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斬れない剣と最強勇者(自称)

よろしくお願いします。

 ついに。ついにこの時が来た。

 俺は体の震えを抑え、王の御前おんまえにひざまずく。周りには数え切れぬギャラリー。俺の身体を覆う、魔物の血で染め抜いたような真紅のよろい

 目の前には数々の魔物や悪漢、歴代の魔王を斬り捨ててきた、伝説の剣クリシュナ=クリシュカ。

 ついに来た。勇者にしか抜けないという、この伝説の剣を手に入れる日が。

 この混沌の世に生まれ落ちて十八年、ついに俺が勇者として認められる日が!

「ラィヒ。ラィヒ・ライプツィヒ・ラィラ!」

「あ、はいっ!!」

 感涙にむせんでいる間に王に名を呼ばれ、俺はあわてて顔を上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を見た王は、吹き出しそうになるのを明らかに必死でこらえていた。

 何だよ、悪いかよ。

 そりゃ王様は生まれた時から王子様だったろうけど、俺はついさっきまで、て言うか本当は現在進行形で、ただの『村人A』なんだからな。

 この伝説の剣抜くだけで、村人Aから一気に勇者に昇格だぜ? そりゃ鼻水も出るだろうっての!

 とか内心で文句を言っているうちに、王はふところからカンペを取り出した。

 あ、出た。俺の出自だ。

「えー……、伝説の勇者ハック・ハインリヒ・ハルトのいとこのはとこの甥っ子の別れた二番目の妻の息子の友人のラィヒ・ライプツィヒ・ラィラよ」

 王様が台詞せりふを切って、側近から水をもらう。

(もう少し何とかならんかったのかこれ)

 そう考えているのがバレバレだ。

 るっさいわ。俺だってもっと簡素でカッコいい出自の方が良かったわ。『勇者の息子』とか『勇者の孫』とか。そも『伝説の勇者のいとこの』って始まる時点で微妙だし。だったらもういっそ『村人Aのラィヒ』で良かったわ。いやそれも嫌だけど。

 なんて口の中でぶつぶつ言っていると、王は水で口を湿して顔を上げた。

「各地での、次期勇者にふさわしい獅子奮迅ししふんじんの働きは、この王の耳にも届いていた。さあラィヒよ、この伝説の剣を抜くが良い」

 王は白くぶ厚い石盤せきばんに深々と突き刺さる、一振りの剣を指さした。

「伝説の剣クリシュナ=クリシュカを手にすることで、そなたは真の勇者となる!」

 ドヤ顔でストップモーションを決める王様に一礼し、俺は悠然と立ち上がる。

 剣の柄に手をかけると、大群衆がしん、と静まり返る。一人ひとりの息を呑む音が聞こえた気がした。俺は柄を握りしめて、静かに力をこめてゆく。

 抜いてやるぜ。今日、今、ここから、俺が真の勇者だ。

 ぐっと力をこめたまま、手を上へとすべらせる。

 しゃらん……っ。

 軽い音楽的な音を立て、あっけなく剣は抜けた。群集がどよめいた。王様もびっくりしたように、口を開いて固まっている。

 へへ、どうだ。もう俺は村人Aでも、伝説の勇者の遠い関係者でもない。

 現勇者、ラィヒ・ライプツィヒ・ラィラだ!!

 俺が伝説の剣を一振りすると、どよめきがいっそう大きくなる。やっと正気に返った王が、

「あれを」

と何か御付おつきに命じた。城の中から、太い丸太が何本も何本も運ばれて、コロッセオのど真ん中――つまりは俺の真正面に立てられた。

「勇者ラィヒよ。今日集まってくれた皆に、その伝説の剣の威力、示してはくれぬか?」

 へぇ、なるほどね。

 どうせ斬るなら、威勢よくでっかいドラゴンとかが良かったけど、ま、いいか。

 俺は無言でうなずいて、さっと剣を横に流した。丸太に向かって、一直線――!!

 がっ。

 にぶい音がして、剣を持つ手がわずかにしびれた。丸太は全く揺らがずに、その場に堂々と立っている。

「……斬れない……?」

 え? え? 何でだ、どうしてだ?

 あせった俺は、両手で剣を握り、力任せに丸太を殴った。

「痛っ……っ!」

 両の手がしびれるだけで、丸太は削れてすらくれない。群衆がざわめき出し、ざわめきはやがて、あきらめと失望のため息に変わってゆく。群集の席を立つ音が、耳に雑音のようにすりこまれる。王が深く息をつき、切り捨てるように声を発した。

「もうよい」

「……え?」

「もうよいと言っておるのだ、ラィヒよ」

 王はもう俺のことを『勇者』とは呼ばなかった。そのまなざしは、村人どころか虫けらを見るように冷ややかだった。

 がらん。

 俺の目の前に、王の持っていた剣のさやが投げられる。

「そのなまくらはくれてやる。何処どこへでも去るがよい」

 王はそう吐き捨てると、座から立ち上がり、城の中へと戻っていった。俺は丸太と剣と一緒に、コロッセオの真ん中に取り残された。

「……何でだよ……何でなんだよっちくしょぉおおおおおぉおおっ!!!」

 意味のない叫びが腹の底から溢れてくる。やけになって剣で丸太をぶっ叩くと、丸太より先に指が壊れて、剣の柄に血がにじんで染みていった。


 しょげきって家に帰った俺は、重い鎧を脱ぎ捨てた。

 白い布を身にまとい、斬れない剣を引きずって、裏の丘に登る。てっぺんに一本、大きな樹の生えている場所にたどり着き、死人のように倒れこむ。

「……どういうことだよ……」

 これは本当に、伝説の剣なのか? 仮に本物だったとして、じゃあ一体何で斬れないんだ?

 そもそも、俺は何なんだ?

 勇者なのか? それとも、ただの村人Aなのか?

「分かんねぇ……」

 俺が頭を抱えこむと、不意に上から綺麗な声が降ってきた。

「どうしました?」

「えっ?」

 びっくりして顔を上げると、いつの間にか知らない女性が、俺をのぞきこんでいた。

 薄紫のポニーテール、人形のように整った顔。瞳の色は紫水晶アメジストで、じっと見てると吸いこまれていきそうだ。

「あ、あなたは? て言うか、一体どっから……」

 俺があわてて起き上がると、女性はにっこり笑ってみせた。

「私はクリシュナ=クリシュカ。つい先ほどあなたに引き抜かれた、伝説の剣ですわ」

「はぁあ? 冗談キツいぜ、お姉さん。あんたが伝説の剣クリシュナだって証拠が、なんかあんのかよ?」

「そう言われると、困りますが……」

 女性は小首をかしげて微笑んだ。その白く透けるようなひたいに、赤い紋様もんようが刻まれている。剣の柄に描かれているのと、そっくり同じその模様。

 とっさに剣の方を見やると、剣は薄く白い光を帯びていた。その光は細く伸びて、女性の体へ通じている。

「……本当、なんだな……?」

 照れ笑いするクリシュナの胸ぐらをわしづかみ、俺はその場に押し倒した。

「てめぇこの! さっきは大勢の前で赤っ恥かかせやがって! 何であん時全然斬れなかったんだよ!?」

 クリシュナはわめく俺の頭をひっつかむと、ぎちぎちと音がしそうなほど力をこめた。

「あだっ! あいっだだだだだだぁ!!」

「放せ下郎げろう。軽々しくこの私に触れようなぞ、無礼千万。放さぬと斬るぞ」

「わ、分かった分かった! 悪かったっ!!」

 ぱっと頭から手を放され、俺はその場に倒れこんだ。ずきずきする頭を押さえて、ぶちぶちと恨み言をこぼす。

「あー痛ぇ……て言うかさっきも、このくらいの気合で丸太かっ斬ってくれればさぁ……」

 俺のぼやきに、クリシュナがまたにっこり笑う。

「見世物になるのは嫌ですわ。それに私、斬る必要のないものは断じて斬りません」

「『斬る必要のないもの』、って?」

 俺が訊くと、クリシュナは白い指を折って数え上げた。

「大人、子供、老人、魔物、悪人、動物、魔王。まぁその他いろいろですわ」

「ちょ、ちょっと待て! お前、伝説の剣だろ? 魔物やら魔王やら、ざっくざく斬ってきてるはずじゃないのか!?」

 クリシュナは深くうなずいて、どこか痛んだように微笑んだ。

「だからこそですわ。私、昔から生き物の命を絶つのが嫌でしたの。けれど『私は、いにしえの名工が命を吹きこんだ伝説の剣だから』と、ずっと気持ちにふたをしておりました」

 クリシュナは、ふっと静かに目を閉じた。

(泣いてるのかな……?)

