愚者と罪人に解放を
——起きて。
優しい声が、きこえる。
——起きて、おねがい
懐かしい、声。
大好きな、声。
あたたかくて、やさしくて、でも、泣きそうで。
——おねがい、……ちゃん。
深い水の底に、沈んでいるみたいだった。
薄くぼんやりとした光が、みえるような。
感じるだけのような。
手を伸ばしたいのに、指の先ひとつも動かなくて。
——おねがい、どうか、どうか、神様——
重く全身を包み込むものに抗って。
ああ、どうかこの優しい声の届くところへ。
どうか、どうか、かみさま――
睫毛が震えて、うすく目が開かれる。
ブルーグレイの瞳が、ぼんやりと白い雲を映す。
「ああ―――—」
空の青が、零れ落ちる柔らかな髪の茜色に遮られた。ブルーグレイの瞳を同じ色の目が覗き込んで、その眦からあふれた雫が頬に温かな温度を落とす。
見忘れるわけもない、大好きなひと。
「よか、った。本当に、起きてくれた……!」
ぎゅっと、半ば持ち上げられるようにして柔らかな胸に抱きこまれる。
あたたかなぬくもり。懐かしい香り。
「おかあ、さ――」
「おはよう、お兄ちゃん」
刹那。あたたかな温度を感じているままに、世界が凍り付いた。
「……………………は?」
そうだ。お母さん、こんなに若かったっけ?
お兄ちゃん? そう呼ぶ存在はこの世界に、たった一人。
でも、妹のシアは。まだたったの5歳の、はずだろ?
* * *
けたたましいアラート音と共に、無機質な床と壁に赤色灯の光が狂い踊る。散発的な銃声と悲鳴が、ロックしたドア越しにくぐもった音を響かせた。
スライド式のドアの真横に背中を張り付けた男は、緊急用の呼吸マスクを頭に引っ掛けながら皮肉げな表情で天井のライトの白く丸いフォルムを視線でなぞる。
(――ああ、くだらねぇ。くっだらねぇ人生だよ、全く)
使い捨て。そんな単語が頭をよぎる。
天の川銀河のほんの端っこ、太陽系という小さな星系で発生した人類という種が外星系に進出したのは遥かに過去の話だ。資源も土地も、広大な宇宙というフィールドにはいくらでもある。人間はいくらでも増えていい。増えすぎたなら、それらを開拓移民船に詰め込んであらたに土地を増やせばいいのだから。
独力では生きていけない愚者たちを詰め込んだ船が、新たに星を開拓できれば万々歳。出来なければ船ひとつぶんの経費が虚空へと消え、それでおしまい。
船に乗る人の命に値はつかない。かけがえがないからではなく、価値がないからだ。
靴の鋲が床を踏む耳障りな音が通り過ぎていくのを、じっと待つ。駆け抜けて行った音に肩の力を抜いたのも束の間、一人分の足音が引き返してくるのが聞こえた。猥雑な怒声と共に、閉じた扉が乱暴に叩きつけられる。
男は壁に背をつけたまま、狭い医務室の壁に据え付けられたキャビネットに手を伸ばした。ガラスのアンプルを取り出すと、ぱきんと首を折って中の透明な液体を細い注射器に吸い上げる。それを耳の横に構えて、そろりと開閉パネルに指を伸ばした。
叩きつける音に合わせて扉を開く。怒声に困惑の色をほんの一瞬混じらせながら、大柄な身体がたたらを踏んで部屋に踏み込んできた。宙賊が好むセパレートタイプの安価な耐圧アーマー。ヘルメットの下の僅かな隙間に、過たず注射器の針を滑り込ませる。
半スモークのバイザーの向こうで、ぐるんと瞳が瞼の裏へと回った。巨躯がどさりとリノリウムの床に倒れ込む。廊下にはみ出した脚を蹴り込んで、再び扉を閉めると男は冷ややかにそれを見下ろした。
人間の身体の事なら熟知している。人体実験は数え切れないほどやったし、違法義肢の扱いだって慣れたものだ。まあ結局それが何処かの誰かの不興を買って、罪人として流刑じみたこんな開拓船に乗せられる羽目になったのだが。
