とある漫才師の人生目録
「サンタさんに憧れててね」
「ほなやってみよか」
「(手をひろげて)はよのぼってきてはよのぼってきて」
「あんなあ…サンタさんって山ちゃうぞ」
「しらんがなそんなもん。俺は山やりたいねん。のぼってきてくれ」
「そ…そうか」
「乗ってどうすんねん。お前はあれか。巨人をやりたい口か。手人間でこいや」
「手人間って何やねん…(手で登って行く)」
「どこ登ってんねん。そこは俺の左肩やろ」
「しらんがな。お前が山っちゅう設定やろ」
「俺はお前のやることやることにケチつけてお前につっこまれる山をやりたいねん」
「それ漫才やんけ」
「ええから山やらしてくれや」
「ええよ。」
「(何もしない)」
「山せえや」
「どういう意味やねん」
「さっきみたいにこうやって手ひろげて山せえやゆうてんねん」
「無理あるやろ。どう考えても山肌が皮膚とか服なんやねん」
「えらい視点がミクロやな。そやかて山なりたいゆうたんはお前やからちゃんとせえや。俺も手人間で登るから」
「お前の手人間の手首以前はなんやねん。指が手足としたらお前、頭が山よりでかいぞ」
「こっからさきは見いひんかったらええやろ」
「俺なんで手首しか見えへん人と漫才せなあかんねん。」
「都合によって見えたり見えへんかったりせえや」
「(キョロキョロする)」
「見えへんのかい!」
「(勝手に空中と漫才を始める)」
「誰見えとんねん」
「(ボケる)」
「つっこめや(空気に向かって)」
「誰見えとんねん」
「知らんわ」
「でもちょうど幽霊が人驚かすのもやりたかったからやらしてくれや」
「ええよ」
「うらめしまー(さっきの山のポーズ)」
「今度は島か」
「妖怪手人間」
「頭でかいなあ」
「敵は本能寺にあり」
「手人間のくせに戦国時代を群雄割拠しすぎやろ。」
「なんやねんそのくどいつっこみは」
「そやかて、お前のボケがつめこみすぎやねん。」
「(空中に向かって)ほな本能寺のボケは明智に譲るわ。」
「さっきのやつ光秀の幽霊やったんかいな」
「ちゃうよ。こいつブルータスにお前もかお前もかしか言わへんもん」
「カエサルやん」
「だれやねん。シーザーって」
「わかっとるやんけ。英語読みでわかっとるやんけ」
「(空中に向かって)え?なんて?さいは投げられた?」
「今さらかい。もうええわ。どうもありがとうございました。」
パチパチパチパチ
拍手の音の中、俺は必死に笑い声を探していた。漫才中の笑い声が聞こえないほど集中していたのだ。
俺たちホワイトマスタードは売れない芸人である。今年で結成10年。このグランプリで結果が出せなければ解散も考えていた。すると幸運にも決勝に残ることができた。
俺たちの目標はM1優勝だ。
だれしも新年の抱負とか目標とかをたてると思う。
しかし、自分の気持ちしだいでできることってものすごく少ない。
ほとんどの事象は環境や相手や運に影響をうけるからだ。
自分が今の自分の家庭に生まれなかったらどうなってただろうとか思うと、日本の今の時代生まれたことがとても恵まれていることにきづくだろう。
思えば僕らの世代の子供時代は、スーパーファミコンからプレステ、サターン、64、プレステ2などさまざまなハードに恵まれた。オモチャもミニ四駆やハイパーヨーヨーやビーダマン、遊戯王などいろいろあった。漫画だってジャンプ、マガジン、サンデーの黄金期があった。ネットや携帯も普及した。
要するに何が言いたいかというと、運命を変えることは容易ではないということ。
よく漫画にあるパターンで熱い思いが運命を切り開く的な展開がある。しかし、運命を変えるものは気持ちではないと俺は考える。
運命に影響されないことってなんだと思う?
それは物理法則と時の流れ。
すなわち、自分の行動を法則や道理に従えば、運命に影響されることがないわけだ。
逆にいうと、道理に合わない行動は無駄なのだ。
だから
ここまで聞いてくれた人はわかってくれると思う。
この文章は道理に合わない。無駄だ。餅を喰うな!
好きな芸人は笑い飯、野性爆弾、天竺鼠です。