【偽りの空】☆
挿絵あります
遠い昔の夢を見ていた。
自分がまだ、何も知らない子供だった頃の夢。
どこまでも広がる蒼穹と、銀色に輝く雪の世界が、当たり前に存在すると思っていた頃の夢だ。
息を切らしながら雪の斜面を駆け登ると、真っ先に見えるのは透き通った青い空。
雪に洗われた空を衝くように聳えるのは遥かなる峰々、その麓には深緑の森。
乾いた風が気ままに踊る景色を眺めていると、率いているきょうだいの一人が歌い始めた。
喜び。感動。畏敬。あらゆる感情と願いを込めて、果てしない大地に捧げる子守唄。
次々と歌い始めたきょうだい達につられ、歌詞のないその歌を風に乗せると、それは、高く、低く、朗々と雪原に響き渡って……
「またここに来ていたんだね、サム」
柔らかいその声が聴こえた瞬間、サムの意識は夢から弾き出された。
魔狼の背にもたれ、崖の中腹に突き出た洞窟のへりに座っている現実の自分は、ひどくカビ臭くて、みすぼらしい。
洞窟の外では、降り続ける雪の重さにたわんだ樹々が、空から降り注ぐ真珠色の光を映して輝いていた。
美しい景色だと思った。けれど、ここに『蒼い空』は存在しない。
「……いつ見ても、代わり映えがしない色だね。本来あるべき色が消えて、死んだような鈍色をしている 」
背後からの声に、サムは振り返らずに応えた。
「仕方がないよ。ここの空は、蒼く晴れるってことを知らないんだから」
背後の人物はため息をついた。
サムに近付くことなく、一定の距離を保った場所にある暗がりから、ためらうように告げる。
「サム、君に仕事だ。すぐに支度をしてくれるかい」
魔狼の耳がピクリ、と不快そうに動いた。
前脚に乗せていた顔を上げて、不満そうに唸り声を上げる。
「静かにしろ……大丈夫だから」
訴えるようにクンクンと鼻を鳴らし始めた魔狼の首をかいてやってから、サムは言った。
「今回はどこだい」
「朔弥皇国だ。東の国だよ」
「……ふぅん」
気のない返事をして、サムは立ち上がった。
毛皮のマントが風になびき、首から下げた呼び子笛があやしく輝く。冷たい光を放つ笛を一瞥すると、サムは洞窟の外に目を向けた。
純白に染まった大地。深い緑色の樹々。むき出しになった岩壁の黒色と、不自然だが美しい真珠色の空。それらの色をしっかり目に焼き付けると、サムは踵を返した。
一歩進むごとに光は遠ざかり、大地の底に続く闇が纏わりついてくる。からくり人形のように淡々と足を動かしながら、サムは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「──もう、後戻りはできないんだ」
◇◇◇
誰かの声を聞いたような気がして、私は立ち止まった。
「……?」
後方に広がるのは、柔らかい新雪に埋もれた樹々の群れ。
生き物が息を潜める森の中には、ただ木漏れ日だけが揺れていた。
「どうしたのよ、紫苑。何か見つけた?」
「いま、声が聞こえた気がして。子供みたいな……」
そう言いながら目を細めるけれど、辺りはしんと静まり返っている。
気のせい、だったのだろうか。
少し待っても静寂しか耳に届かない事を確かめると、私は前に向き直った。
「気のせいだったみたい。ごめん、もう行こっか」
「私も、行きたいのはやまやまなんだけどね」
隣に立つ友人──イリスちゃんが、短刀杖をくるくると手の中でまわした。
間抜けにぼけっと突っ立ってしまってから、気付く。
私とイリスちゃんは、複数の視線に囲まれていた。人間の視線ではない。明確で、剥き出しの殺意を露わにした魔物達の視線だ。
「……イリスちゃん。前衛、よろしくね」
私が雪に半ば埋まった長杖を引き抜くと、周囲の空気が張り詰めた。
じり、と包囲網を狭めてくる気配。少し開けた土地を囲む樹々の間から、輝く双眸がいくつも浮かぶ。
「はいはい。軽くひねるわよ」
不敵に笑って、イリスちゃんは背に手を伸ばす。右手にナイフ、左手に機巧が組み込まれた短刀杖。ふた振りの武器を携えて、金髪の友人は走り出した。それと同時に飛び出してきたのは──
『キィイイイイッ!』
黄色みがかった白毛を持つ、巨大なうさぎの群れ。ただし、その牙は肉食動物のように鋭く尖り、額には鹿のような枝角が突き出している。それは、〈ジャッカロープ〉と呼ばれる人喰い魔物の一種だった。