懲役50年。終わるころには腰の曲がった老人だと鼻で笑ったその刑期は、たったの2週間で最悪の終わり方を迎えようとしている。
冷たい視線が、スキャナーのように無駄なく倒れた巨躯をなぞった。ごついグローブが握ったままのハンドガンを、神経質そうな細さの指が引き剥がす。マガジンの残りは半分ほど。コッキングを確かめてからロックを掛けて、ベルトに挟み込む。大層ありがたいことに、巨漢の背中にはパルスライフルまでもが斜め掛けにされていた。遠慮なくこちらも剥ぎ取る。軽く構えて倒れた頭に狙いをつけると、ピピピ、と軽い音と共にトリガがロックされた。
「……チッ。こっちは生体認証付きか。一丁前のモンをお使いですね……っと」
舌打ちしてそれを放り出すのと同時に、どぉんと鈍い音がして船体が激しく揺れる。バランスを崩して床に倒れ込みそうになった瞬間、重力が消えた。ふわり、と身体が回転しながら浮かび上がる。
(——人工重力が逝ったか。ド素人のクソ宙賊どもが、雑な仕事しやがって)
目の前に浮いた巨躯を軽く蹴って壁へと手を伸ばす。マルチツールベルトに装着した命綱を引き出して、扉脇のフックポイントに引っ掛けてから、扉を開けて慎重に外を覗き込んだ。
赤い光がまだらに染め上げる床には銃痕が幾筋も残り、天井近くで束ねられていたケーブルは切れて無重力に踊りながら火花を散らしている。
鈍色の廊下をまだらの赤に染め上げているのは赤色灯の光だけではなかった。照明がほとんど破壊された薄暗い通路を、関節がおかしな方へ曲がった死体が漂う。それは切れた高圧ケーブルに触れるとびくんと奇妙にねじれて、半開きになった顎が引き攣るように数度開閉した。肉の焦げる嫌な匂いに鼻をくすぐられ、男はうんざりしたように口の端を下げる。
「無重力アスレチックか。こちとら、そういうアクティビティを楽しめる歳はとっくに過ぎてんだよ」
ツールベルトに引っ掛けてある小型磁性アンカーを取り外して両手に構えてから、フックポイントの命綱を外す。躍る高圧ケーブルに触れないように、両手の磁性アンカーを交互に床に貼り付けながら水槽の底を漂う水族館のエイよろしくそろそろと這い進んだ。
自分がお務めをしている医務室は生活区Eエリアの端だ。惑星降下のための降下開拓艇の並ぶ格納庫区は目と鼻の先にある。普段であれば忌々しいこの首輪が声高に主張する受刑者という身分のせいで決して入ることの出来ない区画だ。だがこれだけあちこち壊されているのなら、自由の扉だって開いている可能性がある。
ふたたび重く叩きつけるような響きとともに、船体が揺れた。床から突き上げられるような形になって、下半身が高圧ケーブルの方へとふわりと浮き上がる。海藻のようにゆらめくケーブルを何とか避けて、細い廊下から格納庫前に繋がる空間へと転がり出た。
めちゃめちゃに破壊された制御パネルの横で、煤けた鋼鉄がめくれ上がっている。薄っすらと火薬の香りが鼻をかすめた。お有難いことに相当派手にやってくれたらしい。ベルトに挟み込んだハンドガンの位置を確かめてから、そうっと中を覗き込む。その途端、焼け付くような熱気が顔と髪を嬲った。
「おいおい……冗談きっついぜ」
格納庫の中の降下艇はほとんどが破壊されている。赤とオレンジの炎が、自由の翼を求め飛び込んだ男を嘲笑うように格納庫のあちこちを舐め回していた。
うんざりと息を吐く。宙賊による民間船襲撃の、実によくある末路だった。生き残りは報復の種だ。奪い尽くして狩り殺し、逃げる足も与えはしないのが連中のセオリーだった。