 そう思って彼女の顔をのぞきこんだが、涙は流れてこなかった。

「でもあの石に封印される前、先代の魔王の命を断ち切った時に分かりましたの。これは罪深いことなのだと」

 長いまつ毛からのぞく目が、少しだけ潤んでいた。今まで見たどの目よりも、美しい瞳だった。

「先代の魔王の血は、誰よりも澄んでいました。命の断ち切れる刹那、私は彼の思考までも読み取れました」

「……魔王は、何を考えてたんだ?」

「『殺したくない』」

「…………っ!!」

「魔王は、誰も、何も、殺したくなかったのです。たぐいまれな魔力と、魔王の子という自分の運命さだめ。その運命に従いながらも、生き物の命を絶つことが、つらくてたまらなかったのです」

 ――私のように。

 ため息混じりに呟いて、クリシュナは紫水晶アメジストの目を上げた。美しく潤んだ瞳に、ぼんやりと俺が映る。

「その時私は誓ったのです。もう闇雲に、生き物の命を絶つまいと」

「……へぇ。そりゃあ結構なことだ」

 俺は悪ぶって呟いた。

 魔王が『殺したくない』と思っていた。確かに心揺さぶられる話だが、俺には俺の人生がある。俺は、魔物や敵兵を殺し続けてきた。その生き方を、今さら変えられる訳がない。

「悪いけど、その誓いを通すのは、次代の勇者が現れた時にしてくれないか?」

「いいえ。私はあなたの代からこの誓いを通します。あなたは、歴代の勇者様の誰よりも優しいから」

「はぁあ? 待てよ、おい! 俺は十歳のころから、少年兵としてこの手で敵を斬ってきたんだぞ?」

 かざした俺の手を、クリシュナはしなやかな両手ではさみこむ。

「あ……怪我をされてますわ。治してしんぜましょう」

 クリシュナの桜色の口びるが、そっと俺の手に触れる。ぽっとかすかな光を帯びて、傷口がふさがっていった。

「へぇ……白魔術師みたいだな」

「ふふ。そう仰っていただくと、嬉しいですわ。ずっと前から、なりたかった職業ですから」

 クリシュナは俺の手を握ったままで、自分の胸元にそっと当てた。ぷっくりと気持ち良い感触に、頬がかあっと熱くなる。

「私はクリシュナ=クリシュカ。どうか『クリス』とお呼びくださいませ、勇者様」

「……俺はラィヒ。ラィヒ・ライプツィヒ・ラィラ」

 よろしく。

 小声で呟くと、クリスは嬉しそうに微笑した。と、紫水晶アメジストの瞳が、何か思い出したようにまたたいた。

「そう言えば、半分寝ていてよく聞こえませんでしたけど、あなた様は勇者ハック様のご血縁の方ですの?」

 う。そんなん言わせるなよなぁ……。

「……伝説の勇者のいとこのはとこの甥っ子の別れた二番目の妻の息子の友人」

「まぁ、ずいぶんと遠いご血縁」

『伝説の勇者のいとこのはとこの甥っ子の別れた二番目の妻の息子の友人』、と復唱して、クリスが小首をかしげてみせる。

(言うな)。

 息だけで言った言葉はまるで通じず、クリスが無邪気に呟いた。

「あら……他人?」

「言うなぁぁあああああぁああーーーーっっ!!!」

 樹の上で昼寝していた鳥の大群が驚いて、ばっと一気に飛び去った。


 翌日、俺とクリスは街へ出かけた。久しぶりの街にきょろきょろしていたクリスが、ふと気づいたように訊いてきた。

「そう言えば、本日はどんなご用事で?」

「武器屋。剣を買う」

「あら心外。この私がいますのに」

「斬れない剣なんか、持ってたって意味ないだろ」

 あらぁ、と呟いて、クリスがぷっとふくれてみせた。

「ならばどうして連れて来ましたの?」

「お前が勇者の証だからだ。それ以外に意味はない」

 とか言ってるそばから、子供がすれ違いざまに

「あ、なんちゃって勇者だー」

 とか言いやがる。昨日の一件で俺は人々に『なんちゃって勇者』と認識されたらしい。大人はちらっと目線をくれるだけだが、いや子供らのうるせぇのなんの!

 さっさと武器屋に入ろうと思ったとたんに、俺はお子様の団体に囲まれた。

「あーなんちゃって勇者だー」

「なんちゃって勇者ー、伝説の斬れない剣見せてー」

「ねーなんちゃって勇者ー見せてってばー」

 うう。我慢、がまん。

 俺が耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んで嵐の去るのを待っていると、冷めた目の男児がぼそっと一言。

「愛想悪いぞ、勇者もどき」

 ぶち。

「じゃかましぃわこんガキめらぁあああぁ!! 今すぐ散らんと潰してスープにしてすすり倒してけつかるぞくらぁあぁああああっ!!」

「わーなんちゃって勇者が怒ったー」

「逃げろー斬れない剣でぶたれるぞー」

 クモの子を散らすように子供が逃げていく。くそ。舐めきってやがるこいつら。

 怒りのあまり肩で息をしていると、となりでクリスがくすくす笑った。

「好かれてますね」

 もう突っこむ気もしねえ。

 無言で俺が歩き出すと、クリスも微笑いながらついてきた。ちら、と剣の化身を横目で見やって考える。

 こいつ、子供好きなのかな。じゃあ戦地じゃ淋しいよな。子供っちゃあ、少年兵しかいねえしな。

 子供の死ぬとこも、見てきたろうな。

 子供を斬ったことも、あるのかな。

 自分の嫌な記憶にたどり着きそうになり、首を振ってその考えを追い出した。クリスが不思議そうな表情かおで俺の顔をのぞきこみ、何も言わずに微笑わらいをおさめた。

 武器屋に入ると、店主の親父が

「よお!」

と気さくにあいさつしてくれた。

「何でもぶった斬れる剣をお探しかい、勇者さん」

「……親父さんだけだよ、『なんちゃって』なしで勇者と呼んでくれるのは」

「がはは! こっからも聞こえたぜ、子供に騒がれてんのがよ!」

 親父は豪快に笑い、店の奥から俺の愛剣を出してきた。

「売らんといて良かったぜ。これだろ? お探しの品は」

「そうこれだ! 売っちゃってゴメンよ、俺の愛剣カーランカ!」

 古い相棒に抱きつかんばかりの俺の背中に、クリスの冷たい視線が刺さる。

 何だ、なんか文句があるか?

 何と言われても、俺の相棒はこれだけだ。伝説の剣が手に入ることを見越して手放したけど、まさかこんないわく付きだとは思わんかったしな。

 内心でそうぼやきつつ、愛剣カーランカの握り慣れた柄に手をかける。

「……痛っ!」

 指先に雷が落ちたような衝撃が走り、俺はとっさに手を離した。親父さんがきょとんとした顔で訊いてくる。

「どうしたい、勇者さん?」

「……いや、何も」

 何だ今の。もう一度、今度は慎重に柄に手をかける。

 ビッ、ビリリッ……ッ!!

 感電するような痛みが、指先から体中を駆け抜けた。駄目だ。とてもじゃないが、これじゃ剣を握れやしない。

 ふと思い至り、鋭く後ろを振り返る。クリスは人の悪そうな笑みを浮かべて、こちらを眺めていた。紫水晶アメジストの目だけは、欠片かけらも笑っていない。

 クリスがくっと伸び上がり、俺の耳元でささやいた。

「他の剣で再び命を絶つことを、この私が許すとでもお思いか?」

 綺麗な低音で決めつけて、クリスはふわっと柔らかな声でつけたした。

「浮気は許しませんことよ、ご主人様」

「おぉ、浮気はいかんなぁ! そうかそうかそういうことか。いやぁ良かった、ついにラィヒにも春が来たか! がっはっはっは!」

 親父、うるさい。

 俺はヤケになってカーランカをひっつかんだ。

 ギュリリリリ……ッッッ!!

