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ダブルベッド

作者: つちふる


 一人で寝るにはダブルベッドはあまりに広すぎるので、女はかつて恋人が眠っていたスペースに発展途上国を置くことにした。

 届いた国をベッドのかたわらに広げるなり、女は愕然とする。

 発展途上国に住む人々の生活は貧しく、誰もが飢えや感染症に悩まされていたのだ。

 カタログでは緑豊かな町並みを背にして、笑顔の子どもたちが無邪気にピースサインをしていたのに……。

「ただでさえ落ち込んでるっていうのに、その上、こんな気の滅入る世界と一緒に眠れっていうの?」

 女は騙された気分で彼らの世界を眺める。

 と。ゴミ溜めのような家から、一人の少年がふらふらと出てくる姿が目に入った。

 少年はやせ細った身体を無理に動かして、この国で一番高い丘へと向かっているようだった。

 整備のされていない石とぬかるみだらけの道を、転びそうになったり、転んだりしながら、それでも少年は歩き続ける。青白い顔に悲壮な決意をはりつけて。

 ようやく丘の上にたどり着くと、そこには巨大な自然石で造られたサークルと、土を盛り上げただけの祭壇があった。あらゆる儀式や祈りは、すべてここで行われるのだ。

 少年はひざまずくと、一切れのパン―― おそらく彼の一日の食事だろう―― を、祭壇へささげる。

「どうか妹の病気を治してください。これから毎日パンを捧げますから」

 女は興味を覚えて、少年の住んでいるゴミ溜めのような家をのぞきこんだ。

 なるほど。湿った藁のベッドの上に、少年以上にやせ細った少女が眠っている。

 顔はむくみ、髪は色あせ、腹部は異様に膨らんでいて―― 一目で栄養失調だと見て取れた。

 少年は祭壇にむかって祈りを続ける。パンを欲するために、パンを捧げて。

 その愚かしい行為に心を打たれた女は、ベッドから降りると、静かに燃える暖炉を横切り、朝食で食べ残したパンをキッチンから持ってくる。

 そして、細かくちぎったパンを少年が祈る祭壇へとばらまいた。

 一粒で彼の空腹を満たせるパンくずが、たちまち慈雨となって降りそそぐ。

 少年は何が起きたのかわからず、しばらく降りそそぐパンをボンヤリ眺めていたが、やがて渇ききった喉から精一杯の歓声をあげてパンくずを拾い始めた。

 その日、生まれて初めて空腹を満たされた少年と妹は、ゴミ溜めのような家の中でパンに埋もれてぐっすりと眠った。

 その様子眺めていた女も満足して、ダブルベッドの片側で眠りにつく。

 

 翌朝。

 女が眠い目をこすって国を覗いてみると、丘の上の祭壇に人だかりができていた。

 少年から話を聞いたのだろう。誰もが跪いて祈りを捧げている。

「えこひいきは良くないものね」

 女はつぶやき、朝食のパンを一枚減らして彼らに与えることにした。

 雨となって降りそそぐパンくずを、人々は歓喜の絶叫をあげて我先にと飛びつく。パンは十分にあるというのに、人は人を押しのけて、奪いあって、一つでも多くと拾い集めていく。

 その純粋で醜い振る舞いに、女は奇妙な愛おしさを覚えた。


 ある日。

 女は東の山中に、三つの大きなくぼみがあるのを見つける。

 それらは、すっかり干上がってしまった湖の跡だ。

「ここに水を満たせば、きっと慢性的な水不足も解決できるわ」

 女はまず、一つ目の湖に水道水を流し込んだ。降り注ぐ水が、干上がった湖をたちまち満たしていく。

 二つ目の湖も水で満たし、最後の湖にも――というところで、その手がふいにとまる。

「…そうね。それがいいわ」

 女はしばらく思案したのち、水のかわりに野菜がたっぷり入ったスープをくぼみに流し込むことにした。これで、パンだけではとれなかった栄養も摂取できるはずだ。

 三つの湖を最初に見つけたのは、鹿やイノシシ、熊といった動物たち。次に動物たちを追い立てにきた猟犬で、最後に飼い主である人間が発見することになる。

 食を満たされた住人たちは次第に血色が良くなり、ダブルベッドの片側からは賑やかで活気ある声が聞こえるようになった。

 彼女はその様子を眺めながら、彼らを満たすことで自分が満たされていることに気づく。

 それはとても不思議な、心地の良い感覚だった。

 

 食を満たされた住人たちが次に求めたのは、住む家だった。

 さすがに一軒一軒を与えることはできないので、女はミニチュアの家を購入し、祭壇の隣に置く。

 住人たちはその家をモデルとして、次々と家を建て始めた。

 山々に囲まれたこの国では材料となる樹木に困ることはなかったし、住人たちも家を建てるための十分な体力と筋力をつけていた。

 

 食と住が満たされれば、残るは 【衣】 である。

 女は職場から、裁断で余った布の切れ端を手に入れると、それをさらに細かくちぎって祭壇の前に積み上げた。

 住人たちは度重なる奇跡に感謝の祈りを捧げ、持ち帰った布で服を作り始める。

 手先の器用な者と不器用な者では出来上がりにずいぶんと差があったが、それでもボロきれを纏うよりもずっと快適な生活が送れるようになった。



 満たされた生活に慣れきってしまった住人たちは、いつしか祈りを捧げることを忘れ、祭壇に降り注ぐパンを当たり前のように拾い、何の感謝もなく湖から水とスープをくみ上げ、何の感動もなくすきま風のない家に住み、ほつれのない服を身に纏うようになった。

 それでも女は、毎日彼らのためにパンをまき、スープを入れ替え、水を満たしていく。

 幼い頃に教会で教えられた 『自己犠牲愛アガペ』 とは、あるいはこういうことかもしれないと微笑みながら。

 優しい気持ちでスープを流し込んでいるところに、ケイタイの着信音が鳴り響く。

 届いた一通のメールは、かつての恋人からだった。

『別れたことを後悔している。君を誰よりも愛していることに気づいたんだ。もう一度やりなおせないだろうか』

 思いがけない言葉は、彼女の心をたちまち舞い上がらせた。

 女は夢見心地でメールを返し、今から来ると言う彼を迎える準備を始める。

 腕によりをかけた五つの料理と、三種類のパン。ちょっと高価なワインと、捨てずにとっておいた二人のグラス。

 寝室に戻って化粧をなおし、とっておきの服 ――少し―― いや、だいぶセクシーな―― を引っ張りだして、鏡の前で合わせてみる。濃密な夜を期待して、胸が高鳴る。

 インタホンの音。思ったよりも早い。

 女は慌てて髪を整え、特別な香水を胸元にひとふきして、玄関の前に立つ。

 出迎える言葉は決まっていた。

 彼女は深呼吸をひとつしてから、笑顔を浮かべてドアを開く。

「お帰りなさい」

 男は少し驚いた顔で彼女を見つめ、それから、申しわけなさと嬉しさの入り混じった笑顔で頷いた。

「ただいま……で、いいのかな」

「もちろん」

「ありがとう」

「夕食はまだよね?」

「ああ」

「じゃあ、一緒に食べましょう。ちょっと気合いを入れて作ったの」

「そいつは楽しみだ」

 男はコートをハンガーにかけ、ふと顔をしかめた。

「この部屋、ずいぶんと暑くないか?」

「ああ、ごめんなさい」

 女はキッチンから歌うように答える。

「ちょっと、暖炉の火をくべ過ぎちゃったの」 

 

               (了)

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