MY SWEET DARLIN' はじまりの日
――待っていたよ、ボクの巫女。
耳にではなく、その声は直接頭に響く。
ずっと聴こえるようになるのか不安だった声が、はっきりと聴こえる。
この国の支配者である、水竜。
国を縦断する大河の水源地に近い、大きな湖のほとりに建てられた水竜の神殿の奥深くに座し、人の営みを見つめ続け、人々の繁栄を見守っている。
しかし、時には大河を氾濫させ、時には大地を枯渇させる。
水竜の思いは、そういった自然現象でしか推し量る事ができない。
その事に、水竜も人も、不自由さを感じていた。
なんとかして、水竜の意思を的確に知ることは出来ないだろうか。
なんとかして、人に思いを伝える事は出来ないだろうか。
そんな人と水竜の思いを叶えるため、水竜の巫女が選ばれる。
唯一人、水竜の声を聴くことができる、稀有なる能力を持つ水竜の巫女。
水竜は巫女を通してのみ、その意思を人に伝える事ができる。
そして、水竜は荒ぶるものから、神へとその存在を変えた。
子供の頃に聞いた水竜と水竜の巫女の話は、決まってこんな言葉から始まる。
水竜の声を聴く「能力」を持つ水竜の巫女、となっていた。
けれど、私は水竜の声を聴く「能力」なんてものを生まれつき持ってはいない。
巫女は「唯一人」なのだから、例え次代の水竜の巫女になったからといって、水竜の声が聴こえるわけではない。
ずっと不安だった。
次代の巫女に選ばれたけれど、自分には特別な「能力」なんて無い事が。
水竜の声が聴こえるようになるのかが。
周りはみんな、「次代様」って、まるで既に巫女であるかのように接してくれるけれど、でも特別な何かが無い私が、そういう接し方をされることには抵抗があった。
それに、巫女らしくなんて、まるで出来なかった。
私は小さな村のパン屋の娘で、礼儀正しくとか、話し方を気をつけるとか、そういうこと何も出来なかった。
教えてもらっても、どうしたらいいのか躊躇う事の連続で。
私でいいんだろうか。
本当に巫女になってもいいんだろうか。
巫女になれるのだろうか。
そういう不安でいっぱいだった。
でも、その不安を消してくれる人がいた。
祭宮カイ・ウィズラール殿下。
全然気取ったところが無くって、私の心の中の迷いを見抜き、巫女になる事の意味を教えてくれた人。
もしもウィズがいなかったら、巫女になってなかったかもしれない。
ウィズがいなかったら、ウィズが祭宮じゃなかったら、もしも巫女になっても後悔していたと思う。
それどころか、三年前に村を出た幼馴染のルアと結婚しようと思っていたかもしれない。
悩みに悩んでいた、巫女に選ばれてからの半年を吹き飛ばしてしまうような、水竜の声が今は聴こえる。
何を悩んでいたんだろう。この声が聴きたかったのに、と本能が叫んでいる。
高揚感が、体中に広がっていく。
この声を聴くために、私は生まれてきた。
そんな風にさえ思えてくる。
水竜の神殿の最深部、水竜の座す奥殿の扉に手をかける。
ひんやりと冷たいドアに触れるけれど、その冷たさは高ぶる心を冷やしたりはしない。
むしろ心地よい冷たさに感じる。
重厚な装飾が施されている扉は、思いのほか簡単に開く。
遠目から見た時には、開くのには力がかなり必要そうに見えたので、あっけない。
ドキドキと高鳴る心臓を右手で抑え、恐る恐る中を覗いてみるけれど、薄暗くてあまりよく見えない。
「ササ。まだ儀式は終わっていませんよ。祭宮様がお待ちですから、なるべく早く前殿にいらっしゃい」
振り返ると、神官長様と前の巫女様が二人並んで立っている。
すっかり二人がいた事を忘れてしまっていた。
まだ巫女になるための儀式が終わっていない事はわかっているけれど、でもどうしても奥殿の中から水竜が呼んでいる気がして、奥殿に入りたい気持ちが抑えられない。
「わかりました」
短く返答をし、もう一度奥殿の中を覗く。
巫女になる儀式をしなきゃいけないことはわかっているけれど、でも今は少しでも早く水竜の傍にいきたくて、もっとその声が聴きたくて、儀式のことはどうでもいい。
傾いている陽の光が、奥殿の中にうっすらと差し込む。