「慌てんじゃないわ……よっ!」
突撃をいなしたイリスちゃんは、魔物の背に手を置いて身体を持ち上げる。上空を取られ、反応が遅れた魔物を見据えると──
「お疲れ様」
ナイフを、振り抜いた。
『キャッ……』
細い声をあげて、一頭が雪の上に倒れ伏す。
一筋縄でいかないと悟ったのだろう、周囲の魔物達は、一斉にイリスちゃんに飛びかかった。
『深き処に住まう者、あわいの世に生きる民よ』
その隙に、私は祝詞の詠唱を開始する。
『風となりて、水源より至り──』
周囲を舞う雪が銀色の光に変わり、方陣から湧き上がる風に溶けて舞い上がる。
『キッ……!』
光に気付いた一頭が、方向転換してこちらに走り出した。
殺気と足音が、雪を散らして急速に迫る。しかし──
『キャッ⁈』
その魔物は、首を貫いたナイフにもんどり打って倒れた。
ナイフを投げた当人は、素知らぬ顔で予備ナイフでの戦闘を継続している。
『──我が言の葉によりて、此の地に清浄なる銀の鉾をもたらし給え』
口元に笑みが浮かぶのを自覚しながら、私は祝詞を完成させた。
「イリスちゃん、行くよっ!」
イリスちゃんはチラッと振り返ると、笑みを浮かべて飛び退った。
方陣の延長線上から、眩い金髪がなびいて消えた、その瞬間に。
『招鬼__【巻風】っ!』
──開放。方陣から突風が湧き起こり、ジャッカロープ達の足元を一度に崩壊させる。
ジャッカロープ達は必死で雪の中に爪を立てるが、風は強い力で彼らを押し流す。
やがて、ジャッカロープの後ろ脚が空中に浮かび上がった……その瞬間に、私は杖を地面に突き立てた。
「ごめんね」
シャリン、と。白銀の音色が、魔物を空中に突き離した。
◇◇◇
「派手に吹っ飛ばしたわね」
死んだジャッカロープの前にかがみながら、イリスちゃんは苦笑した。
私がまとめて吹き飛ばしてしまった群れは、戻ってくる気配がない。敵わないと思って、引いてくれたのだろう。こっそり胸を撫で下ろしながら、私は言った。
「だって、その……あんまり殺しちゃうと、良くないかなって。依頼されてる物は、もう回収できてるんだし」
「あんたねぇ、ジャッカロープは群れで行動する魔物なのよ? 一回手口を見せたら、どんどん賢くなるんだから。あんまり甘ったれた態度取ってると、いつか足元すくわれるわよ」
「うぐ…… 」
否定できない。
この森に暮らす魔物たちはみんな知能が高く、そして貪欲だ。
私たちが取り逃がした群れが、経験の少ない人を襲ったら怪我どころじゃ済まなくなるかもしれない。
淡々としたイリスちゃんの指摘は、正論そのもの。否定しようのない論破に敗れた私は、がくりとうなだれた。
そのはずみで、三つ編みにした髪が肩口から胸元に流れてくる。雪にまみれたその髪束は、陰気臭い夜のような紫色をしていた。
「……ごめんね、イリスちゃん」
髪を後ろに流して、私は言った。
「私、甘いんだよね、きっと。分かってはいるんだけど……」
「過ぎた事は仕方ないわよ」
そんな言葉と共に、ぽんと枝角が飛んできた。
慌てて受け止める私に、イリスちゃんは若草色の瞳を細める。
「もしかしたら、ビビッて人間を襲わなくなるかもしれないしね。『吹っ飛ばされたらたまらない!』……って感じで。さ、街に帰りましょ」
「えっ?」
私は首を傾げた。
角が綺麗に切り取られた、ジャッカロープの身体。なめせばそれなりの値段になる毛皮を、イリスちゃんは埋めようとしていた。
「イリスちゃん、毛皮はいいの?」
言いながら、私はジャッカロープに歩み寄った。ただでさえ寒いこの空間に、雪が降り始めている。毛皮を剥ぐなら、遺体を手近な洞窟まで引きずっていく必要があるだろう。
そう思って、遺体に伸ばした手は遮られた。
「残りは埋めて帰るわ。どうせ他の獣が食べてくれるでしょ」
「良いの? そんなに傷が無いし、そこそこの値段で売れると思うけど」
「だから、良いのよ」
イリスちゃんは大きなため息をついた。
「紫苑、自分では気付いてないんでしょうけど、顔が真っ青よ。こんな雪の中に留まってたら、風邪引いちゃうわ。早く迷宮から出ましょう」
私は首を傾けた。
術式を使った直後のせいか、ちっとも寒さを感じていなかったのだ。