現実の上に薄膜のように張った拡張視界が、酸素濃度の低下の警告を視界に張り付けた。マスクを引き下ろして壁を蹴る。どうにも仕事が雑な連中だ。小型機のひとつくらいなら動くものが残っているかもしれない。
熱気が肌を嬲る。先ほど寝かせたゴロツキから耐圧アーマーを引っ剥がしてくるんだった、と先に立たぬ後悔を頭を振り払って追い出した男の目に、火を吹く大型艇の陰に隠れるようにして残っている小型艇の姿が映る。
火勢に怯んでいる暇はなかった。迷わず飛び込む。歪みのない扉はすんなりと開いて男の身体を迎え入れた。貨物室以外は数人乗るのがやっとといった感じの小型船だ。操縦席に滑り込んで、メインシステムの起動を試みる。
拡張視界いっぱいに半透明のロゴが広がってからふっと掻き消え、シンプルなフォントのシステムメッセージが表示された。
——ようこそ、未登録ユーザー。アウターエッジ辺境惑星開拓機構はすべての開拓者を歓迎します。未登録の拡張脳を検出しました。操作説明書をインストールますか?
「インストール許可」
短くそう答えると、機構のロゴが小さく回転する下に進捗バーが現れる。男の口元に皮肉げな笑みが浮かんだ。首輪付きの罪人だろうとお構いなしにアクセス権は与えられているらしい。
新天地では全ての者に等しくチャンスが与えられる。事前ブリーフィングの場で、おそろしく質の良さそうなスーツに身を包んだアウターエッジ職員が、そう言って浮かべた薄ら笑いが頭をよぎった。
チャンスだとかやり直しだとかの希望に満ちた上っ面のお為ごかしを幾ら並べ立てたとて、やっている事は要は棄民だ。連中にとっては、穀潰しや犯罪者を宇宙の深淵に捨ててしまえさえすればそれでいい。犯罪者が新たな楽園を踏み躙る可能性など、考える価値もないと言わんばかりだ。移民船を乗っ取って引き返して来られても困るから"首輪"は付けるが、というのが透けて見えるのがまた腹立たしい。
どぉん、と再び振動が襲った。亀の歩みで進む進捗バーをじりじりとした気持ちで眺める。"インストール"が終わらないと船を起動できないというのは、どう考えてもクソ仕様だった。
「早くしてくれよ……こんなとこで蒸し焼きになるのはごめんだぞ」
眼前に浮かび上がるシンプルなフォントはそれに応えず、代わりに再びどぉんと音が鳴る。
男は眉をひそめた。またぞろ船内の何処かが爆発でもしたのだろうと思っていたが、どうも外から何かを打ち付けているようにも聞こえる。じっと息を潜めて後部ドアににじり寄り、耳をそばだてると微かな声が漏れ聞こえてきた。
『……! …………さい! ………い、……て!』
どうやら善良な生存者は自分だけではなかったらしい。男は軽く肩をすくめてドアに背を預けた。
幸い船に飛び込んだ後、扉にはロックを掛けてある。しようもない正義感を発揮して厄を呼び込む気は毛頭なかった。大変お気の毒なことではあるが、命の価値というものはまったくもって等価ではない。
念のためロックを確認しようと扉の横のパネルに触れる。淡く光る鍵マークが、くるりと回転しながら浮かんだ。さらに詳細を確認すべくその鍵に触れた瞬間、ガチャンと鳴ってはいけない音が鳴る。
「しまっ————」
クソUIが、と罵る暇もなく、呆気ないほど速やかに後部ドアが開いた。それと同時に箱状のものが機内に押し入ってきて、男の身体を狭いコクビットのシートの背に叩き付ける。
「お兄ちゃん!! 嘘、やだ、どうしよう大丈夫!?」
星が散り明滅する視界の中に鮮やかな紅い色の髪が翻り、慌てた様子の女の声が鼓膜を刺した。腹にのめり込んだ細長い棺桶のような機械を押しやりながら、男はあえぎあえぎに低く呻く。
