絶望の弦鐘
考えれば簡単なことだったのだ。
全身が火薬で構成され、身体を吹き飛ばしても残った火薬から再生されてし
まう。そんな敵をどう倒せばいいのか。
答えはいたって簡単シンプル。
「そうよ・・・・火薬なんて残さなければいいのよっ」
一切の火薬の欠片も残さずに消し去ってしまえばいい。
できるかできないか、など問題ではない。やるしかないのだ。
やらなければやられるのが戦いというもの。
「恐怖なんて感じない・・・・私が退けば、何人も殺されるっ!」
自分も巻き込まれることを覚悟して断弦を伸ばす。現本人の意思では屈折
させられない弦はまっすぐ伸び化け物を貫かんとする。
――シィイイィイィィィッ!
自分に物理攻撃は効かないと回避行動すら取らない。では、最初石を投げ
つけた時に回避行動を取ったのは何故だ?
もしかしたら全身が火薬で構成されている事実を隠しておきたかったのか
もしれない。爆散するというのは想像以上に不快なのかもしれない。
回避行動を取らないということは現を脅威と認めていないということ。彼
女の攻撃など、回避する必要性すら感じないということだ。
それが現は許せない。
脅威と認識させなければ、彼女に勝ち目はないからだ。
左腕が弦を掻き鳴らす。発生した大音量は弦を伝い震わせ、ヴァイブレー
ションカッターへと変貌させる。
生じた音が衝撃波として黒色火薬を破裂させる。先ほどと大して変わらな
い規模の大爆発が起き、吹き飛びそうになった身体を支えるために地面と周
囲の建物へと弦を伸ばす。突き立った弦はお世辞にも丈夫とはいえない。け
れども人が乗っても大丈夫なほどの硬度と耐久性はある。小柄な彼女の身体
が飛ばされないようにするには十分だった。
――シィシィイイィッ!
即座に空気中に残った火薬が分裂を開始して元の、巨大な竜の姿を形作る。
嘲笑うような鳴き声が癪に障る。
(私にできることは・・・・一体何?)
音による攻撃が通用しない相手。そんな相性最悪な敵を前にして、現が護
るためにできることはなんだろうか。そんなことを考えながらまた弦を伸ば
していく。そして、また爆発。
もう爆発の範囲に原型を留めているものは残っていなかった。
そしてまた爆発。爆発。爆発。
「不毛・・・・ね」
いくら爆破しようが例え欠片でも残ってしまっていれば再生されてしまう。
こんな不毛なことを繰り返していては、それこそこの戦場が不毛の地になっ
てしまう。
未だ兆候は無いにしても、現の生命力だっていつ枯渇するかわかったもの
ではないのだ。こんなことで無駄遣いするわけにはいかない。
(なら・・・何をすればいいの? 何をすれば、切り抜けられる・・・?)
跳ね橋はまだ降りきっていない。ようやっと半分程度だ。
あの橋が降りないことには小奈たちを逃がしてやることもできない。で
は、自分が今できる――――やるべきことは・・・・。
「音無隊長・・・・上ですッ!」
「――――・・・・っ!」
竜が尻尾を振り上げていた。小柄な奏者目掛けて叩きつけられた尻尾には
鈍器のような突起が付属している。それが地面を砕き、危うく現まで砕いて
しまうところだった。
小さな身体など紙切れのように宙を舞う。五m以上も転がってようやく止
まることができた。
身体の至る場所に擦り傷を、切り傷を、熱傷を刻んで立つ現に、ようやく
自分がやるべきことが見えた。
無闇に爆発させることでも、小奈たちをここで護るわけでも、ましてやこ
の化け物を倒すことでもない。
ただ、小奈たちをこのデルタセントラルシティから脱出させることだ。
「捨て鉢の時間稼ぎ・・・・・かしら」
跳ね橋が架かるまで、約五分。
明らかに擦り傷でも切り傷でも熱傷でも、そこまでの出血は無いだろうと
いうほどの血をポタポタと滴らせ、小柄な女性は懲りず弦を伸ばしていく。
だが、それは攻撃のためではない。細い幾本もの弦で身体を貫通させ、動
きを封じるための弦。
貫通させる際に衝撃を与えすぎないよう高速に、慎重に火薬同士の間を縫
うようにして貫通させる。果たして意味があるのか。もし無意味なようなら
