五話髪の匂い
屋敷中を案内してもらうのに1時間近くかかった。
食堂や大広間、書斎に図書室、音楽室まで。始終開いた口が塞がらなかった。
「屋敷の案内は終えたことだし、買い出しついでにご飯でも食べて帰る?」
「となると、バスで街まで降りないといけないけど大丈夫か?」
昨日熱中症になったことを持ち出すと、ちづるはバツの悪そうな顔をする。
「今度はちゃんと日傘をさすし、帽子も被るわよ……」
「ああ、そうしてくれ」
ばあちゃん家から5分くらいだからと油断したのだろう。
迎えにきてくれた時のちづるの格好ときたら、白いワンピース姿にスニーカーだけという、無課金装備状態だったからな。
ちづるの虚弱ぶりを知った今になると、なかなかの勇者ぶりだ。
「ほら、早く行かないと帰って来るのが遅くなるわ」
恥ずかしい話を早々に切り上げたいちづるが俺のことを急かしてくる。
「にしたって、ちづるがお洒落してるんだから俺も服を着替えないと」
「お洒落ってほどでもないでしょう。いつものワンピースにつば広帽子被っただけじゃない」
こんなことを言っているが、ちづるは美形なので何を着ても全身からお嬢さまオーラが滲み出すのだ。
俺がだらしない服を着ることで、彼女に恥なんてかいて欲しくない。
「ちょっとだけ待ってて!」
俺は急いで階段を駆け上り、自室へ向かう。後ろで「気にしなくてもいいのに」なんて呟きが聞こえて気がするけど、やっぱりそう言うところで妥協はしたくない。
自室の箪笥を開けて、ベージュのスラックス、白いポロシャツ、グレーの夏物カーディガンを取り出す。
全身鏡の前で急いで着ると、次は髪の毛を触った。
セットする時間は無い。とりあえず前髪を掻き上げて立ち上げた後、右目の上で分けておいた。
癖毛も相まってこれで多少はマシに見えるはずだ。
合計5分。待たせてしまったが怒ってはいないだろうか。
「待たせてごめん!」
階段から駆け降りると、ちづるがこちらを振り向く。その瞬間、心なしか彼女の目が輝いたように見えた。
「本当ごめん、どうしても着替えたくて」
「……なんだか慣れてるみたいで腹が立つわ」
「何に対して言ってるのか分からないけど、とりあえずごめんなさい」
「ふふっ、冗談よ。早く行きましょう」
ちづるが手を引いてくれて、屋敷を出る。
同じ轍を踏まないために、事前に飲み物を買ってからバス停に向かった。のだが……
「飲み物、もしかして入らない?」
「うん、ペットボトルが大きかったみたい」
ポーチにペットボトルが入らないか格闘しているが、このままでは革が伸びてしまいそうだ。
「じゃあ俺のバッグに入れておくよ」
「ありがとう。助かるわ」
飲料を受け取ると、自分のショルダーバッグに入れる。
「あれ、でも貴方と私のやつ同じじゃなかった?」
「あ」
……うっかりしていて、混ぜてしまった。
とりあえず両方を見比べてみるが、どちらも同じくらいの減り具合だ。
どうしたものか……
「別に気にしなくても良いわ。元とは言えばこんな小さなポーチを持ってきた私が悪いのだし」
「本当にいいのか?ちづるが嫌なら急いで買い直してくるぞ」
「この暑い中走るなんて正気?それに嫌じゃないって何度も言っているでしょう」
「……分かった。ならせめて、どっちのペットボトルを取るかはちづるが決めてくれ」
ちづるが譲る気がないようなので、二つのペットボトルを差し出す。
やけにじっくりと見つめたあと、ちづるは左のものを取った。
「たぶん、これが私のものだわ」
そう言って一口水を飲んだ。
「そうか、じゃあ今度は分かりやすいようにラベルを剥がしておくよ」
俺のはラベルが少し剥れかけていたので、それを完全に剥がしてしまう。
……
「図ったな?」
「うっかりしていた貴方が悪いのよ」
俺はラベル付近を触った覚えがないので、破れているのはおかしい。となれば、ちづるがやったものだ。