「誰、だか知らんが、アンタに、お兄ちゃんとか呼ばれる、覚えは、ないんだが」
「え、あ、やだ先生!? ご、ごめんなさい」
「全く……なんなんだ……」
押しやった機械をちらりと眺める。
棺桶のように見えた長細い機械は、冷凍睡眠ポッドだった。単独動作モードを示すライトブルーのインジケーターライトが点いているところを見るに、作動中のようだ。さきほどの"お兄ちゃん"は、どうやらこの中身に向けられた呼称だったらしい。
押し出された冷凍睡眠ポッドを慣性で動き続けないように抑えながら、目を白黒させてポッドと男の間で視線を往復させている女に、軽く肩をすくめてみせる。
「悪いがこの機は予約済みでね。ほかを当たってくれ」
「無理です!」
呆れ混じりの要請には、悲鳴じみた拒絶が返った。夕陽の色に似た女の赤髪の向こうで、炎がさかまく。
「ポッドを抱えてこの火の海の中、ほかの機を探すなんて無理です! どうか、どうか乗せてください!」
「そう言われてもな。そもそもソレ載せるの無理だろがよ。貨物室の口は火の海だし」
狭いコックピットからはみ出している冷凍睡眠ポッドに向かって、男は呆れ顔で顎をしゃくった。
「む、向きとか頑張れば入るはずです!」
「やなこった。試行錯誤してるうちに焼き肉になっちまう。諦めな」
そう言って足でポッドを強く蹴り出した男を、ポッドを押さえながら赤髪の女はきっと睨みつけた。意を決したような表情になると、開口部の境界に何故か身体を仰向けにする。小型磁性アンカーが仕込まれているらしい両手のグローブが、ばちんと音を立てて開口部境界のアンカーレールに貼り付いた。
「……何してる?」
「先生が首を縦に振ってくださるまで私はここから動きません! 扉を閉められなければ発艦もできませんよね!?」
「あのな」
男は顔をしかめて床を蹴った。インストール進捗は70%だ。いつまでもこんな茶番に付き合ってなどいられなかった。無重力空間を滑るように移動して、女の額に賊から奪ったハンドガンの銃口を突き付ける。
「アンタの頭を吹き飛ばしてから、そいつを引っ剥がすのなんて簡単だが?」
ブルーグレーの瞳に一瞬揺らいだ恐怖を怒りと覚悟で上塗りして、女は銃口の先にある男の顔を睨みつけた。
「いいえ、無理です」
そういった女は、挑発するように引き攣った笑みを浮かべてみせる。
「私の磁性アンカーは、私の声紋でしかオフにできなくしてあります。ここで私を殺してしまえば磁性アンカーが邪魔になって気密が保てませんよ。先生、耐圧服は着ていらっしゃらないのでは?」
「…………クソ度胸かよ」
男はそう吐き捨てると、ハンドガンをベルトにねじ込み直した。さっきの賊から耐圧アーマーもいただいておくんだった、という後悔は先に立たない。
インストールは80%まで進んでいる。ここで時間も弾丸も無駄にするよりは、とりあえず要求を呑んだほうが話が早いと踏んだ。なんなら、後で眠った隙にでも宇宙に放り出してしまえばいい。
「わかった、ただし猶予は5分だ。5分でその棺桶をコックピットに詰められなかった場合は諦めろよ」
「……ありがとうございます!」
女はぴょこんとした動きで跳ね起きた。素早くグローブを脱ぎ、磁性アンカーだけはしっかりと開口部に残していくのが腹立たしい。
「どうするつもりなんだか」
まだ痛む腹をさすりつつ、そう吐き捨てて操縦席へと戻る。手伝ってくれないんですか、と言いたげな目は見なかったことにした。
「副操縦席の上にこう、乗せちゃおうかなって」