また爆発させるしか手は無くなる。
不毛だと分かり、自分のやるべきことと目的がはっきりした今でも一番有
効な手段はやはり爆散させて再生までの時間、動きを完全に奪うことだ。そ
れが一番確実で安定している。
その分、周囲に与える被害も現自身が被るダメージも半端じゃないが。
かなりの出血をしている現を見、小奈が建物の中から出てこようとする。
現はそれを手で制した。
「来てはダメよ・・・・私の努力を無碍にするつもり?」
ここで小奈が戦場に出てきてしまえば、全てが台無しになる。今の現は自分
の身を護りながら戦うのが精一杯だ。小奈を守護しながら戦えば、死は免れな
いだろう。
そして、現は戦闘経験のある人物だとしても、現より劣っていれば戦場に出
てくることを許さない。
そもそも、やるべきことを見出した彼女がここで信念を曲げる意味がない。
奴を―――目の前の化け物に移動を許さず、現を脅威と感じ取るまで。何を
してでも注意を向けさせる。跳ね橋が降りきったとしても小奈たちを対岸まで
移動させなければ意味がないのだ。
それだけの時間を稼げばいい。
戦場において五分など、あって無いような時間だ。事実、もう五分も無いだ
ろう。
敵を爆散させる。間を置かず再度弦を振動させて空気中に漂っている火薬も
爆発させる。これで絶命してくれれば問題は無いのだが・・・・。
「そう簡単にはいかない・・・か」
一体どこに潜んでいたのか、どこからともなく現れた火薬が分裂を始めてま
た数を増やしていく。撃破・再生の無限ループ。しかし、今はこんな終わりの
無いループでも大切な時間を稼ぐのに必要なもの。
跳ね橋を見る。あと二分程度で橋は架かるだろう。現は戦闘中に余所見をす
る危険を犯し、小奈のほうを向いた。
「小奈っ! 全員引き連れて橋を渡りなさいっ! 今から走ればちょうど架か
る頃に辿り着けるはずよ」
視界外から吹き付ける火薬の風から逃れつつ、視線を戻す。黒色火薬で身体
を構成した黒い竜の姿を見て、現は息を呑む。
黒い竜は分裂していた。その身体の大きさを半分にして、二つ目の身体を生
み出していた。
「分裂・・・・・っ!」
小奈が構えを取る。分裂した片方が小奈へ向けて移動し始めたからだ。
「戦ってはダメよ。攻撃すれば爆発するわ!」
今までの戦闘を見ていたのか、構えを取りはするものの攻撃に出る気配は無
い。しかし化け物にそんな都合は関係ない。
――シィイイイィッィイイッ!
あたり一面に火薬を撒き散らす。今起爆させられたら小奈たちなど一撃で粉
微塵に吹き飛ばされてしまう。
当然、現も足止めのために起爆するわけにはいかなかった。
幾本もの弦を左手から伸ばして小奈と化け物その二の間に割り込ませる。そ
れを壁として小奈を化け物の視界から外したのだ。
「早く走ってッ! もう橋が降りるわ」
跳ね橋は今まさに架かろうとしていた。小奈は弦が化け物の視界を塞いでく
れている間に全速力で走り出す。そのあとを四人が追従していく。
――シィイイィッ!
攻撃するタイミングを逸してため怒りを露わにし現へ向かってくる分身体。
そのまま二体は併合してもとの巨大な一体の竜の姿へと戻った。
彼女にとっては好都合。だが、小奈たちはまだ橋を渡り始めた段階。彼女ら
が対岸へ・・・・せめて半分以上渡るまで戦闘は避けたいところだ。
しかしやはり、化け物にそんな都合は関係ない。
隙を見たり、と跳ね橋へ向かって移動を始めた。それも、かなりのスピード
で空を飛びながら。
このままでは瞬きをする間に追いつかれてしまう。そう思った現は伸ばして
い弦を更に伸ばして格子状に張り、エクスクレセンスの行く手を塞ぐ。
エクスクレセンスを飛び越えるように移動して上空から格子状に伸ばした弦
へ化け物は突っ込んでいく。かなりのスピードで移動していたのだから、目の
前に障害物が現れたとして止まれるはずもない。身体が細かい黒色火薬で構成
されているエクスクレセンスは碁盤の目よりも隙間無く張り巡らされた弦に突
っ込みバラバラに解体されてしまった。
――シィイイイィイィイッ!