 全身に電撃が走り、

「あじっ!!」

 と叫んで手を離したら、親父はハトが豆鉄砲を十二連発食らったような顔をした。


 俺は限りなく沈んだ気持ちで、武器屋を後にした。

 腰にさしているのは、斬れない伝説の剣だけだ。重いだけの剣を引きずって、また家の裏の丘に行く。

 十五の年で故郷を離れ、この村に移り住んでから、俺は何かあると必ずこの丘に来た。

「……どうしろってんだよ」

 小声で呟いて、頭を抱える。ああ俺は村人じゃなくて、傭兵ようへいAだったんだな、と今さらながらに気がついた。

 剣の持てない俺は、勇者でも傭兵でもない。小さいころから戦いに明け暮れて、畑仕事なんかろくにした事もない俺は、立派な村人にすらなれやしない。

 じゃあ、俺は何だ?

 これから、どうすればいいんだ?

「歌を」

 小さく告げられて、俺は顔を上げた。クリスが慈母じぼのような微笑を浮かべて、こちらに目を向けていた。

「歌を、お歌いなさい。ラィヒ」

「はぁあ? 冗談キツいぜ、クリス嬢。そりゃ歌は好きだけど、……戦地での休息で、歌ったこともあったけど……」

 歌声で敵に見つかって、修羅場になったこともあったっけ。もちろん一網打尽いちもうだじんにしたけどな。

 そんなことを思い出すうち、綺麗な声が耳に届いて、俺は思わず顔を上げた。優しいメロディーが、クリスの口からこぼれてくる。みちびくように。うながすように。

 つられて俺も口を開く。久々に歌いだすと、少しずつ気持ちが晴れてきた。この丘の草原の緑を、ちらちらと群れ咲く小さな花々を、深く澄みきった空を歌う。

 いくさのことは、歌わない。

(そういえば俺、戦場での休憩地でも戦のことは歌わなかったな……)

 何でだろう。

 何で、かな。

 考えながら草原に仰向いて歌っていると、クリスが歌うのを止めて、俺を温かな目で見下ろしていた。

(母ちゃんみたいだ)

 俺の母ちゃんは、俺が生まれた時に死んだ。生まれつき体が弱かったから、出産の負担に母体が耐えられなかったのだ。だから母のまなざしなんか、俺は知ってやしないのだけど。何となく、そう思った。

 クリスはにこっと微笑んで、桃色の口びるを動かした。

「綺麗な声。ドラゴンの子守唄みたい」

(何だそりゃ。ほめてんのか?)

 苦笑いながら、歌を歌う。曲調は自然と静かに穏やかになっていき、亡き母をうような調べになった。

 クリスも再び歌いだす。その声は柔らかく温かで、亡き母を想う子供と、その声にこたえる母の魂の交流のような歌が生まれた。

(これで他に聴き手がいたらなぁ)

 ぼんやりと考えながら歌っていると、頭上の樹の茂みが揺れた。

 がさがさ、がさ……っ!

 音立てて現れたのは、小さな小さな、手のりサイズの赤いドラゴンだった。俺はとっさに剣の柄に手をかける。ドラゴンがびくっと縮こまり、

『きゅうう』

と怯えた声を出す。俺の手にクリスが白い手を重ね、いさめるそぶりで口を開いた。

「だめ、おどかしては。歌に聞きほれて出てきただけ」

 お歌いなさい、と微笑まれ、俺は柄に伸ばした手をひっこめた。

「そう……だなぁ。そう言えばまだほんの子供だし、斬れない剣じゃ何も出来ねぇし」

 しょうがねえ、歌ってやるか。

「おいちびドラゴン、今日は特赦とくしゃだ。感謝しろよ」

 少々もったいぶって、さっきの歌を歌いだす。クリスも唱和して、聴き手が一匹だけの奇妙な音楽会が始まった。

 歌えば歌うほど、心が穏やかにいでゆく。凪いでゆくほど歌声は丸く優しくなり、優しくなるほどに、ドラゴンはこちらへ近づいてくる。

 やがて歌い終えた時には、ちびドラゴンは俺の鼻先で羽根をぱたつかせていた。

『きゅうぅう』

 嬉しそうに啼いて、とがった鼻先を俺の口元へ押しつける。

「なつかれちゃいましたねぇ」

「ふん、迷惑だ。おいちび、もう終わったぞ。さっさと母ちゃんとこへ帰れ」

 しっし、と手先で追い散らすと、クリスが淋しげに口を開いた。

「ラィヒ。……この子、親なしですわ」

「『親なし』? 何で分かる」

「この子、種類は『ミランカ・サエラ』……もともと小型な種ですけど、この大きさだと、生まれて一週間かそこらですわ。もし親がいるならば、こんな小さな子を一人きりにはさせません」

「……そうか」

(俺とおんなじか、お前)

 内心で呟いてちびの鼻先をつっつくと、ドラゴンは

『きゅぅう』

とくすぐったそうに啼いた。

「……歌が好きで、聴きにきただけか」

 そういえば、歌ってる時に魔物に襲われたことが何回かあったけど、あれも聴きにきただけなのか。

 俺、全部斬っちまったけど。

「あ」

 思わず声を上げる。

 もしかして、戦地で襲ってきた敵兵も、俺の歌に聴き入っていただけなのか。そういえばあいつら、剣に手をかけていなかった。両手を前にさし上げたあの形は……。

「……拍手?」

 思わず小さく声がもれる。ゆるゆると顔を覆った俺の手に、クリスは優しく手をかけた。何も訊ねず、黙って俺の手をさする。ちびドラゴンが耳元で心配そうにきゅうきゅう言って、俺は何だか笑えてきた。

 斬れない剣と魔物の子供になぐさめられる、『最強勇者様』か。

(情けねぇ)

