花嫁の足取り(2024年編集)
~ 七月二十日、野田市内 ~
佐久間たちが、野田警察署内で、捜査記録を確認している頃、運河駅で下車した伊藤奈緒美は、人知れず、野田市入りしている。
かつての大金を、独り占めする為である。
杉山京介が殺された事で、伊藤は、『次は、自分の番である』と、死の恐怖に怯えながら、懸命に先を急ぐ。
二週間前、杉山の訃報をニュースで知ると、真っ先に、渋谷区道玄坂のアパートに向かった。
(何としても、暗号だけは、入手しないと)
(------!)
遠方からでも、警察が来ている事が分かる。煌々と照らされた赤色灯は、伊藤を威嚇するのに、最適であった。
(警察も、暗号の事に気づいたようね。ここは、もうダメだ)
捜査の様子を窺いたいが、自分を張っているとも考えられる。伊藤は、先に進むのを諦めた。
所用で、都内を離れた数日の間に、一体何が起こったのか?頼みの杉山は、もういない。
(いや、もう一人だけいる。……いるのだけど)
接触を試みた途端、殺されるだろう。
(あいつが動いた?羽鳥を裏切り、田中を殺し、杉山が死に、自分も死ぬ。……絶対に嫌だ。殺される前に、何とか金だけ奪って、遠くに逃げよう)
伊藤は、踵を返す中、杉山から聞いた話を、思い出していた。
(そういえば、杉山が、刑事の顔写真を見せてくれた事があった。『客に扮して、店に来たこの男は、刑事だ。テレビで観た事がある。偶然だとは思うが、重々、注意しろ』と、言っていたわね。もう、この刑事に賭けるしかない)
伊藤は、警察の動きが気になった。自分の事を、どこまで捜査しているか分からないが、田中と杉山の関係に、警察が気づいたからこそ、田中のアパートを再捜査していると判断出来る。
(暗号を解読出来るとは思えないけど、過去まで洗われると、少々厄介だわ。杉山が言っていた、あの刑事を尾行して、行き先が、野田市なら確定ね。まずは、あの男の動向を、探らなきゃ)
伊藤は、それから数日を掛けて、警視庁の側で、佐久間を待ち、行動を追った。
(あの刑事の、顔は覚えた。でも、いつも、金魚の糞みたいに、行動しているオッサンは誰?見るからに、粗暴で、頭が悪そうに見えるけど、コンビなのかしら?)
佐久間は、連日、都内の各地を回っている。
(今日は、新宿か。昨日は、池袋に、巣鴨、日暮里、最後に石神井公園。刑事ってのは、こんなに忙しいんだ。でも、野田市に向かう気配がない。私の思い過ごしなのかしら?…あと何日か尾行して、その気配がないなら、次の手を考えよう)
尾行も飽きたと思っていると、この日に限って、佐久間が上野駅に降りた。
(ん、ちょっと待って。十二番線って、常磐線じゃない?ひょっとして、柏方面に向かう気?)
伊藤が心配していると、悪い予感は的中し、佐久間たちは、常磐線で水戸行きに乗車した。
(危ない、危ない。尾行して正解だわ。三河島で降りるという事も考えられるけど、嫌な予感ほど、的中すると思う)
伊藤は、尾行を続けた。
佐久間が、柏駅で下車し、東武野田アーバンパークラインに乗り換えた事で、確信に変わった。
(警察が、この電車に乗ったと言う事は、金の在処も、ほぼ分かってきた。候補地は、いくつか思いつくけれど、まずは、あそこから探してみよう。金庫さえ回収出来れば、まずは御の字ね)
伊藤は、佐久間たちが、野田市駅で下車するのを、車両の端から見届けると、次の愛宕駅まで行き、折り返しの電車で、反対方面の、運河駅へと向かったのである。
(ここまでは、順調だわ。…しかし、あいつの職業上、私の行動が筒抜けだったら、今夜死ぬかもしれない。そしたら、大金は、あいつの物になるし、それだけは避けたい。…羽鳥には、最期くらい、きちんと謝らなきゃ)
伊藤は、深い溜息をつくと、携帯電話を取りだした。
「プルルルルル」
「はい、羽鳥です」
「……慎ちゃん」
(------!)
「奈緒美、奈緒美なのか!!お前、どこに?…いや、無事なんだな?」
(………)
「あなたを、裏切る結果になった。……本当に、ごめんなさい。あまり、時間がないの」
(------!)
