おろかなこと。
――世話係兼教育係の男に書物を目の前に並べられた時、文字がほぼ日本語であることに、綾は驚愕した。
今までカヅチ達と話していた言葉もずっとそうだったと、その時に今更ながら気づいた綾は、そこで一縷の望みを持ってしまった。
もしかすると、まだ自分は日本に居るのではないかと。
ここは日本の奥地なのではないか。 獣人族といわれても綾はまだ誰かが変化するところを一度も見たことがない。 ちいさきものの声も聞いたことがない。 最初の白蛇は本当は夢だったのではないか。 皆で自分を騙しているのではないか。
愚かなことに、そんなことを考えたのだ。
だから、目を背けた。
攫われてきたならば当然あるべき施錠や見張りが全くついていないこと。
祖父母に持たされたGPS発信機能付きの腕時計が壊れた様子もないのに電波が全く立たないこと。
ちいさきもの達が、こちらの言葉が伝わっているとしか考えられない反応を返すこと。
教えられる獣人世界の歴史の整合性の高さ。 それらを記す沢山の書物の年代を重ねた古さ。 その他の異世界である事実を示す全てから、目を瞑ろうとした。
滑稽なことだ。 この屋敷の者は皆、人の姿をしていても蛇なのだから、誰かに目の前で蛇になってくれないかと頼みこめば、真実はすぐに明らかになることだった。
体皮の模様が見てみたいとでも言って、世話係の男に頼めば良かったのだ。
けれど、綾は頼まなかった。 頼めなかった。
カヅチたちの言葉が真実だと分かっていたからだ。
それを目にする勇気は先送りにしていた。 絶対などと思い知りたくなかった。
でも分かっていることから目を逸らすことも出来なかった。
だから、異世界で生きていくことに不安を持ち、懸命に歴史を学び、交流を持とうとし、二度と会えぬ者たちへの思いに涙が零れた。
己の思考回路の矛盾は自身が一番良く分かっていた。 ……それでも、もしかしたらと。
「本当に愚かですわ……」
それを今、決定的に覆せない事実を自ら見つけてしまった。 自分でその細いよすがを壊してしまった。
上がってきた道の方角へと目をやれば、赤や黄色の枝葉の合間から屋敷や隣りの館の屋根が見えた。 そこから更に山裾へは急勾配な崖となっていて平地は随分と遠くにある。
綾は後ろを振り返った。
自分のいる林檎園の更に先、尾根を辿って天頂までを見上げれば、雲海で見えずとも天を突くように切り立った山のその山間にいるのだと分かる。
眼下に見える“群れ”の建物以外に人の手や文明を感じさせるものは何も見えない。
まだ初秋の筈なのに、人の温もりのない場所は綾にひと際寒さを感じさせる。
綾は肩に羽織ったストールを首もとまで引き上げて巻き直すと顔を埋めた。
「……こんな場所は、日本どころか、きっと世界中どこを探してもありませんわ…」
屋敷を追い越してもまだ余裕のある丈高い巨木の群生するその隙間、半ば埋もれるようにして“白の群れ”はひっそりと存在していた。
人は矛盾した思いを抱えているもの。
…だと思います。それが受け入れがたいことならば尚更。
一日一投で連投第三弾。
おおお頑張ってる…!!(気のせい)
※12.11.19
ここまで、大幅改稿済み。