「もういいよ、大丈夫」

 わざとそっけなく言い捨てて、乱暴に立ち上がる。丘を降りようとすると、ドラゴンがきゅうきゅう言いながらついてきた。

「連れて帰っちゃいましょうか、この子」

「…………好きにしろ」

「わあ、ありがとうございます! ねぇ、じゃあ名前は? 何にしましょうか?」

「『キィリ』。『キィリ・キルギス・キィル』」

 俺の返事に、クリスはちょっとびっくりしたように紫水晶アメジストの目をまたたいた。

「まぁ、お早い。今思いついたんじゃありませんわね。どなたのお名前ですの?」

「昔の友人。十五の年に死んじまったけど」

 クリスがそっと瞳を細める。黙りこんでしまった彼女の手を引き、俺は丘をくだる。耳元でキィリがきゅるきゅると、猫がのどを鳴らすみたいに啼いていた。

 キィリ・キルギス・キィル。

 俺が殺した、俺の友達。


 その夜、いつもの夢を見た。泣いて目が覚めた。

 ベットの上で身を起こすと、部屋のすみっこで寝ていたクリスが、じっとこちらを見つめていた。

「どうしましたの?」

「……いや、何でもない。ただの夢」

 軽く手を振って、顔を覆う。

「キィリの、夢だ」

「亡くなったお友達?」

「……ああ。キィリは、伝説の勇者の遠い遠い血縁の者で、とても優しいやつだった」

 俺が話しだすと、クリスがぽん、と手を叩いた。

「ああ! 伝説の勇者ハック様の、いとこのはとこの甥っ子の……」

「そう。別れた二番目の妻の息子、な」

 俺は苦笑して、話を続ける。

「あいつは、親なしの俺の、無二の親友だった。十歳で別れちまったけど」

「どうして?」

「戦争さ。俺は父親の命を奪った戦争と、生まれながらに母親の命を奪った自分が憎くてさ。そのどちらもを、一刻も早く絶やしてやろうって、少年兵に志願したんだ」

 クリスが痛々しい笑みを浮かべてうなずいた。クリスの体は薄く発光し、暗闇でも表情が読み取れる。

「けれど、俺は死ななかった。戦争も止まなかった。あちこちで起きる戦に、俺は次々身を投じた」

 たくさん、人と魔物を殺した。

 五年後、親の反対を押し切ってやって来たキィリが、俺と同じ部隊に入った。

 おれがぼそぼそと話をつぐと、クリスが大きな瞳をさらに大きく見開いた。

「キィリさんが?」

「ああ。キィリは相変わらず、優しかった。……優しすぎた。敵が斬れないんだ」

「……そんな方が……何故、部隊に志願を?」

「周りの期待だよ。『勇者の遠い血縁の者』ってだけで、村の皆はキィリに勇ましさを求めたんだ。優しすぎるキィリは、その声に応えようとしてしまった」

「……キィリさんの、ご両親も?」

「いや。やつの二親ふたおやは、そんな事は欠片も期待していなかった。……『生きてるだけで、孝行だ』っていつも笑って言っていたんだ」

 クリスが黙ってうつむいた。俺は一つ、二つ、息をつき、またぼそぼそと話しだした。

「キィリは敵が斬れなかった。兵としては致命的だ。無理やりに斬ったら斬ったで、今度は夜も眠れない。部隊に入って半月後……あいつは脱走をはかった。俺一人が気づいた」

「それで……どういたしましたの?」

「斬るしかないだろ」

 泣き出しそうな声になった。俺は大きく息を吐き、また言葉を継いだ。

「あいつは言った。『もう嫌なんだ、ここにいるのが。敵と名のついた、僕らと同じ生き物を手にかけるのが、どうしようもなく嫌なんだ』――。そう言われたら……斬るしかないだろ?」

 クリスは、そっとかぶりを振るようにうなずいた。

「だろ? そうだろ? 『勇者の遠い血縁の者』が逃げ出すほどの戦なんて、勝てる訳がない……。大勢の味方がそう考えてしまったら、もうそれだけで戦は負けるに決まってる。士気に関わる、大事な身分だったんだ、あいつは……っ、だから……っ!!」

 だから、殺した。

 息だけで吐き出して、俺は顔を覆った。

「俺はあいつを殺した後、上官にそれを話した。あいつは『華々しく戦って、戦地で果てた』事になった。俺の周りの兵たちも、因果を含められて口を閉じた。あいつらにはもう分かってたんだ、キィリが戦に耐えられないほど、優しい心の持ち主だって」

 ことを一つ吐くたびに、内臓を吐くような思いがする。それでも言葉は止まらずに、ぼとぼとと血の垂れるように落ちてゆく。

「あいつは……わ、笑ったんだ……『もう、殺さなくていいんだね』って……そう言って……」

 戦争には、勝利した。

 それから、俺は故郷を捨てた。生まれた場所に一度も帰らず、ゆきずりのこの村に拠点を移した。戦って、戦って、戦った。

 ああ。そうか。

 今、分かった。あれから俺が剣を捨てず、戦い続けたその訳が。

『世界を救いたかった』。

『勇者になりたかった』。

 その想いは本当だ。でもその裏側でずっと、俺は、死にたかったんだ。生まれてから抱き続けた想いよりももっと強く、キィリを殺した自分自身を、この世から絶やしたかったんだ。

「……俺は、……」

 言いかけた俺を、たおやかな手が優しく制した。いつの間にかそばにきていたクリスが、泣くような声でささやいた。

「分かっておりますわ。……私も同じ」

 そうだ。

 正義とか大義名分の皮をかぶって、いくつもの命を奪ってきた。

 俺たちは同じ、『ひと殺し』だ。

 クリスが、俺の手をぜた。白く綺麗な、俺よりももっとずっとよごれた手。

「……私たちは、やり方を間違えたのです。探しましょう。これ以上一滴も血を流さずに、世界を救う方法を」

 俺はうなずかない。ただ黙って、古ぼけた壁をにらみつける。

『人を殺さずに生きてゆく術』を、俺は、まだ、知らない。


 ちびドラゴンのキィリがやってきて半月後、俺は『なんちゃって勇者』の他に、『歌う子守』の称号を授かった。

 授けたのは、村の肝っ玉母ちゃんたち。俺はさしあたって、村の子供らの相手をして日銭を稼いでいた。日当はおよそ百ラゥド。居酒屋で強めの酒を二三杯あおるとすぐ消える程度の額だ。ぶっちゃけ、正直、かなり足りない。

 俺は傭兵時代にためた金を切り崩しながら、かつかつで生きている。

「この調子でいくと、一年で貯金なくなるぞオイ」

「街外れで歌うたいでもなさいます?」

「んなん出来るか。いい恥さらしだ」

 俺とクリスがやり合っていると、いきなり後ろから頭を叩かれた。

「スキありー!」

「だらしないぞ、なんちゃって勇者!」

 振り返ると、子守を頼まれた子供らが棒切れを手に立っていた。俺は棒切れを一本奪うと、子供らの頭を順番に叩き返す。

「『なんちゃって』は余計だ、ガキんちょ」

 子供らがむーっと頬をふくらませる。

 どうでもいいがこいつら、三つ子で顔の区別がつかん。

「ガキんちょじゃないもん!」

「ウーとルーとマァだもん!」

「はいはい、ウーとパーとルーとパァな」

「パーなんていねぇし!」

「しかも一人増えてるし!」

「適当言いおって、なんちゃって勇者め、成敗してくれるわー」

 三つ子の一人が棒切れを構えると、もう一人も同じように構えをとる。俺に棒をられたやつは、武器を探しに走っていった。

「ガキんちょのぶんざいで勇者に挑むとは片腹痛し。返り討ちにしてくれるわぁ!」

「やぁ!」

「たぁ!」

「おお、なかなかやるなおぬしたち。だがこれではどうだぁ!」

 ものすげぇ手加減して三つ子とチャンバラごっこを演じていると、脳みそがカッテージチーズみてぇに軟化していく感じがする。

(あぁ、俺、何やってんだろ……)

 ふとクリスの方を振り返ると、伝説の剣は嬉しそうに微笑っていた。その顔は何ていうか欠片も邪気がなくて、可愛くて、認める、俺はちょっとだけ、彼女に見惚れた。

 がつん!

 後頭部に木の棒がぶっつかる。お子様の手加減なし、本気の一撃。かなり痛い。

「何よそ見してんだー、なんちゃって勇者ー!」

「女に見とれてんじゃねー、エロ勇者ー!」

 ぶち。

「っ加減にしろやこんガキめらぁああぁ!! てめえら全員棒切れで突っついて混ぜくり倒して一塊いっかいのゲル状にしてくれるわぁあああぁっっ!!」

 キレた俺が本気で三つ子を追い回す。ちびドラゴンのキィリがはしゃいで、きゅるきゅる言いながら青く澄んだ空を舞う。

 それはキィリの体色以外に、一切『赤』のない光景で。俺は少しだけ幸せだった。

 ひとしきり騒いだ後、俺も三つ子も息を切らして草むらに横になる。吐く息がだんだん落ち着くころ、ふっとかすかなメロディーが口をついた。

 いつものように、即興そっきょうの歌を歌う。さっきまで俺と死闘を演じていた三人が

「すげぇ」

 と呟いて、そろって頬杖ほおづえをついて聴き始めた。

 気持ちよく歌っていると、ふと上から視線を感じた。見上げると、赤い屋根の家の二階の窓から、七歳くらいの女の子がのぞいているのが見えた。

 俺は歌を止めて、女の子に手を振った。

「おぅい。こっち来いよ」

 女の子ははにかんで首を振り、逆に俺に向かって手招きした。三つ子の一人が上を向き、

「あの子、病気だよ」

と呟いた。

 その後、口笛交じりに歌を歌っているうちに日が傾き、やがて三つ子の両親が野良道具を担いでやってきた。

「やあ、勇者さん。どうもお疲れさまでした」

「あんたたち、勇者さんにお礼言いなさい。さ、家に帰るよ」

『えー、もうー?』

 三つ子がそろって口をとがらせる。クリスが嬉しそうにくすくす微笑う。

 ま、こーゆーのも悪くない、かな。

 三つ子の母さんから日当をもらい、赤い屋根の家を見上げる。窓辺の女の子は、もういなかった。

「……えーと。一応行ってみるか? せっかくお招きにあずかったことだしな」

 クリスが微笑してうなずいた。俺は伝説の剣とちびドラゴンをお供に、さっきの家の扉を叩く。がたん、と大きな音がして、意外なほどすぐに扉が開いた。

 頭に黄緑のスカーフを巻いた、若い奥さんが中から出てきた。目にくまが出来て、少し充血している。

「……あ」

「あ、こんにちは、初めまして。えっとあのぅ、さっき二階の女の子に手招きされまして……」

「ああ、はい。どうぞ中へ」

 奥さんはあっさりと俺たちを中へ案内した。二階へ上がると、女の子はベットで横になっていた。女の子は俺を見るとにっこり笑い、

「お兄ちゃん」

と呟いた。

「お兄ちゃん、お名前は?」

「ラィヒだよ。ラィヒ・ライプツィヒ・ラィラ」

「……ラィヒ」

 女の子の笑顔が、花のしおれるようにしぼんだ。に、と残念そうに微笑い、荒れた口びるで言葉をこぼす。

「あたしは、サキ。サキ・ササラ」

 よろしく、とささやいて、手首に小さな鍵を結んだ、細い細い手を差し出す。まずその細さに驚き、ついで握った手の感触に息を呑む。白い棒切れで出来た、人形の手のひらみたいだった。