無重力に手伝わせて細腕で冷凍睡眠ポッドを持ち上げながら、女は事も無げに言う。男は顔をしかめた。狭っ苦しいこの機に、シートは二つしかない。
「それじゃアンタはどこに乗るんだ」
「あっ、私はもう、その辺の端っことかに縮こまらせてもらいますので」
「正気か? この先大気圏突入だぞ」
「はい? ええまぁ、だってそうしないとお兄ちゃん乗せられないので」
磁性アンカーとワイヤーでポッドを無理やりに固定しながら、女は当然のように頷いた。
理解できんな、と心の中で独りごちる。自分の命を危険に晒してまで誰かのために何かをする、というそれには一種の気持ち悪さすら覚えた。
「兄貴がそんなに大事かね」
「家族ですからね」
女が即答したのに合わせて、インストールの進捗が急に伸びた。残り5%。
間もなく発艦フェイズに移行可能です、のシステムメッセージの提示とともに、メインシステムが航路計算を始める。どうやらこの機でも到達可能な程度の近距離に、着陸可能な星があるようだった。
女はまだワイヤーを締めている。うんざりと溜息をこぼすと、細い肩がびくりと震えた。
「その……ご迷惑をおかけしてすみません、先生」
「そう思うなら諦めて降りてくれるのが一番助かるんだがね」
「それは……ごめんなさい。もう済むので」
「そうかい。棺桶を固定し終えたんなら、後ろを閉められるようにしてくれ」
棺桶、という単語に表情をピリッと引き攣らせながらも、女は何も言わずに後部ドアへと身を翻した。その動きとほぼ同時にインストールバーがすべて満たされ、知らないのに理解できるUI群が視界の左右に広がる。拡張脳に操縦を割り当てながら、男は後ろに向かって怒鳴った。
「もう待てねぇぞ、ドア閉めたら出るからな!!」
「構いません!」
またもやの即答と共に赤く染まっていた後部ドアの項目が緑に変わり、ステータスが発艦可に切り替わった。男は口元に薄い笑みを刷く。
「……クソ度胸だな」
――発艦フェイズ開始。各員、衝撃に備えてください。
ガクン、と機体が揺れた。沈み込むようにして降下艇を固定している床ごと射出口へと降りていく。
女が泳ぐような格好で操縦席近くまで戻ってくると、副操縦士席のすぐ側にうずくまった。磁性アンカーが床に貼り付く音と同時に、凄まじい加速度が二人を襲う。
「う……ぐ……!」
貧弱なエンジンしか積んでいない安物の降下艇を宇宙に射出する際は、強めの初速を与えるのがセオリーだ。そんな事は当たり前に知っていたはずなのに、すっかり忘れていた。開拓民や宙賊が身に纏う、ごてごてとした不格好なスーツは必要だから着られているのだ。
例の破落戸から耐圧アーマーをいただいておくんだった、と二度目の反省をしている間に身体と速度が馴染んでくる。軽くなったまぶたを乱暴にこすると、ぼやけた視界がクリアになった。ちらりと副操縦士席の方に目をやると、女は両手足の磁性アンカーを床に貼り付けたまま中途半端に浮かんで白目を剥いている。
いっそ今のうちに外へ放り出してやろうかと、わりと本気でシートベルトに手を掛けたのと同時に、拡張視界が真っ赤な警告ラインで縁取られた。明滅する枠の中に、ロックオン警告が煌々と輝く。
「…………クソが! 殲滅だけはご丁寧ってか!」
操縦に割り当てた拡張脳がチャフを放出するのと同時に舵を切る。白い曳光が機体をかすめて前方に消えていった。
男はロックオン警告の向こうに透かし見える、オレンジ色の降下軌道ガイドのラインを睨みつけた。自動操縦は安全な角度で降りようとしている。
(――安物のポンコツAIが! 降下角度に入り切る前に墜とされてみろ、干乾びるまで深宇宙を彷徨う羽目になるんだぞ!)
