優しい風
雨もすっかり上がった、土曜日の朝。
「風が気持ちいいわね」
大都会のここでも、自然の息吹を感じることができる。私は、雨上りのひんやりとした空気で満たされた街一番の大通りを歩いていた。時折通り過ぎる車の運転手たちも窓をいっぱいに開けて、この爽やかな風を楽しんでいるようだ。
周りを高い高いビルに囲まれたこの大通りは、日の光はほとんど差し込まない。私が横断するとどんなに急いでも一分はかかるほどの広い道なのに、それを覆い隠してしまうほどのビル群の高さといったら、私には想像することすらできなかった。
新摩天楼。みんなはこの街をそう呼んでいる。かつて、似たような街がどこかにあったらしい。そこでも爽やかな風が吹いていたのかしら。
「とってもきれい」
私は前方を見ながらつぶやいた。大通りは緩やかな下り坂になっていて、まっすぐに伸びている。その先には、日の光を浴びてキラキラ輝く大きな海。ここからでは少ししか見えないけど、はるか遠くには別の湾があって、大通りは巨大な吊り橋につながり水平線の先まで続く。少しだけ小高いここは、そんな景色を一望するのにうってつけだった。といっても、左右は高いビルに視界を奪われているけれど。
「お嬢ちゃん。今日は真っ青だねえ、海も空も」
歩道を歩く私に、信号待ちの車からおじさんが話しかけた。
「ええ、ほんと」
「雨上りの晴天って、何だか心も洗われるようだねえ。そう思わないかい?」
「ふふっ、そうね。気持ちのいい風も、私たちのホコリを落としてくれてるのね、きっと」
「あっはっは! 違いねえや!」
おじさんは私に手を振ると、前方に走り去っていった。
「心も洗われる、か」
おじさんの言った言葉を繰り返して、暖かい気分になった。
みんな優しくて心がきれい。すべての人が、この青空よりも、海よりも、ずっと。
私は子供の頃を思い出していた。
~~
それは突然だった。
この星全体がパニックに陥った、あの日。
私たちが、子孫を残せなくなった日。
生殖機能の喪失。
その日から、子供が生まれなくなった。人間だけでなく、ありとあらゆる動物が子を宿すことができなくなり、寿命の短い種は次々と絶滅していった。
たくさんの頭のいい人たちが解決策を探ったけれど、結局何もわからなかった。国と国とが双方のしわざを疑ったりもしたけれど、そんな疑念も無駄だった。
私たちは知ったのだ。私たち、いえ、この星全体の生けるものの終焉を。
「あれは……何年前だったかな……忘れちゃった」
母は小さな子供の私に泣きながら謝っていた。あの時はなぜなのか分からなかったけれど、きっと、私が母になれないことを謝っていたのかな。
私は何も残念に思わない。私たちが滅んでしまうのはきっと残念なことだけど、こんなに安らかな終わりなら、私はちっとも構わない。
最初は混乱を極めた世界も、やがて落ち着いた。戦争が一つ、また一つと終わり、世界のいがみ合いはなくなった。殺人も、強盗も、過去の遺物。死ぬことが永遠の喪失だと身をもって経験した人類は、本当の意味での生の尊厳を知ったのだ。今では誰も悪いことをしない。何も困らない。みんな、幸せそうな顔で毎日を生き、そして死んでいく。
それは、私たちが未来繁栄の消滅と引き換えに得た黄昏のユートピアだった。
~~
「おーい! 君も、あれ、見に行くんだろ? 楽しみだね!」
また一台、車が私のそばを走り抜ける。
「そうよ! もう少ししたら、始まるわね!」
私は手を振って見送った。車を追うように、爽やかな風が大通りを駆け抜けた。
「ああ……ほんとにいい風……」
私は、幸せだ。人の命は短い。若い私もあっという間に歳を取るだろう。だから、この若い日々を悔いなく生きよう。誰に伝えるでもない、自分自身の生を、自分自身で楽しもう。
~~
「いらっしゃいませ」
店の中に入ると、コーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐる。
「海に行く前に、少し休もうと思って」
私はすっかり馴染みのマスターにコーヒーとサンドイッチを頼んだ。
「今日はいい天気になって、よかったですね」
「ええ。風も気持ちいいですよ。マスター、外に出ました?」
「いえ、そうですか。後で少し表に出てみましょう」
マスターは手際よくコーヒーを淹れると私の前に差し出した。いい香り。
「マスターは、見に行かないんですね」
「はい。私はここにいます」
私は窓の外を眺めた。喫茶店の大きな窓からは、日陰になった大通りと反対側に立ち並ぶ高いビルしか見えない。そんな殺風景な店だけど、私はここの雰囲気が好きだ。それに。
「ふふっ、おはよう」
静かにつぶやきながら手を振った。みんな、手を振り返してくれる。
私は道行く人々を見るのが大好き。誰も爽やかな風を体いっぱいに受けながら、気持ちよさそうに海に向かって歩いていた。
ここでぼーっと過ごすひと時は、私の宝物だ。私の時間は限られているけれど、これが無駄な時間だとは全く思わない。
「楽しんでくださいね。お嬢さんの時間を、めいっぱい」
初老のマスターの口癖。若い時にしか見えないものがあるのだと教えてくれた。私にはそれが何なのかわからない。でも、私は、そういうものを見逃さないほどに日々を謳歌する自信がある。ううん、私だけじゃない。最後の若い世代、私たちみんなだって。
~~
私は店を出ると、大通りを下っていき、ビル群を抜けた。途端にまぶしい光が私の体を照らす。
「始まってるよ」
誰かが私に言った。私は海の方を見つめた。
ばしゃばしゃ
「おおーっ」
皆が歓声を上げる。たくさんの水しぶきが上がり、跳ね上がる尾っぽが見えた。私は嬉しくなって、夢中で手を叩いた。
イルカだ。
滅亡を約束されている人間や他の生物と違い、彼らだけが繁殖を許された。なぜだかはわからない。私は思う。きっと彼らは選ばれたのだ。
それを知った私たちは、彼らにこの星を託すことにしたのだった。
彼ら以外の全ての動物が絶滅した後、彼らがどう生きていくのかを知る術はない。彼らは生きていけないかもしれない。でもね、そんなことは問題じゃない。親から子へ、命の受け渡しができる最後の生物である彼らに、一日でも長い繁栄を……。
「うわぁ、いいなぁ……いいなぁ……」
私は彼らがたくさんの群れを成して跳ね上がるさまを見ながら、知らず知らずのうちにつぶやいていた。それは周りのみんなも同じだ。
「あなたもね、あの子たちといっしょなのよ」
隣にいたお婆さんが、イルカを指さして、泣きながら私に言った。
「あなたも、若いあなたも……」
「はい」
私も泣いた。
イルカたちは、私たち大勢の人々が見守る中、いつまでも無邪気に水の上を跳ねていた。