「私、そんなに顔色わる──ックシュンッ⁈」
くしゃみが飛び出て、言葉を遮った。
直後、全身が寒さを思い出したかのように震え始める。
慌ててマフラーに首を埋めると、マフラーの縁に積もっていた雪が頬をひやりと撫でた。
「身体は正直ね。ほら、さっさと行くわよ」
イリスちゃんは鼻で笑って、歩き出した。私より全然軽装なのに、ちっとも寒くなさそうだ。
「イリスちゃん、そんな薄着で寒くないの……」
「……さぁ。呪いのせいじゃない?」
振り返らずに呟かれた言葉に、私は歩みを止めた。
──イリスちゃんの髪には、ひと房だけ白銀に染まった部分がある。今は手袋で隠れている手の爪は、黒曜石のように黒い色。女性にしては秀でた長身と、筋骨隆々の体格。
それらが彼女元来の体質ではない事を。そもそも、今のイリスちゃんの顔が、生まれ持ったものではない事を、私は知っている。
「え、えっと、その……」
「さっさと行くわよ」
頭一つ高いところからにやりと口端をつり上げ、イリスちゃんは肩を竦めた。
私は無言で頷いてから、黒い石畳の道をずっと辿っていく。ずっしりと重たい印象を持つ巨樹が減り、膝丈くらいの幼樹が増え始める頃になれば、目的地はすぐそこだ。
「着いた……っと!」
踏み固められた雪の上に出ると、イリスちゃんは思いっきり伸びをした。
──そこは、今いる空間が一望できる丘の上だった。鋭く連なる黒い峰々に、深い緑を刻む針葉樹の森。風に舞う白銀の雪に、忘れ去られたような黒い碑石。それだけなら、単なる美しい景色として片付けられる……けれど。
「……いつ見ても、変な色の空だよね」
開けた光景を見て引き起こされるはずの開放感、それを妨げるのは空の色だ。
雪をはらんだ鈍色とも違う、美しすぎる真珠色の空。異様な存在感を放つそれが、ここがただの綺麗な森ではないという事と──この世界が、作り物なんだという事実を知らしめてくる。
「眺めてたって、何も起こらないわよ」
無造作に言い捨てたイリスちゃんは、さっさと丘を下っていく。
彼女が向かう先の岩壁には、アーチ型の〈門〉が存在していた。五、六人の大人が並んで入れそうなほど広い〈門〉の内側には、空と同じ真珠色に輝く光の膜が揺らいでいて、向こう側を見ることはできない。
「向こうに出たら、商会に行きましょ。依頼品の納品もだけど、寮に帰る前にコレを売らないといけないからね 」
そう言ってジャッカロープの角を掲げたイリスちゃんは、〈門〉の中にずんずんと突っ込んでいった。真珠色の光はシャボン膜のようにその姿を包み隠し、彼女の姿はそれきり見えなくなる。
(気のせい……だったのかな?)
最後に一度、背後を振り返り、耳をそば立てる。
けれど耳に届くのは微かな風鳴りの音だけ。魔物の声さえ、私の耳には届かなかった。
「私も、帰ろ」
誰に言うでもなく呟いて、私も踵を返した。
すっと息を整えると、目を閉じながら光の膜の中へと足を踏み入れる。冷たいような、暖かいような不思議な感覚が額に触れた、そう感じた次の瞬間には……涼しく乾いた風が、頬をなでた。
「……」
閉じていた目をそっと開けると、まず、銀沙のようにきらめく水面が目を射抜いた。
何度か瞬きして目を慣らすと、眼前に広がる景色が鮮やかに浮かび上がる。
思わずため息が溢れるほど、深い瑠璃色をした湖。
穏やかな風に揺れる湖面の果てには、美しい白亜色をした街並みと、雪化粧をした黒い峰々が見えている。足元で揺れる草の柔らかさを感じながら、私は天を仰いだ。
──どこまでも続く、深みのある青い空。
あの真珠色の空には無い、果てしない広がりがそこには広がっていた。
「ちょっと紫苑。ぼさっとしてないで行くわよ?」
「あ、うん、ごめん!」
苛立たしげに腕組みした友人に謝り、私は駆け出す。
足元には小さな花が咲き乱れ、半ば崩れた石柱や石碑には、ブドウのつるが揺れていた。背後には、いま出てきたばかりの大きな〈門〉──この世界と、〈夢幻迷宮〉と呼ばれる空間を隔てる壁が聳え立っている。
──私達がこの〈門〉を介して行き来する事ができる、真珠色の空を持つ〈夢幻迷宮〉。
それは、『古よりの伝承が眠る〈神々の箱庭〉である』と、誰かが言った存在だった。