【郷愁の残り香】
西迷宮都市チチェリット。
またの呼び名を、学問と芸術の街。学院都市チチェリット。
古の伝承が眠るとされる夢幻迷宮、その謎の解明を求めた人々によって作られた学び舎が、小さな漁村だったチチェリット村をイウロ帝国有数の都市に作り換えたとされている。
学院には帝国各地から優秀な人材が集い、また湖岸や迷宮の美しい風景に惹かれた芸術家達が、この地で多くの作品を生み出していく。
そんな、浮世離れした雰囲気を持つこの街には──
「千八百ね」
「いや千六百だっ!」
──現在、恥も名分もかなぐり捨てた交渉の声が響き渡っていた。
「あら、ここで出せる値段はそれが限界なのね? なら良いわ、よそで売るだけよ」
金属質な輝きを放つ枝角を振りながら、イリスちゃんは口端をつり上げる。
その笑顔は、彼女の整った容姿を台無しにするくらいの──いわゆる『ゲス顔』というモノに、変貌している。
「最近あんた達の商会が質の良い素材を買っちゃうから、他の商会は素材に飢えてるらしいのよねぇ。たぶん、ここよりはもっと良い値が付けられるわ。もしかすると、継続的に買ってもらえるようにも」
「だー、分かった、分かったって! 買うよ、うちで買うっ! けど千七百で勘弁してくれ!」
「ありがとう。持つべきは心優しき友ね、ルーク」
イリスちゃんがにっこりと笑う中、枝角を受け取った少年──ルーク君は対照的な苦笑いを浮かべた。
「残念な事に、オレはそいつには恵まれなかったみたいだな。とりあえずお前は対象外だわ」
「あら失礼ね。元はといえば、あんたが無茶ぶりな依頼を出してくるのが悪いのよ。私たちは、大人でも躊躇するような依頼をこなしてあげたのよ? ちょっとくらいサービスしてもバチは当たらないと思うけどね」
「学院の人間と、その辺の冒険者を比較するってのがまずおかしいっての。戦力差が歴然じゃねーか……」
ルーク君は肩を竦めた。
「ま、報酬の他に、約束の品は用意してっからよ。ひとまずの所は、それで勘弁してくれ」
そういうと、ルーク君はススだらけの作業着から四枚の羊皮紙を取り出した。
紙の表面に書かれているのは、『跳ね兎亭 日替わりタルトセット無料引換券』の文字。
「やったぁ!」
テストで良い点を取った時のように、私は思いっきり飛び跳ねた。
この辺りの商会でやり取りされる、この引換券。これは、この辺りで一番人気のカフェで使える非売品なのだ。
今日の日替わりメニューは、確かジンジャーティーとゆず蜜のタルト。ほんのりと上品な柚子の香りに、サクッサクのメレンゲが絶妙にとろけ合う一品だ……あぁ、想像するだけでお腹が空いてきた。
「ふぁあ、ありがとうルーク君。すごく助かるよー」
交渉には口を出さずに待っていた私が声をかけると、ルーク君のアホ毛がピンと跳ねた。たれ目がちの若草色の瞳が、にいっと細まる。
「はぁー、こういう反応だよ。オレが求めてんのは。イリスも紫苑を見習って、ちっと位はしとやかにならねぇと。彼氏できねぇぞ?」
「余計なお世話よ人参カラー。その頭の人参引っこ抜くわよ」
そう言うと、イリスちゃんはルーク君の人参色がかった茶髪を掴んで引っ張り上げる。
そのまま踏んだり蹴ったりの喧嘩が始まるけれど、ふたりの体格は私とは違いすぎる。無理やり止めるのは不可能だと分かっていたので、私はのんびりと店頭に並んだ商品を眺めて、時間を潰そうとしたのだけれど。
『うっせぇぞルーク! そんなに騒ぎたいなら、外で遊んで来い!』
工房の奥から響いた声が、鼓膜を突き破る勢いで振動させる。
目の前にあった薬瓶がカタタッと音を立てて倒れそうになったのを、私は慌てて手で押さえた。
「い、良いんすか親方? オレ、午後からは掃除が──」
