色の目を眩しそうに細めた。
雰囲気の変化を察したイリスちゃんとジェシカさんが会話を止める中、振り子時計が刻むリズムが妙に大きく響く。
「……わたし、ちょっと用事があるので失礼しますねぇ」
沈黙を切るように、ジェシカさんが動き出した。
私が声をかける間もなく、早々に研究室から出て行ってしまう。
「さて……と」
ジェシカさんがそうするのを待っていたかのように、教授は息をついた。
思わず背筋を伸ばす私とイリスちゃんを見据え、教授は喋り出す。
「私が本来の調査予定よりも、早く帰って来た理由から話すのが良いのだろうね。
私が調査を切り上げて帰還したのは、とある人物から手紙が届いたからなのだ」
教授はポケットの中から、封筒を取り出した。
上品な薄紫色の弥紙には、長い身体をくねらせる龍の絵が描かれている。
「手紙の差出人は風間 業葉。手紙の内容を信じるならば、君の叔父に当たる人物だそうだ」
「え……?」
叔父。お母さんの兄弟。私の親族。
その人から来たという手紙に喜んだり驚いたりするより先に、私は『何のつもりで? 』と目を細めた。
私は親戚について、ほとんど何も知らないと言って良い。
「疑わしく思うのも無理はない。風間家の者が君に接触するのは、おそらく初めてだろうからね」
「……両親は、私が親族について質問するのを嫌がっていました」
私は、机の溝にたまったほこりを見つめながら言った。
「だから私、自分に親戚がいるって思った事なんて、ないです」
「……。そうだろうね」
教授は、寂しそうに言った。
鳥のさえずりが、木漏れ日と一緒に部屋に差し込んでいる。
じっと教授の横顔を伺っていた私は、あることに気付いて目を瞬かせた。
──教授が、泣いているように見えたのだ。
「教授……?」
「あぁ、すまないね。君にどう話したものかと、少し考えていたのだよ」
振り返った教授は、いつも通りの笑顔だった。
くたびれたコートをゆすり上げ、イリスちゃん達の方に視線を向ける。
「さて。この手紙の内容だが……イリスくんにも聞いてほしい」
教授の言葉に、研究室の出口に向かいかけていたイリスちゃんの足が止まる。
『個人的な事情を含む話だから、席を外してくれ』と言われると思っていたのだろう。
「えと……イリスちゃん、一緒に聞いてくれる?」
「え、ええ。分かったわ」
迷うように私を見るイリスちゃんに、私は手近な椅子を視線で示す。
彼女が椅子の表面を手で払うと、椅子に積もっていた砂ぼこりがボフンッと舞い上がった。
「何が書いてあるんですか? その手紙」
イリスちゃんが座るのを待って、私は問いかけた。
窓から差し込む光に、砂ぼこりがきらきらと舞っている。
「回りくどい表現は苦手だろうから、簡潔に答えるとしよう」
半ば陰になった場所に立ち、眼鏡の奥の瞳を光らせている教授は、静かに口を開いた。
「この手紙には、一族の暮らしている〈竜奴の里〉に君を招待したいと……そう書いてあるのだよ、紫苑くん」
今回のepの詳細は前作「箱庭の街」にて。