「ラィヒお兄ちゃん、歌、歌って」

 幼い声でおねだりされて、小さく歌いだす。あんまり声を張り上げると、サキが壊れてしまいそうな。そんな気が、した。

 内容はいつもの即興歌。赤い木の実の歌を歌った。母木の枝で赤く色づいた木の実が、鳥に運ばれ、遠い大地で芽を出すことを夢見ている、そんなささやかな歌を歌った。

 歌い終えるのとほとんど同時に、サキは吸いこまれるように眠りについた。かすかな寝息がすうすう鼓膜こまくを揺らす。

 それがなければ、生きていることすら疑ってしまいそうなほど、安らかな眠りだった。細すぎる手が、毛布から少しはみ出している。その手をそっと布団にしまい、俺は後ろを振り返る。

 奥さんが、泣いていた。

 驚いた俺の顔を見た奥さんは、あわててハンカチを取り出した。

「ごめんなさい。ちょっと……懐かしくて」

 急いで涙をぬぐった奥さんは、下への階段を手で示した。

「お茶でもいかが?」

 そう告げて、柔らかく頬を緩める。人の良さそうな微笑みには、淋しさとかなしさが溶けていた。


 階下したに下りた俺たちは、林檎りんごの紅茶をいただいた。

 紅茶を一口口に含むと、甘い香りが鼻を抜ける。手作りのクッキーをテーブルに出してくれた奥さんは、ふっと小さく息をついた。

「……あの子には、年の離れた兄がおりまして。名をサエキといいまして、あなたにそっくりな子でしたの」

 奥さんが、嬉しそうでいて淋しそうな顔をした。

「やっぱり、歌の上手い子でしたわ」

 奥さんに告げられて、俺は納得した。脳裏に、さっきのサキの残念そうな顔が浮かぶ。

 ははぁ。彼女は、俺をお兄ちゃんだと思ったのか。だから俺の名を聞いて、ちょっとしおれた顔をしたんだな。

 奥さんの複雑な表情も、息子を語る語尾が、全て過去形なことからあたりがつく。

「……もう、お亡くなりで?」

「ええ。血が結晶化する奇病で。全身の血が固まって……」

 サキも、同じ病気ですの。

 花びらの散り落ちるような小さな声で呟くと、奥さんはかすかに笑った。泣くよりも、よほど悲しい顔だった。

「病自体が珍しいので、固まった血にも希少価値があるみたいで……。遺体をそのまま埋めると、墓荒らしが絶えないそうで。魔力を帯びた炎で、骨まで焼いてもらうんです。サエキの時もそうでした」

 奥さんが、どこか後ろめたそうに目を伏せた。

「……お墓に埋まっているのは、あの子の灰だけですわ」

 ぽつりと小さく呟いて、ほのかに目を泳がせる。クリスが何か言いたげに、でも結局何も言わずに、紫水晶アメジストの目で奥さんを見つめた。

「今は娘と二人、ご近所の縫い物や編み物で生計を立てています」

「……ご主人は?」

 奥さんは黙って微笑み、となりの部屋から一振りの剣を出してきた。さやを見ただけで、その血を浴びたゆえの深い照り映え加減で分かる。

 戦士の剣だ。おそらくは、百をくだらぬ人を手にかけた。

 クリスの方へ目を向けると、伝説の剣は悪魔の鏡を見たように、辛そうな顔をしていた。

「主人の、遺品です」

 それだけで、何が起こったかは見当がついた。

 殺されたのだ。敵と名のついた、誰かに。

「……サキには、何も言わずにいてください。『遠くへ出稼ぎに行った』としか、伝えておりませんから」

 俺とクリスがうなずくと、奥さんはほろりと花のほぐれるように、微笑わらった。花が枯れる刹那に見せる、最後の美しさのような。はかない笑顔だった。

「あなた、勇者様ですよね。もうじき旅立ちますの?」

「あ、ええ……どうだか。まあ行くかもしれませんけど」

 あいまいに言葉を濁すと、奥さんはぽんと手を打った。

「それじゃあ、マントが入用ね!」

 ぱっと破顔し、奥の部屋に目線を送る。つられて目で追うと、ドアのガラス越しに、織り機と織りかけの布が目に入った。

 俺の視線に気づいた奥さんは、ふふっと微笑った。

「主人のためのマントでしたの。もうずっと前から、織るのを止めていましたけど。織り上がったら、差し上げますわ」

「え? いやそんな」

 俺があわててかぶりを振ると、奥さんが差し迫った様子で俺の手をとった。

「構いませんの。どうか受け取ってくださいませ。……その代わり、」

 奥さんが何か言いかけてためらった。一瞬泳いだ目が、まっすぐに俺の目を射抜く。

「あの子の苦しみが終わるまで、サキのそばにいてください」

 あと、一月ひとつきほどですから。

 ほとんど息だけの声でささやくと、奥さんの切れ長の瞳から、つっと一すじ、しずくが落ちた。

 俺は、黙ってうなずいた。

 この人は、あと一月で、本当に独りになってしまう。娘の亡骸なきがらも血も、骨すら灰と消えて。遺されたのは、何百人もの血をすすった剣一振りになってしまう。

 奥さんは、声を殺して泣いていた。

 クリスがなぐさめるように、かすかな声で歌い出した。小鳥のすすり泣くような、切なく、哀しい歌だった。


 サキと出逢って、最初で最後の一月が始まった。

 ベットサイドで小声で歌うだけの、静かな子守り。サキが元気な時は、少しおしゃべりをする。

 出逢って数日後、サキはベット脇の小物入れから木製の箱を取り出した。細すぎる手がふたを開けると、中には小さなびんがたくさん並んでいた。

「何、これ?」

「花の種。お父さんが、旅先からいっぱい持ってきてくれたの」

 サキが瓶をひとつひとつ取り出して、いろいろな解説をしてくれる。ふっと疑問が浮かんだ俺は、サキに尋ねてみた。

かないの?」

「芽吹かないの。花たちが育った場所と、環境が違うから」

 サキは残念そうに、小首をかしげて微笑んだ。枯れ木のような手のひらに瓶をのせ、上目づかいに訊いてくる。

「ねえ、お兄ちゃんは勇者でしょう? これからも、色んなところに行くでしょう?」

「あ、ああ。まあね」

 親子だなぁ、と思いながら、俺はどもりつつ返事をする。サキが嬉しそうに微笑って、手のひらの瓶を差し出した。

「じゃあね、これ持って行って。瓶の中の紙に、どこでとれた種か、書いてあるから。紙に書かれた場所に着いたら、蒔いていって。お願い」

「いいの?」

 お父さんの形見なのに――。

 思わず言いかけて、あわてて口をつぐむ。サキは怖いくらい澄んだ笑顔でうなずいた。

「いいの。咲かないで、種のまんまじゃかわいそう」

 咲かぬまま散る運命さだめの娘は、悟ったようにささやいて目を閉じた。再び開かれた瞳は、人の手では届かないほど、遠くを見ているようだった。

「お兄ちゃん。お兄ちゃんは、いつまでここにいてくれる?」

「……サキが元気になるまでだよ」

 嘘をついた。

 サキは微笑った。

 嘘だって分かってるんだよ。でもだまされたふりをしてあげる。

 そう俺をまぜっかえすように、こけた頬を緩めて微笑った。


 出逢って十日目の朝が来た。さっと朝食をとり、サキの家を訪れる。

 とんとん、と機織はたおりの音がしていた。玄関のドアをノックすると、音が止み、奥さんが笑いながら顔を出した。

 この人の痛みの溶けこんだ笑顔にも、慣れてきてしまっている自分に気づく。

 二階に上がらせてもらい、サキはまだ眠っているかもと、ノックなしで部屋に入る。サキは所在なげに、手首に結んだ鍵をいじっていた。俺に気づくと、こけた頬を緩めて微笑った。