光の道を辿るように、奥殿の中に足を踏み入れると、奥殿の高い天井と広い空間に、足音が響く。
コツン。コツン。
自分の足音だけしか耳に入ってくる音が無い。
水竜はどこにいるんだろう。
無意識のうちに後ろ手で扉を閉めそうになって、慌ててドアのほうに向き直る。
散々お行儀が悪いって怒られたのに、全然体に染み付いていない。
ましてここは水竜のいる場所。
いつもよりも、もっと慎重に行動しなきゃ。
扉を静かに閉じると、ぽっと建物の中に明かりが灯る。
ランプも何も持っていないのに、どうして明かりがつくんだろうと驚いて振り返ると、数十歩の距離のところに、うっすらと人影のようなものが見える。
その影が視界に入った瞬間、胸の高鳴りは更に大きくなる。
「水竜?」
思わずでた呟きに、返答はない。
近付きたい。
その気持ちと胸の鼓動が、その場所に行かなきゃいけないことを教えてくれる。
行かなきゃいけないんじゃない。
自分がそこに行きたい。
駆け寄りたい衝動を抑えて、冷静を装って影に近付く。
その影は思っていたよりもずっと近くにあることがすぐにわかった。
子供……?
遠くにいるように見えたけれど、実際には思いのほか近い場所に小さな子供が立っている。
子供のような姿形をしているから、遠くに立っているのかと思った。
水竜ってこんな小さな子供なの?
このチビっちゃいのが水竜?
「チビっていうな、失礼な」
頭の中に直接入り込んでくる声は、さっきよりもずっと高い。
でもさっきの声と同じ水竜の声だということを、私は誰に教えられなくても知っている。
だけれどすぐには信じられなくって、あと数歩というところで足が動かなくなる。
ふわふわと空中に浮かんで立っているように見える、小さな子供……そういうと怒られるんだっけ……は、不機嫌そうな顔をしている。
しかも、その姿は空気にかき消されそうなくらい儚い。
後ろの壁が透けてみえるほどに。
水竜の巫女って、水竜の声が「聴こえる」んであって、水竜が「見える」なんて聞いた事ない。
何で、見えるの。
何で透けてるの。
頭の中が混乱してくる。
私が見ているのは、何?
水竜なんだろうけれど、一体どうして。
「ボクの本質を見抜くとはすごいね、サーシャ」
踏ん反るように腕組みをし(ているように見える)、一歩一歩目の前に水竜が近付いてくる。
明らかに見下ろすようになってしまうので、どうしようかと思って膝を折る。
同じ目線、もしくはもっと下から水竜を見るように。
目の前に水竜が立つと、やっぱり顔の向こうには部屋の奥の様子が見える。
見えているけれど、触れる事は出来ない。
まるで昔話に出てくるようなお化けみたいに。
「驚いた? でもボクも驚いた。ここのところ何十年も、ボクの本質を見た人はいないよ。サーシャを選んで正解だったみたいだね」
水竜の小さな手が、触れるように頬の高さにおかれる。
触れようと指が動くけれど、素通りして肌の中に吸い込まれるように消える。
「さすがに具現化して見るまでの感応力はない、か」
納得したように手を引き、大きな瞳で顔を覗き込んでくる。
水のような蒼い瞳。
明らかに「異質なもの」であることを感じさせるような瞳で、目が離せない。
恐ろしさや禍々しさは感じないけれど、動く事が出来ない。
ただ吸い込まれるような蒼い瞳から目を逸らす事が許されないような気がする。
どのくらい経ったのかわからないくらい、水竜の瞳を見ていると、ふっと目が笑う。
「やっぱり色々あったみたいだね、三日間の間に。でもなってみると大したことないだろ、水竜の巫女も」
見透かされたような気がして、頬が自然に熱くなる。
なんとなく見ていた瞳は、ここを離れていた間の過去を見ていた目だったのだと、その一言で気付かされる。
神殿を出る前に、前の巫女様より伺ったご神託の内容や今の言葉から、水竜には全てお見通しなんだと、改めて実感する。
水竜はこの小さな体で、一体どれだけの思いを受け止めているのだろう。
「あんまり難しく考えなくていいよ。水竜の巫女は、基本的にはボクの話し相手だからね。神託っていったって、別に大した事言わないし、あんまり言いたくもないし」