獲物を追いかけることを邪魔された化け物が跳ね橋を背にして立ち塞がる現
を見据える。目さえも黒色火薬で作られてしまっているため本当に見据えてい
るのか判断がつかないが移動を止めたということは目の前の現を認識している
のだろう。
そして何の前触れも無く、尻尾をしならせ現の背後にある跳ね橋へ叩き降ろ
した。
アスファルトの地面を深く抉る尻尾。跳ね橋など、いとも容易く砕け散る。
「きゃ―――――ッ」
足元が崩れ始め、現があげた悲鳴は途中から痛みの悲鳴へ変貌する。殆どの
破片が橋下の川へ落下していく中、いくつかの破片が現へ飛来、背後と側面か
ら直撃したのだ。
「ぎ・・・あぁ・・ああああああッ!」
本来なら女性があげるべきではない類の悲鳴を上げ、右腕で左腕を押さえる。
飛来した破片はそこまで巨大ではなかった。だが、破壊の際の力が加わった
せいで予想以上の速度を持って拳大のコンクリート片が左腕と肋骨をへし折り、
それ以下の小粒の破片が背中にある傷を打った。
腕は完膚なきまでに骨折し肋骨は少し肺に刺さっているだろうか、息を吸う
だけで突き刺すような痛みが走る。背は傷口が広がってしまったのかダクダク
と血液が流れ出していた。
暁が彼女に施した包帯も血に塗れ、瓦礫のせいで無惨に千切れている。現の
服も背中側が破れていた。
「―――――――っ! ――――――ッ!」
崩された跳ね橋の向こう側で無事に渡りきった小奈が何か叫んでいる。だが
現には聞こえない。何かを叫んでいるのは分かるのだが、声が届いていないの
だ。
「ああああああッ!? ぎ・・・ギギ・・・ぐああああッ」
肉体的激痛に苛まれる現を更なる激痛が襲う。それは精神を削るような激痛。
DUが死人を侵食するときの痛みだ。
元より大怪我をし、骨折し肺に骨が刺さり傷口は広がり、果てに大量の血液
を流してしまった現の命は、限界に近い。
自分が奪い取れず生命力が流れ出てしまうことを恐れたDUが一挙に侵食し
てきたのだ。少しでも多くの生命力を奪い取るために。
痛みに耐え、それでもまだ起き上がれない現は自分の命が、生命力が残り少
ないことを知る。うっすらと目を開けたその先には苦痛に苦しむ現を眺める化
け物がいた。
ふと、彼女は思う。ここで自分が死んだらこの化け物はどうするだろう、と。
おそらく、別の獲物を探して放浪するだろう。そして狙われるとしたら、今
逃げたばかりの小奈たち。まだ対岸にいる少女たちをねらうだろう。
今はまだ、大丈夫だ。散々狩りの邪魔をした現へ怒りの矛先が向いている。
だが、それがいなくなったらその矛先はお預けを喰らっていた獲物へと―――
簡単に捕食できる小奈たちへと向くだろう。
そうなれば、せっかくシティの外へ脱出させてやれたというのに、死んでし
まう。
「・・・ゆるせ・・・るわけ―――――ないじゃない」
そう。そんな結末は許せない。力の無い、無力なものを容赦なく蹂躙する
存在を現は許さない。力があり、そんな結末を招いてしまう自分が、もっと
許せない。
無力に嘆き、無力であるが故に生き残り、力有っても弱者と定められた者
たちが死んでいく様をただ眺めていることしかできなかった。そんな光景を
二度も許したら、彼女は崩壊する。しかも二度目の今は、彼女は力を持って
いる。他者の追随を許さないほどの圧倒的な力を。
そのために、一度目以上に許せない。
弱者を蹂躙する強者こそが、真の弱者である。
そしてその弱者を更なる力で蹂躙する自らもまた、弱者である。
「そんなこと―――――分かっているわ・・・・」
不意に頭の中に響く声。何者かもしれない声は脳内に直接響き、否応無しに
聞かせてくる。
