【学院教授】
迷宮の中は、私たちの世界とは似て非なる構成をしている。
その差を決定付けるのは、この世のありとあらゆる理を支配している〈星沁〉の密度だ。
星沁の密度が高ければ高いほど、私たちの無意識下での体力消費が酷くなって、迷宮内に居られる時間が短くなる。
だから冒険者は迷宮にいられる時間を長くできるように身体を鍛え、慣らし、こまめな休憩を心がける。
私たちだって同じ。身体を鍛えて、迷宮という環境に身体を慣らして、そして……
「失った糖分を補給するのが、やっぱり最重要案件だよね!」
糖分補給を終えて幸せいっぱいな腹部をさすりながら、私は笑った。
ジンジャーティーは極寒の雪道で冷えた身体を温めて、ゆず蜜タルトはその芳醇な香りと甘さで疲れを癒してくれた。
「はわぁ」と幸せのため息をつく私の隣で、イリスちゃんは肩をすくめる。
「その意見には同意するわ。健康体でいる事が、迷宮で一番大事な事よね」
湖岸沿いに伸びる帰り道は夕陽に照らされ、柔らかい影が私たちの動きに合わせて揺れている。
琥珀色に染まる湖は、たくさんの銀沙をばらまいたかのように煌めいていた。
「いやー、でもイリスは頑健すぎだと思うんだよなー」
ふいに、ルーク君がにやりと笑った。
「むしろ頑健ムキマッチョすぎてなー。乙女らしさが無いっつーかむしろ漢らしいっつーか痛いイリス髪引っ張らないでお願い」
「うるっさいわねー。頭部の人参アンテナ、私が収穫してあげましょうか」
言いながら、イリスちゃんはルーク君のアホ毛をびんびんと引っ張っている。
ルーク君の髪の色と相まって、確かに畑から引っこ抜かれる人参のように見えなくも無い。と思う。
「痛ってぇーよ! ってかもう収穫しかかってんだろーがこの金ピカもろこしヘアー!」
無抵抗にアホ毛を引っ張られていたルーク君は、ここて反撃に出た。
高い位置でまとめられたイリスちゃんの髪の尾を、ガッと掴んで引っ張ったのだ。
「ちょっと、痛いじゃないの根腐れ人参! って言うか、もう一度言ってみなさい!」
「あぁ、何度だって言ってやるねー」
無言で睨み合ったのはほんの一瞬。
よく似た若草色の視線が交錯し火花を放った、次の瞬間には。
『コーンスープにしてやる!』
『グラッセになるまで火にかけてやるわよ!』
『そっちがその気ならあんたんとこの親方のシチューに』
掴み掴まれ罵り合い。見慣れた喧嘩が勃発していた。
(わー。また始まったー……)
巻き込まれないように少しだけ離れて見守りながら、私は首をかしげた。
(髪色であだ名の野菜が決まるなら……私、紫玉ねぎ?)
サラダに入れると美味しいけれど、スープに入れるには色合いが良くない野菜だ。
子供から大人まで大人気なとうもろこしや、汎用性の高い人参には負けてしまう……などと悲しい想像をしてしまったので、ぶんぶんぶんと首を振る。
だんだん周囲の視線が痛くなってきたので、『そろそろ止めようかな』と、罵り合うふたりを振り返った時だった。
「あ……!」
建物に押しつぶされそうな、狭い路地裏。
無難な生活をしたいであろう人間ならまず入らないようなその暗がりに、イウロ人の迷宮冒険者が集まって何かを取り囲んでいる。
彼らの足の隙間から見えるのは、へたり込んだオリーブ色の足で──
「ごめんふたりとも、すぐ戻る!」
──気付いた瞬間、私は駆け出した。
唖然とするふたりの前を駆け抜け、路地裏にたかる冒険者たちの目前で跳躍する。
「うぉっ⁈」「何だ⁈」
冒険者たちが作っている人の柵を跳び越え、壁を蹴って着地。
彼らの唖然とした表情が抜けきらないうちに、私はオリーブ色の肌をした放浪民族の少女を抱き抱えた。
「大丈夫?」
怖くないようにとアーク語で話しかけると、アーク族の少女は何度も頷き、袖に縋り付いてくる。
どうやら、言葉が話せないようだ。何度も口をパクパクと動かし、必死で訴えてくる。
『助けて 』『怖い 』『帰りたい 』──全ての言葉に、私は笑って頷いた。
「その紫の髪……朔弥人か 」
私と同い年くらいの冒険者が、吐き捨てる。
振り返った私を、冒険者たちは侮蔑的な目で見下ろした。
「東国の猿が、人間に口出しする気かよ!」
「東の猿野郎が浮浪者を庇うってか。お似合いの構図だなぁ、おい!」
絵に描いたような悪漢面の冒険者が、せせら笑う。