どこからが計算だったのだろう。
もしかしたら水を買うところまでイメージしていて、小さなポーチを持って来ていたのかもしれない。
「俺なんかとの間接キスで何が嬉しいのやら」
ご機嫌に水を飲んでいるちづるを横目で見て、そんなことを思った。
しばらくしてバスが来た。やはり街へ行くバスは比較的乗客が多い。それでも五人くらいだが。
俺が一番後ろの席に座ると、ちづるも隣にやってきた。
「他に席はたくさん空いているぞ?」
「貴方の隣が良かったのよ。それとも狭苦しい?」
「いや、いいよ」
そんな寂しそうな顔をされると俺には断れない。
……別に、嫌でもないのだけど。
バスの中から風景が変わって行く様を見ている。
舗装が甘いのもあり道がガタガタで、程よく揺られて眠たくなってくる。
そんな時、こつんと肩に触れるものがあった。隣を見るとちづるがコクリコクリと船を漕いでいる。
ぼーっとした様子の彼女の頭を肩に誘導してやると、しばらく良いポジションを探したのちに落ち着いて寝てしまった。
冷房の風が流れてちづるの髪の匂いがダイレクトに伝わってくる。甘いミルクのような香りに、ほんのり花と果実の混ざったような香り。
昔どこかで嗅いだことがあった気がする。
しかし、良い匂いと程よい人肌の暖かさに包まれて、思い出すことなく眠ってしまったのだった。
しばらくして、俺が軽く揺さぶられていることに気がついた。
「陸くん、陸くん。もうすぐ着くわよ?」
「あ……ちづる?」
「陸くんすぐに眠っちゃったんだから。私じゃ抱っこ出来ないんだから頑張って立ってよね」
俺がちづるを起こしてやるつもりでいたのに、いつのまにか逆になっていたらしい。恥ずかしいことだ。
徐々に目が覚めて来た俺は財布から小銭を出して、いつでも降りられるように準備をしておく。
「ありがとうございました」
俺たちは運転手さんにお礼を言ったあとバスを降りた。
「陸くん、完全に目が覚めたみたいね」
「ごめん。すごい熟睡しちゃった」
本当はちづるをゆっくり寝かせてあげるつもりだったのに、逆に俺の方が眠らされてしまった。起きたらちづるの小さな肩の上だ。恥ずかしくて、顔を見られない。
「すごく、すっきりした顔をしてるね。そんなに私の髪、良い匂いだった?」
「ど、どうしてそれを?」
「途中から髪の毛すごい嗅いでくるんだもの」
確かにウトウトしながら、髪の香りを堪能していたのは覚えている。しかし、それが直だとは思ってもいなかった。
「ご、ごめん……」
「いいわ。嗅いだことに関しては」
嗅いだことに関しては?俺は他にも何かやらかしているのだろうか。
そんなことを考えていると、ちづるが後ろ髪を少量手に取ると俺に見せてくる。
「このぬれた場所、見える?」
「まさか……」
「そのまさかよ。陸くん、女の子の髪の毛をしゃぶるのが好きなのね?」
人聞きの悪いことを言わないでくれ、と言いたいところだったが。客観的には何も間違っていない。俺は素直に謝った。
「ほ、本当にごめん……匂いを嗅ぐだけに飽き足らず、な、舐めるなんて真似……」
「舐めるどころか、口の中に入れてしゃぶっていたんだってば」
「すいませんでした……」
ちづるが妙な圧をみせているので、俺はひたすら謝ることしかできない。
こういう時は口答えすることなく、罰を粛々と受け入れるのみって、じいちゃんも言ってた。
「罰を与えるけど、良いわよね?」
「はい、仰せのままに」
「じゃあ、シラフで私の髪を嗅いでねぶりなさい」
「はい、仰せのままに……ってえ?」
罰を受け入れるマシーンとなっていたが、今とんでもないことを言わなかったか?
なにか、社会的に許されないことを強要されたような。
「あはっ、一度吐いた言葉は飲み込めないわよ?だから……」
ちづるは俺の襟を引っ張ると、顔を近づけて囁いた。
「あなたのだーいすきな髪を、しっかりねぶりなさい?」