「はい」
水竜は腰に手を当てて、右手の人差し指を私の目の前に立てる。
「あとね、別に敬って崇めたててくれなくっていいから。どっかの誰かみたいな言い方で嫌なんだけれど、同じ目線で、同じ高さで話してくれるかな。サーシャの考えている事、知っている事、色んなことを教えて」
どっかの誰か、がウィズの事を言っているってことがわかる。
次代の巫女としての研修期間が終わり、水竜の巫女になるための儀式のために一度村に戻った時、ウィズは言った。
同じ高さで、決断をする手伝いをしたい、と。
きっとその事を引き合いに出しているんだろう。
何も話していないのに、何で知っているんだろうとかっていう疑問は、全く湧いてこない。
目を合わせたときに、きっと全てを「視た」のだろう。
「それと、この奥殿の中は、ボクの力が満ちているからいいけれど、もしも前殿にいる時にボクが必要になったら、呼んで。そうすればボクとサーシャの間の回路が開くから」
言っている意味がよくわからないけれど、首を縦に振る。
きっと、今はわからないけれど、すぐに理解できるだろうから。
でも、呼ぶって言ったって……。
「何て呼べばいいの?」
子供に話し掛けるように話すのもどうかなと思って、カラやルアといった幼馴染に話す時のように話し掛ける。
「何て、か。別に何でもいいよ。水竜って呼んでくれてもいいし、ねえねえとか、おーい、でもいいし」
ふっと心にひっかかる。
「名前は無いの?」
その問いに、水竜が驚いたような顔をして、それから表情を曇らせる。
「ボクには名前が無いんだ。親も知らないし、生まれてから数百年の間、誰も名前をつけてくれなかったから」
哀しそうな顔をする水竜が、まるで年の離れた小さな弟のように思えてくる。
その体(水竜曰く本質)の小ささと、今にも泣きそうな表情が、守ってあげたいという気持ちにさせる。
本当は守られているのは、この国に住む私たちなのに。
小さな水竜に、こんな哀しい顔はさせたくない。
「名前、私がつけてもいい?」
それで水竜の哀しみが少しでも小さくなるなら。
「うん! サーシャの付けてくれた名前だったら、どんな名前でもいいよ。ボクに似合う名前を付けて」
水竜がすごく嬉しそうな顔をして、即答する。
嬉しそうな顔をして、ボクを見てといわんばかりに背筋を伸ばす。
くるくると変わる表情や仕草は、本当に人間の子供と何ら変わらない。
水竜の笑顔につられて、自然と笑みが零れる。
「水竜だから……リューとか?」
ぶーっと頬を膨らませて、水竜が抗議する。
「何でもいいって言ったけれど、そんな簡単なのやだよ。もっとカッコイイのがいい」
わがまま水竜め。
「じゃあ、うーん……」
カッコイイの基準がわからない。
大体、それらしい名前なんて浮かんでこないし。
王族っぽい名前も、目の前の水竜には似合わない気がする。
どうせなら呼びやすい名前がいい。
なかなか浮かんでこないので、水竜の顔を覗き込む。
どんな名前が似合うんだろう。
わくわくした顔で、水竜が次の言葉を待っている。
その瞳と表情を見ていると、頭の中に言葉が浮かんでくる。
「……レツ」
「レツ?」
頭の中に浮かんだ言葉が形になり、目の前にいる水竜の影がより濃いものになる。
「うん、レツじゃ嫌?」
直感で思いついただけなんだけれど、小さな少年のような水竜には似合っているような気がする。
頭の中に浮かんだ名前がレツだったからって言ったら、水竜は受け入れてくれるだろうか。
不思議そうな顔で、水竜は自分の両方の掌を見比べている。
水竜の向こうに透けて見えた景色が、さっきほどはっきりとは見えなくなっている。まるで体温を感じられそうなほど。
輪郭がはっきりしていて、存在感が名前を付ける前よりも、より強くなったような気がする。
「……いいよ、レツで」
右と左の掌を交互に見ながら、水竜レツは呟く。
気に入らなかったのだろうか。
さっきまでのようなはっきりとした反応が返ってこないので不安になる。
しばらく考え込むように掌を見つめ、それからゆっくりと顔を上げる。
「名前、ありがとう。ボクを呼ぶときはボクの名前で呼ぶようにしてね」