今まで少女をいたぶるのに使っていたのであろう棒を振り上げるのを見て、私は目を細めた。
『招鬼__【鎌鼬】』
呟くと同時に展開される風の刃。
振り下ろされた棒が半ばから折れて木粉を散らす姿を、冒険者たちはぽかんと口を開けて見ていた。
「……そのぐらいなら、防げるよ。私、そういうの得意なの」
少女を背中に庇いながら立ち、私は静かに言った。
「攻撃術式も使えるよ。でも、あんまり使わせないで欲しいな。苦手だから、手加減ができないの」
「こいつ……!」
冒険者の男が今度は、剣を抜く。
私は少女を押しやって、鋭い穂先を持つ長杖を構えた。周囲の音が引いていく感覚。緊張の糸が張り詰めていく空間の中で、踵にぐっと力を込めた時──
「あーら。楽しそうな事してんじゃないの 」
男の剣に、落雷が落ちた。
悲鳴と共に投げ出された剣は地面に落ち、どろりと溶けた剣身が石畳に滴り落ちる。
「な……、なぁ……っ⁈」
「さっきの威勢はどうしちゃったのよ、冒険者さん。この街は、〈学問〉の街なのよ? 術師がいるのは当然じゃない 」
カツン。
イリスちゃんの靴が、脅すように高い音を鳴らす。蒼い刀身を持つ短刀杖をくるくると回しながら、イリスちゃんは若草の目を光らせた。
「冒険者の礼儀は、『力で示せ』でしょ? 試してみれば良いわ。ロクに手入れもされてない棒切れを振り回す無法者たちと私たち、どっちが強いのか」
この冒険者たちが、どれだけの経験を積んできた人なのかは分からない。
けれど、イリスちゃんが纏う本物の空気を察する事は、できたみたいだ。
路地裏の入り口に立つイリスちゃんの後ろで、湖面が暗く光っている。薄暗くなった世界の中で、イリスちゃんの身体から弾ける電気の光が、パチパチと明滅していた。
「あんた達はどうしたいの? さっさと立ち去るか、針山になってから湖にぶち込まれたいか。十秒待ってやるから、選べ。ほら十、九、八……」
「う……うわぁああぁあああ‼︎」
「ひぃいいいいい‼︎」
壁側に退いた私の横をすり抜けて、慌てて路地の奥に駆け抜けていく冒険者たち。
ありがちな予想をすると『農家の次男三男坊が集まって迷宮に挑んだもののうまく行かず、人身売買に手を伸ばそうとした』……という所だろう。
住民票の無い旅人、特に顔立ちが総じて綺麗な事で知られるアーク族は、人買いの被害に遭いやすい人たちだ。
「……あら、つまんないわね。とっておきの『湖に投げ込んで感電コース』を使ってあげようと思ってたのに」
「イリスちゃん、それやって死なないのルーク君くらいだから、普通の人にやっちゃダメだよ」
「いやオレだって死んじゃうから。感電って怖えんだぞ? 良い子の皆が真似しちゃいけねぇヤツな……それより」
ルーク君は薄汚れた地面に膝をつき、私の腕の中にいる女の子に声をかけた。
「おい、大丈夫か?」
「……」
無言の頷き。黒曜石のような艶を放つ髪が、女の子の動きに合わせてサラサラと流れる。
黒地に赤の刺繍が施されたアーク族特有の衣装、その袖口から伸びる手には、転んでついたのか擦り傷が残っていた。
「あ、怪我してるね。ちょっと待って」
慌てて首を振ろうとする女の子の手を取ると、小鞄から出した洗浄液で傷を洗う。傷の表面が綺麗になった事を確認すると、私はそっと目を閉じた。
『深き処に住まう者、あわいの世に生きる民よ』
心臓という水源から、ドクンと脈打つ流れを意識する。
身震いしたくなるような感覚を携えながら流れるそれは、ほのかな熱と一緒に、指先の水脈に辿り着く。
『風となりて、水源より至り──我が言の葉によりて、我が友に清浄なる銀の盃をもたらし給え』
目を開けると、私の指先からは、翡翠色の燐光が溢れでていた。
全ての生命を司り、この世の摂理を書き換える力を持つ〈星沁力〉。この力を自らの内から喚び起こし、世の理に干渉する技術を得た人間を、人は〈術師〉と呼ぶ。
(……行って。流れ、満たして、この子を癒して)
女の子の手を包み込んで、願う。
水色の光に顔を照らされながら、私は慣れた祝詞を紡ぎ上げた。
『招鬼__【癒泉】』
私の生命を変換して作った星沁の光は蛍のように舞い、オリーブ色の手を柔らかく取り巻く。
目をまん丸くして見つめてくる女の子に笑いかけると、私はその子の手を引いて立ち上がった。