「時間がない?どういう事?どこにいるんだ?事情を話してくれ」
「…慎ちゃんに、打ち明ける事は、本当は沢山あるの。でも、時間がないし、私の身も危ないの。もし、ニュースで、私の事が報じられたら、警視庁捜査一課に、私の事を伝えて。それと、今から話す事を、メモして。………お願い。何も聞かずに、メモを取って」
(…奈緒美)
羽鳥は、伊藤から事情を聞き出したかった。自分の元を去った件、結婚式場から姿を消した件、今の状況、そして、自分に対する愛情を知りたかった。
だが、声色が、それを許さない。『事態が切迫している』のだ。
「…分かった。メモの準備は出来ている、話してくれ」
「…ありがとう。じゃあ、ゆっくり言うね。『73 68 6a 6d 69 7a 75』の文字を、捜査一課の刑事に、伝えて欲しい。名前は知らないけど、紳士そうな人がいたから、その人に渡して欲しい。その人なら、きっと、話を聞いてくれる」
(………)
「分かったよ。捜査一課で、紳士な人といえば、佐久間警部だと思う。俺も話をしたけど、多分、同一人物だよ」
「……そう。なら、大丈夫ね。もし私が、今の難問をクリア出来たら、あなたと再会して、叱られて、…赦して貰って、やり直したい。自分勝手だけど」
(------!)
「何をするつもりか分からないが、帰ってきて良いんだよ。…いや、亭主命令だ、帰って来い!」
(……慎ちゃん)
「…ありがとう。でも、今夜どうしても、決着をつけたいの。お願い、我が儘を言わせて」
「奈緒美!!」
「最期に、あなたと話せて良かった。こんな私を、お嫁さんにしてくれて、本当にありがとう。…そして、理由も言わず、姿を消して、ごめんなさい」
「奈緒美!!!」
電話は、無情に切れた。
(------!)
羽鳥は、直ぐにリダイヤルしたが、電源が入っていない様だ。
(俺は、また無力なのか?……そうだ、佐久間警部に相談しよう)
「すみません、急用で帰ります」
「どうした?」
「詳しくは言えないのですが、妻の一大事なんです!」
(------!)
(------!)
(------!)
「おっ、おい、羽鳥。妻って、あの花嫁か!?何だか知らんが、オッケーだ。体調不良って事にしてやる。いってこい!!」
「ありがとうございます」
羽鳥は、仕事を投げだし、警視庁に向かった。
~ 七月二十日、十七時過ぎ。警視庁捜査一課 ~
「では、捜査会議を始めるぞ」
千葉県野田市から、捜査一課に戻ってきた佐久間は、野田警察署の捜査結果を踏まえ、人員などを議論し始めるところ、総務課から、佐久間宛に内線が入った。
「佐久間警部宛に、羽鳥という方から、『大至急、会わせて欲しい』と、面会依頼が入っております。予約が入っていないので、お断りしましょうか?」
(羽鳥?)
「いや、捜査一課の会議室まで、案内してください。会議中だが、構いません」
「分かりました、失礼いたします」
~ 五分後、捜査一課会議室 ~
「突然の訪問、すみません。実は、奈緒美から電話がありまして、メモを渡す様、依頼されました。英数字のメモですが、どうしても、『佐久間警部に伝えてくれ』と。声色が、ただ事ではなかったので、駆け付けた次第です」
(------!)
(------!)
(------!)
「メモを見せてください。電話は、何時頃ですか?」
「十五時頃です」
(十五時といえば、野田警察署にいた時刻だ。と言う事は、伊藤は、警視庁捜査一課を尾行していた。…まずいな、まだ間に合うか?)
「池田、今直ぐ、捜査二課の佐野を、呼んで来てくれ」
「分かりました」
池田が、飛び出していく。
「羽鳥さん、元気そうで何よりです。それで、伊藤奈緒美は何と?詳しく教えてください」
「詳しくと言っても、追い詰められて、メモの事を話しただけです。…待ってください。何か、言っていたな?何でも、ニュースで、自分の事が報じられたら、『このメモを、佐久間警部に託してくれ』だったかな。それと、この件が、決着ついたら、また会いたいと」
(------!)
(------!)
(------!)
佐久間は、メモを、ホワイトボードに書き出した。
○ 73 68 6a 6d 69 7a 75
(今度は、どんな意味だ?)