「おはよう、お兄ちゃん」

「おはよう。……ねぇ、前から思ってたけどさ。その鍵、何の鍵?」

 サキは黙ってひもを外し、俺に鍵を手渡した。

「そこの机の二段目。開けてみて」

 言われるままに、鍵を使って引き出しを開ける。茶色の粒々の詰まった瓶が、横倒しに入っていた。

「……薬?」

「うん。気休めだけど。あんまり苦しいときに飲むと、ちょっと気分が楽になる。それだけ」

 あんまり飲まないことにしてるんだ。

 呟くサキの細い手首に、鍵つきの紐をかけてやる。紐の輪はとても小さくて、それでもサキの手首にかけると、驚くほど余裕があった。

「あたしが管理してるの。お母さん、やたら飲ませたがるから」

「はは。何か、サキの方がお母さんみたいだな」

「……『お母さん』に、なりたかったな」

 思いがけない呟きに、ぎくっとする。それから何とも言いがたい、淋しいような苦しいような気持ちになった。

 サキは俺の表情に気づくと、微笑わらって「ごめんね」と言った。

「何が『ごめん』さ?」

「……ごめん」

 サキは力ない微笑を浮かべて、申し訳なさそうに目を閉じた。それからすぐに、かすかな寝息を立て出した。

「……サキ……」

 ほぼ無意識に少女の名を呟くと、ふいに目頭が熱くなる。

 情けない。すぐ後ろにクリスとキィリがいるっていうのに、めそめそ泣くんじゃ男がすたる。

 そう思って忙しくまばたきを繰り返す。ぐいと無理矢理目元をぬぐうと、ふいにサキが眉根を寄せた。

「……う……う……ん……っ」

 うなされている。苦しいのだろうか。それとも、悪夢を見ているのだろうか。起こしたほうが、いいだろうか。

「サ、」

「……こわい……怖いよ……こわい……」

 眠ったままのサキのかさかさの口びるから、引きれた言葉がもれてくる。

「死ぬの……こわいよ……こわいよぅ……」

 サキの肩へと伸ばしかけた手が、固まった。

 この子は。

 この子の内には、死への恐怖が渦まいている。

 それでもなお、周りを気づかって、死を達観したようにふるまっている。

 それを思うと、言い知れぬ感情おもいで胸が詰まった。俺はふううと大きく息を吐き、小さな声で歌い出した。クリスとキィリも、かすかな声で唱和する。俺たちは一人と一振りと一匹で、花や、海や、小鳥を歌う。

 歌いながら、考える。

 良いことだろうか。むごたらしいことだろうか。死を待つばかりの少女に、希望の歌を歌うのは。

 それでも、歌を耳にしたサキの寝顔は少しずつ安らかになってゆく。こけた頬に、薄っすらとやわい笑みが浮かぶ。

 だから、良いことなんだ――と、歌うこちらが、勝手に決めた。

「……おやすみ、サキ」

 すやすやと寝入った少女に、俺は小さくささやいた。『せめて、夢の中だけでも健康な体で、めいっぱい遊べますように』と何かに祈る。俺の背後から、クリスがかすかに声をかけた。

「ラィヒ、水差しが空になっていますわ」

「ああ。奥さんに水もらってこよう」

 俺とクリスは、音を立てぬよう立ち上がる。ついて来ようとしたキィリに、

「お前はここにいろ。サキに何かあったら、教えに来てくれ」

 と言い残し、階下に下りた。

「奥さん」

 奥さんは、奥の部屋の戸に手をかけていた。俺が声をかけると、肩を跳ね上げて振り向いた。その左手に、物々しい形の大きな鍵を持っている。

「……奥さん?」

「あ……サキの、薬が……もう足りないかな、と思って……」

「薬なら、十分足りてるようですよ」

 足りないのは、命の長さだ。

 そんな言葉が脳裏に浮かんで、その傲慢ごうまんさに自分で自分に吐き気がした。奥さんはせわしなく何度もなんどもうなずいて、鍵を手に目を泳がせた。やがて観念したように、ふーっと長く息を吐いた。

「……お見せします」

 硬く締まった声で告げると、俺とクリスを奥へ誘う。機織はたおりのある部屋のとなり、入ったことのない部屋には、いかつい金庫が置かれていた。奥さんがでかい鍵を差し、頑丈がんじょうそうな金庫を開ける。

 中にあったのは、宝石だった。赤い宝石。細い紐状の、おかしな形をしていた。

 そう、まるで、血管のような。

「……奥さん……これ……!!」

「そうです。死んだ息子の、血の結晶です」

 奥さんは無感情に呟くと、金庫の底に散らばった欠片を一つ手にとった。そこで初めて、やるせなさそうな笑みを浮かべた。

「これ一個が、サキの薬二十粒分。……縫い物や編み物の仕事だけでは、とても買えません」

 奥さんが今まで何度も見せた、後ろめたそうな笑顔が脳裏に蘇る。

 ああ。奥さんは、息子の体の欠片を売って、娘の薬に換えていたのか。たった一人残った家族の命を、少しでもながらえようと。

「息子が死ぬ間際、サキは発症しました。その頃にはもう、夫はこの世におらず……。薬の高価いのを嫌というほど知っていた私は、息子の遺体の右腕だけを残しました。……サキの薬代にあてようと」

 奥さんはすがりつくような目で、危うく微笑う。

「サキが知ったら、何て言うか……」

 奥さんは引き攣けるように、くっ、くっと小刻みに震えて笑う。このままだと、サキの前に奥さんが崩れてしまうのじゃないか。そんな、危うい笑みだった。

 何も言えない俺を尻目に、クリスが一歩前に進み出た。

「奥様。いくら欠片を売ったところで、お手元には必ず一つ、息子さんの体の欠片を残されるおつもりでしょう」

 屑折れそうに紫水晶アメジストの目を見る奥さんに、クリスはかすかに微笑いかけた。

「あなたのしたことは、『間違っている』かもしれません。けれど、きっと本当は、これが一番正しいことだと思います」

 すさみきっていた奥さんの目元が、ふうっと子供のように緩んだ。奥さんは今までで一番嬉しそうな、救われたような笑顔を見せた。

 そして泣き出した。


 サキと出逢であって二十日目は、昼過ぎから嵐になった。嵐はだんだんひどくなり、日暮れ時にはほんのわずか窓を開けることさえ出来なくなった。

「これじゃあ帰れないわね。嵐が止むまで、家に泊まっていらっしゃいな」

 少しだけ笑顔のやわくなった奥さんの申し出に、遠慮なく甘えることにする。夕食後にサキの部屋でおしゃべりしていると、サキがわずかにきこんだ。

「大丈夫?」

「うん。ちょっとむせただけ」

 サキは『にっ』と笑ってみせて、「お兄ちゃんたち、お風呂入ってきなよ」とすすめた。

「え、でも、大丈夫?」

「うん。着がえもしたいしさ」

 あ、そういうことか。

 にぶい自分に赤面せきめんし、クリスと一緒に階下したへ下りる。椅子に座って縫い物をしていた奥さんが「あら」と呟いて顔を上げた。

「すいません、お風呂いいですか?」

「ああ、どうぞ。沸いてますから。えぇと、お二人のお着がえはどうしようかしら」

 せわしなく立ち上がった奥さんが、ふっと二階へ目をやった。

「私、サキのそばについてやった方がいいかしら」

「あ、大丈夫だと思います。何か着がえもしたいそうですし」

「ああ、そうなのね」

 奥さんがサキによく似た、茶色の瞳を緩めて微笑わらう。

「じゃあ私、先お風呂いただきますね」

「おう、行けいけ。綺麗好き女子が一番風呂だ」

 剣が風呂? びねぇか? とかいう無粋な突っこみはなしにして、俺はクリスに声をかけた。こそばゆそうな笑顔を残し、クリスは風呂場へ向かっていった。

 奥さんが「ごゆっくり」とクリスの背中へ声をかける。それから階段の下へ行き、二階うえへ向かって声をかけた。

「サキー? 無理しないで、駄目そうだったら手持ちのベルを鳴らしなさいよー? そしたらお母さん、手伝いに行くからねー」

 返事は、ない。もう階下したまで届く大きな声は出せないのだろう。代わりにキィリがきゅるきゅる言いながら飛んで下りてきた。

「きゅー、きゅー」

「おお、お前も追い返されたか、キィリ。どした? 何きゅるきゅる言ってんだ? ははーん、お前いっちょ前に少女のハダカ見て昂奮してんのかぁ?」

 あ、やべ。奥さんの前で言う台詞せりふじゃなかった!