次の瞬間、水竜レツは弾けるような笑顔を見せる。
気に入ってくれたんだと、その笑顔が教えてくれる。
目の前から離れ、背を向けてレツは自分の名前を歌うように口ずさむ。
まるでこの空間に沢山の人がいて、その人たちに教えるように。
本当は私とレツ以外に誰もいないのに。
もしかしたら、レツには他の誰かも見えるのだろうか。
踊るように奥殿の中を飛び回り、柱や壁に向かってなにやら呟いている。
立ち上がり、遠ざかっていくレツの姿を見ている。
どのくらいの間、水竜の巫女でいられるかはわからない。
でもこうやって傍にいられる限りは、一度でも多く水竜の喜ぶ顔を見られるようにしたい。
それが水竜の巫女である間の、私の出来ること。
逆に、それ以外には何も出来ないような気がする。
もしも私がこの広い神殿に一人で取り残され、誰も話す相手もいない、外に出ることも出来ないとなったら、きっと心のネジが取れて、壊れてしまうに違いない。
水竜が人と同じように弱いものなのかはわからないけれど、でも巫女以外に話し相手すら持たない水竜の心を満たす事だけが、唯一私に出来ることのような気がする。
今初めて、前の巫女様が奥殿で長い時間を過ごしていたのかが、わかったような気がする。
なるべくこの小さな水竜の傍にいてあげたいと思ったのだろう。
例え姿は見えなかったとしても、きっと同じように思ったに違いない。
水竜の一生の中から考えたら短い時間かもしれない。
それでもより長く一緒にいられるようにしたいと思う。
ぴたっとレツの動きが止まり、思い切りよく振り返る。
「忘れてた。サーシャ、まだ儀式が残ってるんだよね。早く行って」
慌てて目の前に駆け寄ってきて、早く早くと手を振り、急かすように扉の前に導かれる。
あまりの慌てように、どうしたのかと思ってレツの顔を覗き込むと、大きな瞳で見返してくる。
全てを見通すような蒼い瞳で。
「この先にはボクは一緒にいけないけれど、ボクはサーシャを巫女として認めた。だから偉そうに自信をもって振舞えばいい」
実体の無い腕で扉を押すと、不思議なことに扉が外側へと開く。
空はもうすぐ月が支配する時間が近いことを教えるように、真っ赤に燃えている。
月の支配する時間になる前に、全ての儀式を済ませなくてはいけない。
あとは王族である祭宮に、巫女である承認を貰う儀式が残っている。
日が暮れる前に行なわないと、水竜が認めてくれても、この神殿の神官たちにもウィズを含む王族にも、本当に巫女だとは認められない。
トン、と背中を押されて、奥殿の外に一歩踏み出す。
押されたような気がして振り返ったけれど、それはレツの持つ力が成したのだと、直感でわかる。
きっと本当に触れなくても、レツは私の背を押す事もできるだろう。
奥殿の中に明かりを灯すように。
「祭宮に言っておいて。これからいう事が、ボクがサーシャに託す、最初の言葉」
――ご神託。
自然と体に緊張が走る。
奥殿の外から、中にいるレツの姿は、夕日に混じって消え去りそうなくらい微かにしか見えない。
けれど、その全身から立ち上る気配が、奥殿の外にいても伝わってくる。
圧倒的な存在感。
それが、子供のように見えるレツが、明らかにこの国を支配するモノであることを示している。
「収穫の時期が過ぎたら、食料の備蓄を多くしろ。ただし、民に重い税を課すことは許さない」
明らかに声質が違う。
三日前、前の巫女様から神託を伺った時と同じような、張り詰めた空気さえも突き通すような意思を感じる。
自然と頭を下げ、足を折る。
誰に教えられたわけではないけれど、そうしなくてはいけない気がするから。
この瞬間に、主従関係は形作られる。
誰もがこの水竜の前に立ったら、そうしなくてはいけない義務感に駆られるだろう。
人は水竜に抗う事なんて、出来ない。
例えそうしようとしても、本能がそれを許さない。
「それともう一つ。これは皆がいる前ではなく、人払いをしてから言うように」
「はい」
「ボクの言いつけを守らなかったから、当分返す気は無い、とね」
顔を上げると、いじわるそうにレツが笑うのが、うっすらと見えた。