「警部、佐野さんがいません。急用で、早退されたそうです」
「なら、十六進数の変換表を借りてこい。無理なら、誰か引っ張ってこい!!」
「はいいっ!」
三分後、池田は、捜査二課の梶木和幸を連れてきた。
有無を言わさず、連れてこられた梶木は、不満を露わにしている。
梶木は、捜査二課の意見として、捜査一課に喧嘩を売った。
「何なんですか?捜査二課に、捜査一課の若造が、ふいに来たと思ったら、『やれ、佐野さんを出せ』、『やれ、十六進数に詳しい人、直ぐに来てくれ』って。捜査二課は、捜査一課の、下ではないんですよ!!」
池田は、すっかり萎縮し、平謝りする。
「本当にすみません、急な依頼なもので。私の言い方が、まずかったんです」
「それは、捜査一課の都合だろう?それに、急すぎるだろう?捜査一課には、仁義はないのか?」
瞬時に、その場の空気が凍る。
「それが、どうした?」
(------!)
(------!)
(------!)
珍しく、佐久間が、本気で怒っている。
「人の生き死にが掛かっている時に、面子なんて知るか。捜査二課は、善良な都民が死んでも良いんだな?あと、苦言は、私に言ってると受け取るぞ。梶木、不服があるなら、捜査二課長を連れてこい。一秒を争う捜査で、捜査二課が仁義を切れと言うなら、喜んで、頭を下げてやる」
(------!)
(------!)
(------!)
梶木の額から、大量の汗が流れる。
「いっ、いや、その、こっ、これは…」
「御託は良いから、この暗号を解け!!」
「今直ぐやります!」
(こりゃあ、直ぐに左遷だな。そんな事より、…えーと、73 68 6a 6d 69 7a 75か)
梶木は、ホワイトボード上で、暗号を文字変換していく。
「73→S、68→h、6a→i、6d→m、69→i、7a→z、75→u。しみずと、読み取れます」
「山さん、しみずの地名は、野田市にあるか?」
「えーと、少々、お待ちください」
山川は、野田市内の地図を広げ、指で追っていく。
「野田市駅の、2つ、大宮駅方面に、清水公園駅があります。おそらく、この付近でしょう」
(良いだろう)
「山さん、野田警察署に、至急連絡を入れてくれ。今夜、動きがありそうだ。警視庁からも手分けして、野田市内に、応援部隊を投入する。伊藤奈緒美を、何としても確保するんだ。初動を間違うと、伊藤奈緒美が、殺害される恐れがある。日下、班編成を速やかに行え。私と山さんは、今から発つ」
(------!)
「了解です、連絡を入れます」
「分かりました、班編成をして、追いつきます」
(間に合うか)
「羽鳥さん、伊藤奈緒美は、行き先を告げましたか?」
「特に言っていません。…でも、水辺らしき、音を聞きました」
(水辺?)
「山さん、地図を貸してくれ」
佐久間は、野田市の地図で、居場所を探す。
「野田市内で、水辺があると言ったら、利根川沿いの堤防、あと、公園くらいだろう」
佐久間の言葉に、山川が反応する。
「そう言えば、東武アーバンパークラインに乗っていて、運河を通過しましたよ、土手もありました」
「ん、そうなると、野田市駅の手前になるから、…運河駅か。山さん、野田警察署に、追加連絡だ。『運河駅付近を、重点的に洗ってくれ』と言ってくれ」
「了解です!」
佐久間が、支度を始めると、羽鳥が、佐久間を呼び止める。
「後生なので、私も連れていってください!!」
(警部?)
(…仕方があるまい、当事者だからな)
「嫌な言い方をしますが、既に、事件に巻き込まれている可能性が高い。その場合、生命の保障は出来ませんし、辛いものを見るかも知れません。…それでも、行きますか?」
(………)
「どんな姿になっても、自分の妻です。最後まで、見届けたいです」
「…分かりました。では、行きましょうか。でも、無理はしないでください」
佐久間は、最後に、直立不動の梶木に、声を掛けた。
「梶木」
「はっ、はい」
「先程は、悪かった。帰ってきたら、正式に、捜査二課に詫びに行く。それと、今度、飲みに行こう。非礼を働いた分、奢らせてくれ」
(------!)
この言葉に、梶木は、心底安堵し、微笑んだ。
「あっ、ありがとうございます。ぜひ、ご一緒します!!」
(これで、良し)
「さあ、伊藤奈緒美を救出するぞ。全員、初動開始だ!」
警視庁捜査一課の総力を挙げて、伊藤奈緒美の確保に向かう。