声に出さずについた悪態に拡張脳が冷静に応える。無理な入射角で降りればそれはそれで墜ちるリスクが高いぞ、と。
男は舌打ちを漏らした。常時同期している自身の人格データをベースに、演算チップで性能を拡張している拡張脳が言いたいことは、それが自分であるがゆえに腹立たしいほどに理解できてしまう。
「分かってンだよそんなことは! それでもゼロか0.1なら0.1しか選択肢はねぇだろがよ!!」
そう怒鳴りつけると同時に、再びロックオン警告が拡張視界に貼り付く。脳に直接突き刺さるような不快な警告音が機内を満たした。
「う……あぁ……」
悲鳴じみた電子音の合間に、女のうめき声がかすかに混じる。
「おはよう役立たず! もう少し寝てたほうがたぶん幸せだったぞ!」
やけくそ気味の厭味だけを投げつけた瞬間、身体が強くシートに押し付けられた。オレンジ色の降下軌道ガイドから現在値を示す白点が逸れ始め、ロックオン警告に重ねて表示された突入角危険警告で視界がやかましいことこの上ない。白い曳光が再び前方に落ちていくのが見えた次の瞬間、突き上げるような衝撃が機体を襲った。
「……クソッ、喰らったか!!」
気密が破れたと拡張視界の表示が喚き立てる。窓の外枠に赤いプラズマ光がまとわりつき始め、温度の警告までもが重なった。
「うるっ……せぇな!! リペアメックも、積んでないボロ、船のメインシステムの、くせに修理のっ、要求だけはいっちょ前か、あぁ!?」
「せん……せ、わたし、が」
加速度に肺を潰されながら無意味な怒りをぶちまけていたその声に、絶え絶えな女の声が応えた。
「……あ?」
視界の端に見えていた女のシルエットが、ふっと消える。一拍置いて、後頭部の向こうから磁性アンカーが貼り付くがちんと言う音と共に、くぐもったうめき声が聞こえた。
「死んだか?」
「だ、大丈夫、です、ちょっと肩が、外れたっ、ぐっ、だけで……、このへんに補修剤を積んで、あるは、ず……」
「クソ度胸っ、かよ……」
こっちは大気圏突入の強い加速度に潰されてシートに押し付けられた頭さえ動かせない状態なのに、と呆れ混じりの視線だけを向けようとするが当然のように何も見えない。だが三度ロックオンアラートが鳴り響くと同時に、気密アラートがふっつりと消えた。
「緊急用の、発泡補修材でっ、気密だけは、なんと、か――」
そこまで言った女の声が途切れる。ひどく振動する機体の軋みと狂ったような突入角警告音の合間に、ごつごつと何か硬いものがぶつかり続けている音が小さく混ざった。また気絶したのかもしれない。
「く……そ……っっ!」
ロックオンを振り払いたいが、メインシステムが無茶だと喚き散らす軌道で無茶苦茶な降下をさせられている機体は全く言うことを聞かなかった。苦し紛れのチャフで一発は凌いだが、次はもうない。無茶な突入角なら向こうも付いてこれない事をほんの少し期待していたのだが、どうやらそれも望み薄のようだった。
フロントウィンドウ越しの視界が白濁する。雲に突っ込んだようだ。狂ったように鳴っている警告音が、いつの間にか突入角のそれから墜落警告に切り替わっている事に気付く。
拡張脳がご丁寧に現在の速度と生存確率を計算して寄越した。死にてぇのか、と怒鳴りつけて着陸プランを立てさせる。雲が切れなければ無理だ、との呑気な応答に歯噛みした次の瞬間雲が晴れ、そして間髪入れずにひどい衝撃が機体と脳を揺さぶって、何もかもがブラックアウトした。
前作を読んで下さった皆様、お久しぶりです。
初めましての皆様、初めまして。新井です。
本日より開始した本作は、SFホラーファンタジーです。
例によってかなり読む方を選ぶ内容になっていますが、前作を楽しんで頂けた方にはきっと楽しんで頂けるのではないかと思っています。
今作も愛と狂気と性癖をたっぷり詰めてお届けします。
お楽しみいただけましたら幸いです!