「さ、もう大丈夫。早く自分の一座に帰らなきゃね。一座の人はどこにいるの? 私たちに案内できる?」
女の子は困ったように私と、純粋なイウロ人であるイリスちゃんを交互に見ている。
『なんで朔弥人がイウロ人と一緒に 』『こんなに優しくしてもらって大丈夫なのか。裏があるんじゃないだろうか 』……気になっているのは、そんな所だろう。
「私ね、見た目は朔弥人っぽいけど、半分はイウロ人なの。だから〈学院〉に所属もできてるんだけど……」
自分の鼻先を指差しながら、私は言った。
もう幾度となく繰り返してきた説明をしながら、女の子の目をまっすぐに見つめる。
「そんなに難しく考えて貰わなくて良いんだよ。私とイリスちゃんがあなたを助けたのは、あの冒険者さん達が、同じイウロ人として気に食わなかっただけだから……だよね?」
「そこで私に確認取る?」
相槌を要求した私に、イリスちゃんは眉をひん曲げる。
金髪碧眼、体格良し、強面良し、爆胸良し。『イウロ人といえば』という外見要素を全て持ち合わせたイリスちゃんは、しかめっ面のまま女の子を見下ろす。
「あんたが腰に下げてる鈴楽器……楽師一座の子って事よね。別に変な連中に告げ口したりはしないから、野営地を教えてくれないかしらね。そうしないと、私たちも帰れないのよ」
「………… 」
イリスちゃんに凝視された女の子は、すすすーっと私の背面に移動した。
その反応に、微妙にショックを受けて仰け反るイリスちゃん。額に指を押し付けため息をつく彼女を横目に見ながら、私はどうしたものか、と首をかしげた。
女の子は喋れないし、たぶん文字も書けない。自力で帰らせるのも危ないけれど、たぶん女の子は野営地が街暮らしの人に露見するのを恐れている。
完全なる膠着状態だ。
「えーっと……」
背中にひっついた女の子と、しかめ面のイリスちゃん、にやにや笑うルーク君を順繰りに見る。
どうしよう、このままこの子の保護者が来るのを待った方が良いんだろうか──私が、考えを巡らせていた時だった。
「エィシャナ! 」
絶叫じみた女の人の声が、路地の外から響いた。
驚いて振り返ると、髪にスカーフを巻いたおばさんがのし棒片手にこちらを睨みつけている。
「オワノネセチェ、モーァ、エィシャナ!」
「……ねぇ。あのおばさん、なんて言ってんの?」
「えーと……『私のエィシャナに何してる!』って言ってる……かな」
イリスちゃんに答えながら、私は頬が引きつるのを感じていた。
あのおばさんから見た路地裏の構図。それは、屈強なイウロ人ふたりから、朔弥人が『私のエィシャナ』を庇っているという状況だろう。
無抵抗でいたら十中八九、イリスちゃんにのし棒がヒットする。
「あの、これには事情が……」
おばさんがのし棒を振り上げる前にと、私は前に進み出た。
この場で諍いを起こした場合、街の掟で裁かれてしまうのは流れ者であるこの人達だ。女の子の背を押して促しながら、私が口を開こうとした時。
「おや、君たちがその子を見つけてくれたのかね」
のんびりとした男性の声に、私はパッと首を回した。
くたびれた革のコート、無造作に束ねられた茶髪、ヒビが入った眼鏡の奥で光る緑玉色の瞳。浮浪者と言えば、というイメージを具現化したようなその姿を見て、イリスちゃんが驚きに叫ぶ。
「オードラン教授!」
「やぁ、イリスくんに紫苑くん。久しぶりだね。それに……ヴィレッジ商会のルークくんか。元気そうで何よりだよ」
ひらひらと手を振る緑眼の男性、その名前はエリック・オードラン。
私とイリスちゃんが所属する学院の教授で、両親が亡くなった私を引き取ってくれた、養父でもある。
ふらっと野外調査に出かけたまま行方をくらませていたのだけど──その浮浪者然とした服装を見るに、あまり平和的な場所にいたわけではないらしい。
「オードラン教授……また、一段とひどい格好して帰ってらしたわね」
アーク族のおばさんと会話する教授を見て、イリスちゃんが苦笑いする。
事情を理解してくれたらしいおばさんが女の子を連れていなくなると、教授は私たちの前に方向転換した。
「君たちは、私がまた『ひどい格好をして帰ってきたな』と思っているだろう。学院に所属する者としてあるまじき、浮浪者のような服装であると」
指を振り、歩き、立ち止まってウィンク。