 男前な軽口を叩いてから、あわてて奥さんの表情をうかがう。奥さんは少しあきれたように、でもちょっとだけ嬉しそうに、ふんわりやわく微笑っていた。

 サキがいなくなったら、この笑顔は、また歪んでしまうだろうか。そんな思いを気取られぬよう、俺もだらしなく笑ってみた。

 嵐は、止む気配もない。


 嵐は一向に止まなかった。ついにお泊りは四日目に突入した。

 サキと奥さんははしゃいでいたが、さすがにちょっと申し訳ない。クリスが家事全般のお手伝いをしてくれるので、俺はすることが何もない。

 必然的に、俺はサキにつきっきりになった。出逢った頃より縮んだ手に手を重ね、ささやくように歌を歌う。

 自分の子守唄に自分で眠くなり、少しうとうとしてしまった。目が覚めた時、サキは身を起こして、苦しそうに微笑っていた。

「……サキ? どうした?」

「うぅん、何でも。だぃ……大丈夫」

 息を荒くしてこたえたサキが、げほっと大きく咳きこんだ。水のような液体が布団の上に散る。体を丸めてえずく姿は、明らかに事の異常を告げていた。

「奥さん! クリス! サキの様子が!!」

 俺の叫びに、ばたばたと階段を駆け上がる音がして、二人が部屋に飛び込んできた。キィリがきゅるきゅる言いながら、狂ったように飛び回る。

「サキ、鍵を……!」

 薬を飲ませようと、サキをうながす。サキは激しくえずきながら首を振る。枯れ木のような手で鍵を押さえ、何度もなんども首を振る。

 ここで無理に奪い取ったら、腕が折れてしまうだろう。俺は素手で引き出しに手をかけ、無理やりに引っぱって壊して開けた。

 瓶は、空だった。

「……いつから……?」

 サキがぐずぐずに咳きこみながら、切れぎれの声で答える。

「さいしょの、あらしの、ばんに」

 最初の嵐の晩。めまぐるしく記憶を手繰たぐった脳が、凍りつくように動きを止める。

(お風呂入ってきなよ)

 サキ。あの時少し咳きこんでいたのは、発作の前兆ぜんちょうだったのか。あれだけの薬を飲みきるほど、苦しかったのか。

 ああ、そうか。じゃああの時、キィリはそのことを俺に教えようとして、あれだけ大騒ぎしていたのか――。

 血の出るほどにこぶしを固め、俺は奥さんを振り返る。

「薬は」

「は?」

「薬は、どこに行けば手に入りますか」

 固まっていた奥さんが、泣き出すような顔で答えた。

「となり村の、ラティオという医院です」

 となり村。町に行くほうが遥かに近い。行くには山を越えるか、半日はかかる平らな道を通るしかない。

 俺は剣を置いて立ち上がる。心配そうにまつわりつくちびドラゴンを、「お前は待ってろ」と押し留める。

「奥さん、金庫を開けてください。薬をもらってきます」

 奥さんがぐしゃぐしゃの笑顔で立ち上がり、転がるみたいに階下したへ下りる。歩を進めかけたクリスの方へ手をかけ、椅子へ座らせる。

「お前は、サキのそばへいてやってくれ」

 言い置いて階下へ下りると、奥さんが一きわ大きな血の欠片を手にして、崩れそうに立っていた。欠片を受け取り、手持ちの袋へ入れる。

「行ってきます」

 これ以上なく潤んだ瞳にそう告げて、扉を開けた。肌の切れそうな勢いで風が吹きつけ、激しい雨がまたたく間に部屋を濡らす。

 俺は全力で扉を閉め、嵐の中に踏み出した。


 肌を矢のように撃ち抜く雨粒。

 耳が聞こえなくなるほどの暴風。

 一歩一歩進むごとに、言うことを聞かなくなる両の足。

 山頂に行き着くまでに、気力も体力もいちじるしく削られて、俺は嵐の只中で足を止めた。

(俺、何やってるんだろう……)

 なぁラィヒ、お前は『最強の勇者』だろ? 剣もパーティーもなしに、こんな嵐の山の中で、一体何をしてるんだ?

「……うるせぇ」

 自分の中のずるい自分に毒づいて、足を引きずって頂上うえを目指す。

 頂上までたどり着けば、後は何とかなる。間に合う。きっと。帰りのことは努めて考えようとせず、ただ前に進むことだけを念じて進む。

 大丈夫。もうじき、頂上だ。もう少し。もう少し。

 砂袋を引きずっているような感覚の足を、一歩ずつ、一歩ずつ前へ。

「良し……良し! じきに頂上だ……っ!!」

 雨で濡れた顔を上げると、岩と泥に真っ黒く視界をふさがれた。前が見えない。山頂をさえぎるように、どっしりと黒い土の壁。

「……何だよ、これ」

 あまりのことに、逆にだらしなく口元が緩む。

 土砂崩れ――。

 へらへら、と緩んだ口元から、たらたらとよだれが垂れる。

「何だよ。何なんだよ、これ……」

 強風でほとんど聞こえない自分の声が、情けなくかすかに耳に届く。踏んばっていた足から一気に力が抜けて、俺はその場にへたりこんだ。

これを、越えて行けっていうのか?)

 もう嫌だ、限界だ。

 そもそも俺は何で、こんなに必死になっているんだ? 仲良くなった小さな女の子の命を、少しでも長らえさせるため? 幾人いくにんもの命を奪ってきた、この俺が? 幼い親友の命を奪った、この俺が?

 お笑いだ。

 俺はぐちゃぐちゃな笑みを浮かべて、血の結晶の入った袋を握りしめた。

「……逃げろよ、ラィヒ」

 逃げろよ。いいチャンスじゃないか、逃げちまえよ。

 今はあの目ざわりな剣もいない。きゅうきゅううるさいちびドラゴンも。『伝説の剣』から離れれば、きっと他の剣を手にとっても、何も起きないに違いない。

 そうだよ、ラィヒ。お前はあの剣から逃げようとして、あえてこの役を負ったんじゃないのか? 逃げちまえ、逃げちまえ。この血の結晶を持って逃げ出して、どこかで良い剣を手に入れて、今度こそ本当の勇者になれ。そうして、今度こそ本当に世界を救え――!!

 バシィイイィンッッ!!!

 嫌というほど殴られて、俺ははっとして頭を上げた。木の枝だ。嵐で折れた木の枝が、強風に乗って俺の頭をどやしたのだ。

 鋭く突き刺さるような痛みが、黒く暗くもやのかかった俺の意識を吹き払った。

 俺、今、何考えた――?

「……馬鹿野郎」

 弱くてもろい、もろすぎる自分に吐き捨てて、じりじりと立ち上がる。

「小さな女の子の笑顔一つ守れない男に、この世界が救えるかよぉおおぉーーーっっ!!!」

 俺は、えた。自分の弱さを吹き飛ばすために咆哮ほうこうして、かじかんだ体をぶつけるように、泥壁の岩くれに手をかける。

 一つ、一つ。一歩、一歩。

(何のために……?)