言いかけたところで、また怒鳴り声。
『客待たせてんじゃねぇぞボケ、さっさと行け!』
「う、うっす! 十八刻には帰ります、ごっつぁんですっ!」
半ば後ろに顔を逸らせながら、ルーク君は工房の中に叫び返した。
親方さんからの返事はないけれど、きっと大丈夫なんだろう。
「……というわけでオレ、非番になったわ」
「ちょうどいいわね。せっかくだから、一緒に〈跳ね兎〉に行きましょ……悪いわね、ちょっとこの人参借りて行きます! 今度の聖休日には手伝いますから!」
火の粉舞い散る工房にひと声。
じっと覗き込んでいると、炎に照らされる人影のひとりが『分かった』という風にハンマーを持ち上げた。
「そうと決まれば行きましょ。さ、あんたもぼさっとしてないで」
イリスちゃんはちょっと眉を上げて笑うと、スタスタと歩き出した。
彼女が革製の丈夫なコートを脱ぐと、シャツ越しにも分かるがっしりとした肩が露わになる。年齢は同じ十五歳のはずなのに、イリスちゃんは力が強く、私よりもずっと背が高かった……いや。正確には、私が極端に小さいのだけれど。
「どうかした?」
イリスちゃんが振り返ると、今度はシャツの中に無理やり押し込められた双丘がたぽーんと震えた。
「むっ……」
私は、己のそれを見下ろした。
しかし、そこには緩やかな膨らみがわずかに付いているだけだ。胸当てでかろうじてごまかせている──と思いたいけれど、たぶんそんな事はない。
「イリスちゃんがあの山の峰なら、わたしは土盛りだね……お墓の土盛りサイズだよね……」
がっくりと脱力しながら言うと、イリスちゃんは訝しげに眉をひそめた。
「え? あぁ……まぁ、だいぶ身長差があるものね。でも、山と土盛りって程の差はないでしょ。せいぜい頭ひとつ分じゃない」
そっちじゃない。
私がいくら胸中で激しいツッコミを入れても、イリスちゃんはきょとんとした表情で見ているだけだ。半ばうつむきながら唸っていると、ふいに小さく耳打ちしてくる声が聞こえた。
「知ってるか紫苑。迷宮に生えるココルの実は、女性の胸部成長を促進するんだとよ」
「っ! 」
私は思わず、ルーク君を振り返った。
イリスちゃんが気付かない悩みを察した能力は、商人としての観察眼か、はたまたナンパによる膨大な女性データの賜物か。私としては、どちらでも構わない。
胸部の成長を促進する、夢の果物。そんなものがあるなんて聞いたら、食べないわけにはいかない。目の前に、山脈のような胸部を所有する相手がいるのだから、なおさらだ。
「いっ、イリスちゃんっ!」
気付いた時には、イリスちゃんに詰め寄っていた。
『あっまずいな』と、理性が一瞬考えなくもなかったけれど、すぐにその思考は雪崩に埋もれて崩落する。
(大いなる奔流に乗ってしまったら、その流れに逆らわず、受け流し、利用する)
そんな言葉を頭の中で反響させながら、私は背伸びしてイリスちゃんの瞳を覗き込んだ。
「え、えぇ。何?」
「明日は、ココルの実を取りに行こうよっ!」
「えっ?」
イリスちゃんはきょとんとした顔をした。
それもそのはず。ココルの実は迷宮にある無数の洞窟、その深い場所にしか生えない植物なのだけれど……私は、洞窟を探索するのが大の苦手なのだ。
理由は単純。洞窟は『魔物を風で吹っ飛ばす』戦法が得意な私とは、相性があまり良くない。というか最悪なのだ。
広い場所であれば、前衛の人が飛び退いた瞬間に術式を開放すれば良い。でも洞窟は基本一本道で、天井には脆く折れやすい石柱なんかがたくさん突き出ている。そんな所で、強風を起こしたらどうなるか。結果はお察しだ。
「私は別に構わないけど……あんた、洞窟に入るのは嫌だって前から」