学院生ではないルーク君が唖然とする中、教授は、教壇に立っているときのような口調で言葉を紡ぎ始める。
「しかしだね、私は小綺麗なだけの馬車よりも、砂煙と音楽に取り巻かれた、風情あるアーク一座の荷車の方が好ましいと思うのだよ。彼らは旅人に優しいし、しかも高額な運賃を要求してくる事もない」
「要するに、その辺のアーク一座をヒッチハイクして帰ってきたのか。天下の学院教授サマが」
鍛治師のつぶやきに、イリスちゃんが肘鉄をお見舞いする。
「げふっ」と息を吐き出すルーク君には構わず、教授はにこやかに肩を竦めた。
「まぁ、アークの人々が通行を許可されている道は、帝国公路と違って平和的な道ではないからね。同行者たる私も、多少の荒事には参加しなければならないし、困っていれば手を差し伸べる必要だってあるのさ。迷子探しなどは良い一例さ」
言いながら、教授はひび割れた眼鏡を外し、新品の眼鏡を装着した。
もともと整った顔立ちをしているおかげか、それだけでも幾分か浮浪者感は改善される。
「さて、私はこの眼鏡を修理に出しつつ、学院に帰るとしよう。これはお土産だ。ココルという果実を使った携帯食らしいよ」
「え? あの、良いんですか?」
何気なく渡されたのは、革製の小さな袋。
麻紐のようなもので無造作に閉じられたそれは、見た目よりも軽い感触を手に伝えてくる。
「知り合いに貰ったのだが、私はココルをあまり食べないのでね。女子はこの果実が好きだと言うし、君たちの方が美味しく食べてくれるだろう?」
教授は穏やかに微笑むと、鼻歌交じりに去って行った。
次第に遠ざかる『かっぽかっぽ』という音は、靴底が無残に剥がれた長靴から聞こえてくる音だろう。
「……すげーな、お前らの先生」
「アレで通常運転なのよ、うちの教授は」
「タイミング最高じゃん」と呟くルーク君の前で、イリスちゃんは『今更だし』とばかりに伸びをした。
「いろいろ狙ったようなタイミングで物出してくるのよね。どうなってんのかしら……って、どうしたの紫苑。ぼーっとしちゃって」
「え? あぁ……あの、ちょっと思ったんだけど」
食えない態度で有名な教授の背中を見送りながら、私はちょっと首を傾げた。
「エリックおじさん、帰ってくるのが早いなぁって……。ほら、来月まで休講って言ってたから」
「あら? 確かにそうね」
眉をひそめるイリスちゃんと顔を見合わせ、瞬きする。
調査に出る直前の講義で、教授は『来月まで休講にするのでレポートを作成しておくように』と課題を出してから出立したのだ。帰ってくるには、早すぎる。
「なんか理由があって、呼び戻されたのかもね。優先度の高い調査を上から回されたとか、そんなのじゃない?」
「うーん。そうなのかなぁ……」
教授の姿が、曲がり角で見えなくなる。
うすくオレンジ色がたなびく空。人通りの減った湖岸は街灯に照らされて、紺藍色の湖面は眠たげに揺れていた。
「お前らの先生がどうとかってのは、オレ的にはどーでも良いけどよ」
ふいに、ルーク君が手を持ち上げた。
無意識のうちに目で追った私とイリスちゃんの前で、ルーク君の指は、街で一番高い塔の時計盤を指差す。
「お前ら、門限じゃね?」
「「…………」」
時計の針が、無情に動いている。
透し彫りを施された二つの針は──門限六分前を、指していた。
「うわぁっ⁈」「やばいっ!」
戦闘用長靴の性能を最大限に活かし、疾走開始。
厳格な寮母さんが、鞭をビシビシ引っ張りながら『懲りないわねぇ、このおてんば娘どもが!』と禍々しい笑みを浮かべる未来図が容易に想像できる。
「ありがとねルーク君、また今度!」
学年トップの俊足を活かして、私は加速した。
湖岸通りを四分で抜けて、学院敷地は一分で突破すれば、女子寮にギリギリ到着できる。
「イリスちゃん急いで遅いよーっ!」
曲がり角で一瞬振り向いて、私は叫んだ。
少し遅れて走るイリスちゃんは、鬼気迫る表情で金髪の尾をたなびかせている。
「うるっさいわね急いでるわよっ!」
悪態をつきながら疾走、低い塀を飛び越えて学院敷地に乱入。
「わー!待って待って閉めないで!」
「入るわ、入るから待ってちょうだい!」
整備された芝生を散らしながら、閉まりつつある扉目指して真っ直ぐ進む。
いつも通りの日常を見守るように、星を抱き始めた空は暗い色に移ろいつつあった。