【来訪者】
湖面が月に照らされている。
どこからか聞こえる弦楽器の音色に、夜風にそよぐブドウが奏でる葉擦れの音。静かな音たちに包まれたチチェリットの街は、眠りにつきつつあった。
「ここが、学院都市チチェリットですか。やれやれ、だいぶ到着が遅れてしまいましたね。もうすっかり夜になってしまいました」
人々がまばらに行き交う湖岸の通り。目深に笠を被った旅人が足を踏み入れた。
長い前髪で片目を隠したその旅人が、イウロ人から見れば驚くほど小柄で、幼い顔つきの少年であった事。
さらに、ようやく十歳になるかならないかという年齢の少女を連れている事。
目深に笠を被ったふたりの服装が、この辺りではまず見る事のない朔弥皇国の衣装である事……理由は様々だったが、すれ違う人々はみな物珍しそうに旅人を振り返る。
「困りましたね。街に着いたのは良いですが、肝心の学院の場所が分かりません。どなたかに道を聞かなければ……」
少年の方はそんな視線には慣れているのか──あるいは単に好奇心が勝っているのか──少女の手を引きつつ、きょろきょろと周囲を見回している。
そんな旅人たちのすぐ近く、湖岸に作られたちょっとした広場の前に彼らは座っていた。
「はぁ、ついてねぇ。西迷宮はクソ寒いし、魔物もやたらと強ぇし、女のガキなんぞには脅されるし」
「仕方ねーよ。西迷宮は、四迷宮の中でも一番結界が強ぇ迷宮だ。俺らみてぇなはぐれ者には難易度が高すぎる。初めから、西迷宮がダメなら南迷宮にって決めてたろーが」
「同じ事を考える連中が、腐る程いるだろうよ。はぁ、あのガキを売れていりゃあ、しばらくは路銀も保ったのによぉ……」
紫苑とイリスに悪だくみを阻止された、流れのイウロ人冒険者たち。
彼らは紫苑の想像通り、迷宮に来たは良いもののその難易度にくじけて断念。路銀に困ってアーク人の子供を売ろうとしたわけだが、その企みも大失敗。現在は、やる事もなくたむろっているというわけだった。
「はー、都合よく金ヅルが舞い降りてきてくれねーもんかなぁ……」
冒険者の一人が、そうつぶやいた時だった。
「もし、そこのお方」
質素だが質のいい着物を纏った、華奢な朔弥人の少年。その腕に抱きついている、人形のように整った顔立ちの少女。
──御しやすそうな獲物が、そこに立っていた。
「マジで来たわ金ヅル」
「はい?」
「いや、こっちの話だ」
冒険者はにやりと笑って、純朴そうに瞬きする少年を見上げた。
「旅人さんよ、俺らに何の用なんだ?」
「我々はわけあって、チチェリット学院に行きたいのです。もしご存知でしたら、道を教えてはいただけませんでしょうか」
冒険者たちは顔を見合わせた。
戦闘の連携には全く活かされない、ゲスな以心伝心を働かせ──旅人を囲み圧倒するように、立ち上がる。
「教えてやっても良いぜぇ、朔弥人のにいちゃん」
「本当ですか。ありがとうございます」
「あぁ。ただし、条件がある」
冒険者は、下卑た視線を少女に向けた。
その瞬間、髪に隠れていない少年の片目がすぅっと細まった事に、冒険者たちは気付かない。
「俺ら、ちょっとばかし金に困っててよ」
「ついでに、ちょっとばかし遊び足りなくてな」
「そういうワケだから、学院に行く前に有り金全部と、そのかわいい嬢ちゃんを置いて行きグゲェッ⁈」
少女に手を触れようとした瞬間。冒険者のひとりが宙を舞った。
「「は……?」」
悲鳴を上げる間もなく、湖面に着水する仲間を見、少年の方に向き直る。
冒険者と目が合った少年は、藤色の目を細めて言った。
「失礼。妹の周囲にハエが飛んでいたもので」
がこん、と少年が持ち上げたのは丸形の木机。朔弥国で伝統的に用いられているそれは、いわゆる〈ちゃぶ台〉と呼ばれるもので……
「どっから出したよそのちゃぶ台⁈」
「野暮なお方ですね。秘密の隠し物など、男ならひとつやふたつ、持ち合わせているものでしょう」
ちゃぶ台を横に置いて、少年は肩を竦めた。
「さてと。あなた方が道をご存知ないなら、他の方に聞こうと思っていましたが……妹に手を出そうとした事、許すわけにはいきませんね」
静かな風が、少年の片顔を隠す前髪をふわりと持ち上げた。
──その額から頬にかけて。無残に引き裂かれたような傷跡の上では、濁った色の瞳が空虚に世界を睨んでいた。
「この天月、いざ推して参ります」
少年がにこりと微笑んだ──次の瞬間、冒険者たちは自分の身体が宙に舞っているのを認識した。
「「「うぉおぉおおおぉおおっ⁈」」」
野太い悲鳴を伴奏に、爽やかに湧き上がる複数の水柱。
見て見ぬ振りをしようとしていた通行人が間抜けに口を開ける中、少年は何事もなかったかのようにちゃぶ台を拾い上げた。
「さてと……いざ参るとしましょうか。我らが同胞、紫苑・アスタリス殿に会いに。天祐、お前はまだ歩けますか?」
「むり。歩けない」
即答して、ぴょんと兄の背に飛び乗る少女。
その動きを予想していた少年は、素早く後ろに回した片手で妹を支えた。
「もう夜ですからね、疲れるのも仕方がないです。お前はゆっくり寝ていてください」
「……ん」
苦笑する兄の背中に抱きついたまま、少女は頷いた。
「やっと、会える」
月光を移す湖面を見つめながら、少女は、小さな声で呟いた。
「紫苑・アスタリス。もうひとりのツス。もうひとりの……わたし」
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