 簡単だ。あの子の笑顔を、もう一度だけでも見るために。記憶に残るあの子の最期の顔を、苦しみで彩らせないために。

 親友キィリの時のあやまちを、また繰り返さないために。

 俺は泥まみれ傷まみれの体で、土砂のてっぺんに手をかける。はがれた爪と爪の間に、頂上のひらけた景色がのぞいていた。


 ようやっと山を降りた俺は、酔っぱらいのような足取りでラティオ医院へとたどり着いた。『嵐のため閉院』とドアの向こうに張り紙がしてあるが、明かりはついている。

 俺は固まったこぶしでがむしゃらに扉を叩いた。気づかれるまで、長い時間がかかった。

「何だね、こんな嵐の夜に……急患かな?」

 いぶかしげにドアを開けた壮年の医者は、俺を見て驚いた顔をした。

「ひどいな。何て格好だ。あなた、どこから」

「となり、村……」

「となり村!? あんなところからこの嵐を、ここまでやって来たのかい!?」

「はい……サキのところから……先生、サキの、くすり……」

 袋から結晶をつかみ出し、押しつけるように医者に渡す。

「お願い、しま……」

 急に目の前が白くかすんで、何も見えなくなった。

 目がさめると、ベットの上にいた。あわてて身を起こすと、鈍い痛みが背中を襲う。医者が俺を、優しい力で押し留めた。

「お、俺、どのくらい寝てました?」

「大丈夫、ものの五分も経っちゃいない。もう少し休んでいきなさい。ほら、薬ならここにあるから、安心して」

 微笑わらう医者の手から薬を奪い取り、俺は立ち上がる。

「俺は平気です。それよりサキが」

「……気休めの薬だよ。君はそれを取りに嵐の中をやって来て、そのぼろぼろの体で、また戻っていくのかい?」

 俺がうなずくと、医者は冷静な目で俺を見た。

「君は、サキちゃんの何なんだい?」

「友達です。一月ひとつき前から」

「……それだけかい」

 俺は大きくうなずいた。医者の目が緩み、かすかに頬に笑みを浮かべた。

「また歩いて帰る気かい?」

「はい」

 即座に答えると、医者は大口を開けて笑い出した。

「ははは! 馬鹿なことを! その体でまた戻っていったら、サキの前に君が壊れるよ!」

「何を……!!」

 医者に食ってかかろうとしたら、背骨がぐしぐしと崩れるように痛んだ。思わず顔をしかめると、医者が柔らかく微笑んだ。

「ほら、言ったろう? ひとの話は最後まで聞くものだよ。……これで」

 医者は薬棚くすりだなを開けると、真っ白く大きな羽根を一枚出してきた。

「このペガサスの羽根で、サキのところまで帰りなさい」

 俺はあっけに取られて、ぼんやりと医者の顔を見た。

 ペガサスの羽根。羽根一枚につき一回限り、念じればどこでも好きな場所に行ける。けれど、使えば消えてなくなってしまう。国宝級に珍しい――もの。

「先生……」

 壮年の医者は、少年のように涼やかにはにかんだ。

「ほら、立って。薬を忘れずに。じゃあね……サキちゃんによろしく」

 何ともいえない感情に、胸が詰まる。俺は黙って大きくおじぎして、白い白い羽根に念じた。

(サキの、ところへ……)

 視界がもう一度白くなる。とっさに目をつぶり、再び目を開けると、そこはもうサキの部屋の中だった。寝乱れたベットの上で、少女が苦しみ悶えている。

「サキ……サキ」

 かさかさにひび割れたサキの口に、小粒の薬を押しこんだ。薬を飲みこんだ少女の頬に、薄っすらとかすかな笑みが咲いてゆく。

 少女は涙を流しながら、俺に向かって細すぎる手をさしのべた。

「お、にぃ……ちゃ……」

 俺はサキの手を握る。ひからびて汗ばんだ、枯れ木のような少女の手。サキは嬉しそうに微笑って、またその目から涙をこぼした。

「……サェキ……おにぃちゃ……ありがと……くすり……」

 意識が混濁こんだくしている。俺のことを、せんに死んだ実の兄だと思っている。俺は何も言わずに、ただ黙って笑ってうなずいた。サキはとろとろととろけるように微笑んで、またひび割れた口を開いた。

「血……いっぱい……ありがと……くすり……」

 奥さんが、はっとした顔で息を飲んだ。

『血、いっぱい』。

 サキはもう、知っていたのだ。母が死んだ兄の血の結晶で、自分サキの薬を買っていたこと。少女はふうっと目線を横に流し、母に向かって微笑んだ。

「お母さ……ごめんね……ありがとぅ……」

 奥さんが涙でぐしゃぐしゃになった顔で、精一杯の笑顔を見せた。

 俺は、歌を歌う。もう終わりなのだと分かるから、夢と希望に満ちた、温かな歌を歌う。クリスも歌う。奥さんもかすれた声でハミングし、キィリまできゅうきゅうと唱和する。

 歌うのは、平和の歌。

 誰も失望せず、絶望せず、誰も無意味に命を失うことのない、桃源郷アルカディアを描いた歌。

(……この歌どおりの、世界になるには)

 一体、どのくらいの年月が必要なのだろう。いくら数字を重ねても、求められないものなのだろうか。

 サキが、微笑したまま目を閉じる。その優しい笑顔が、昔殺した友人の顔と重なった。古い友人は、嬉しそうに、ただ嬉しそうに、こちらを向いて笑っていた。

「……サキ?」

 ふっと歌うのを止めて、小さな友人の名を呼んでみた。サキの笑顔は、動かない。花が咲き定まったように、ほころんだまま動こうとしない。

「……サキ」

 こけた頬に、そっと手を触れる。まだ温かな頬は、少しずつ、ほんの少しずつ、人の熱を失っていく。

 奥さんが、声をあげて泣き出した。俺の目頭が、火傷やけどしたように熱くなる。俺は泣きながら歌った。生まれたての天使の歌を、幸せなしあわせな天使の歌を。

 今さら嵐のしずまる音が、窓の向こうから聞こえてきた。ぱらぱらと、止みかけた雨の音がやさしく響く。

 まるで、幼い少女へのささやかな鎮魂歌レクイエムのように。


 サキの葬式を終えてから、俺は旅立つ準備をした。旅支度を整えると、クリスに声をかけられた。

「ほらラィヒ、サキちゃんのお母様にごあいさつをしなくては」

「分かってるって。出かける途中に寄るからさ」

 斬れない剣をたずさえた俺に、奥さんは深々とおじぎした。それから織り上がったマントを俺にかけてくれた。

 黒地をベースに、様々に浮き上がる赤地の紋様もんよう織物おりものにしろうとの俺でも分かる、とても質の良いものだ。遠慮する俺に押しつけるようにマントをかけて、奥さんはサキの持っていた箱から、小瓶こびんをたくさん取り出した。

「これを持ってってもらわなきゃ、サキに怒られるものね」

 奥さんはしんみりと微笑いながら、俺の袋に一まとめに、花の種の入った瓶をつめこんだ。

「あとね、これを。他は灰になっちゃったけど、二欠ふたかけだけ取っておいたの」

 奥さんは小さな血の結晶を一つ、俺の手にそっと握らせた。

「サキも連れてってやって、ね」

 俺は微笑ってうなずいて、腰の小さな袋へ結晶を入れた。

 サキの家を出ると、俺はぐうっと一つ、伸びをした。何か吹っ切れたような、悪くない気分だった。クリスがほんのりと微笑んで、俺に向かって訊ねてくる。

「それで、まずはどちらへ行きますの?」

「……どこ行こうかぁ」

 気のない口調で答えると、クリスとキィリがずっこけた。

「まだ決めてませんの?」

「ん。決めてんのは一つだけ」

 俺は『ぴっ』と指を立てると、歯をむき出して笑ってみせた。

「世界を救う」

 クリスは少しまたたいて、それから柔らかく微笑んだ。太陽が少しまぶしくて、俺は手のひらを空にかざした。指のすき間から、光がもれる。

 信じたい。

 あやまちを犯し、血にまみれた手だからこそ、つかめるものもあるのだと。血を一滴も流さずとも、世界は救えると。

(さあ、行くぜ)

 これはここから始まる、伝説の斬れない剣と、歌う勇者の物語。

 なんて、ちょっとキザかな。

 自分で自分に苦笑して、小さく歩き出す。自然と口をついた平和の歌は、夏の風に溶け、透き通るような空の青へ染みていった。

                                      (了)


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