眉をひそめたイリスちゃんから、予想通りの質問。
私は即座に切り返した。
「うん。だから、それを克服する意味でも。ねっ、良いでしょ⁈ 今度は石が降ってこないように気を付けるから!」
「落ち着きなさいよ。石の前に、まずあんたの杖が刺さる」
私の持つ杖を顔のわきに押しのけると、イリスちゃんは苦笑した。
「別に良いわよ。私もあんたも、今週の課題はもう終わらせてるものね」
「やったぁ!」
私は飛び上がった。
杖を彩る銀の輪がシャリンと音を奏で、青色の長スカートがふわりと持ち上がる。
よく『散歩前の仔犬』と評される動きで喜びを表現すると、イリスちゃんとルーク君は、顔を見合わせて笑った。
歩を進めるたびに、湖面の煌めきが目を射抜く。
イリスちゃんが立ち止まったのは、湖の冷気をはらんだ風が、そっとそよいで過ぎ去った時だった。
「……今日は、風が気持ち良いわね」
イリスちゃんが言葉を落とした。
うっすらと汗をかいた額をぬぐい、空を見上げる。彼女の若草色の瞳の中には、金色の光の粒がきらきらと光っていた。
彼女につられて顔を上げた私は、雲ひとつない空を見上げ、目を細めた。
「空が青いと、安心するよね」
私の呟きに、ふたりは無言で頷いた。
刷毛で描いたような薄い雲の下を、一羽のワシが弧を描いて舞っている。乾燥して、澄みきった空気が、肌に心地良かった。戦闘で火照っていた身体を、湖畔の風が優しく撫でていく。
その心地よさに、私はそっと目を閉じた。その時──
「……?」
──ふと懐かしい匂いを嗅いだような気がして、紫苑は振り返った。
(いまのは……)
なめらかな石畳、白塗りの壁。
装飾を兼ねた淡い褐色のレンガと、色とりどりに飾られた花壇。花の香りに包まれながら街を歩く、上品な服装の人々。視界に映ったのは、いつも通りの光景だった。
「どうかしたの、紫苑?」
「いま……」
言いかけて、首を振る。
ついさっきも、空耳としか思えない声に反応したばかりなのだ。わざわざ言及しても、大した意味はないだろう。
「やっぱ良いや。疲れてるのかな、なんかぼーっとしちゃって」
「いや、あんたがボケてんのはいつもの事でしょーが」
「え。私そんなにボケた事言ってる?」
「自覚がないのがもう末期よね」
イリスちゃんは両腕を持ち上げ、やれやれとばかりに首を振る。
そのイリスちゃんを覗き込んで、ルークくんはニヤリと笑った。
「まーまー、疲れたんだろ。魔物との戦闘直後なんだしよ。紫苑の体力を、お前みたいなムキマッチョ女と同等に考えてやるなって」
「……誰がムキマッチョ女ですって?」
ぴき、と。イリスちゃんの額から、確かに何かが切れる音がした。
「ムキマッチョはムキマッチョだろー。筋肉の塊じゃねーか」
「あんた、よっぽど湖に投げ込まれたいらしいわね。良いわよ、お望み通り投げ込んであげるわ」
拳をならして、イリスちゃんは戦闘モードに移行する。
その金髪がパリッパリッと電光を弾けさせるのを見て、私は慌ててふたりの間に両手を広げた。
「ダメだよイリスちゃん。あんまりびしょ濡れじゃあ、〈跳ね兎〉に入れてもらえないから……湖に投げ込むのはやめよう?」
「仕方ないわね。じゃ、殴るだけにしとくわ」
「うん、そうしてあげて」
「いやそこは止めようぜ紫苑。何さらっと暴力肯定しちゃってんの?」
ルーク君が引きつった顔で何か言ったような気がしたけれど、私はずっと、過ぎ去った雑踏に目を凝らしていた。けれど、眼に映るのは見慣れた光景ばかり。
何も変化がない街の日常には、私が郷愁を感じるようなモノは何ひとつ存在し得なかった。
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