自らを弱者よりも弱者と認め、それでいて執行するか。
ならば汝の正義は何処に存在する。
「正義なんて・・・・・そんなご大層なもの掲げていないわ」
立ち上がる。その手にDUは無く、真っ赤な血に濡れた白い手があるだけだ。
「私がしていることは・・・・贖罪。あの時護れなかった代わりにもっと沢山
護って、あの人たちに贖おうとしているだけ」
そんな気持ちに正義など存在しない。ただの自己満足。自分を慰めるためだ
けに、自分の罪意識を払拭するためだけに行っていること。
他人のためではなく、自分のため。
だからこそ人は必死になれる。音無現が力無き者を護ることに必死になれる
もの結局、自分のためだからだ。
偽善と、欺瞞と知りながらも目指すか。
ならば汝の行き着く先には何がある。
「何も無いわ・・・・。ただ、終わらない贖罪に身を委ね続けるだけよ。さし
あたっては、この化け物を何とかしたいわね」
汝が答え、気に入った。
消えぬ罪を消そうと足掻くその醜き姿、気に入った。
「そう・・・・嬉しい限りね」
その信念に敬意を払おう。
我が願うは他者の苦しみ。
「ずいぶんな悪趣味ね」
もし力を得ることで汝が苦しむなら。
もし力を得ることで、強大な力を持ちながら消えない罪に苦しむというなら。
力を与えてやろうではないか。
現の頭へと何かが流れ込んでくる。その声の主が何者なのかも知らない現は
驚き、瞬間的に流れ込む情報の内容を理解する。
それは、彼女に宿るDEATH UNIT・舌斬雀の定義。何が出来て何が出来な
いのか。DUを扱う上で、これだけは遵守しなければならない舌斬雀だけのル
ールブック。
波風荒立たせ、弦より支配せよ。
その手に在るは波状の操弦。
その操弦を以って。
苦しむがいい。
しっかりと地を踏みしめ、動く右腕だけを前へ・・・エクスクレセンスへ向
ける。ゆっくりと黒い弦が手を囲み、いつもの黒い手袋を編み上げる。
地面に赤い水溜りが出来始める。もう、時間は無い。
「音無く囀れ――――――」
右腕のみ。左腕は機能せず、いつもの半分近い戦力だというのに、その手か
ら吐き出された弦の数は今までの数倍。それは遠くまで伸び、下手をしたら億
の単位まで届こうかという黒弦はそれぞれが建物や地面に刺さって止まる。
まるで黒いトンネル。現の手首より先だけを中に収め出口の一切無いないト
ンネル。一見すればメガホンにも見えるかもしれない。
「舌斬雀――――――ッ!」
自らの力の名を叫ぶ。頭の中の声が正しいなら、自分を更なる弱者へと貶め
る狂気の力。その声に呼応するかのようにしてエクスクレセンスを取り込んだ
黒弦から化け物のいない外側へ向かって衝撃波が吹き荒れた。
内側へは一切の衝撃も光も通さず黒弦の中へ取り込み損ねた火薬だけを残さ
ず炸裂させていく。当然爆風が吹き荒れたがそんなことを気にしている状況で
はない。そもそも、もう慣れてしまった。
「ようやく・・・・・捕まえたわ」
今の衝撃波の影響を受けなかった火薬があるとは思えない。よほど遠くへ
撒かれていなければ衝撃波で根こそぎ爆破したはずだ。
残りは本体。この絶炎の弦鐘の内側に閉じ込められた化け物だけだ。
「これで・・・・今の力があれば・・・・」
意識が薄れていく。血が足りない。弦で体勢を保ちつつ宙に浮いているが
それもいつまでか。意識が切れる前にせめて―――――。
「こいつを倒せるのでしょう・・・・?」
汝が苦悩に堕ち、自らを自らが嫌う弱者へと貶めるのなら。
その限り我は力を与え続けよう。
「確かに苦しむでしょうね・・・・決して消えない“見殺しの罪”。自分を
慰めるためだけの“人助け”。力で弱者を踏み躙る・・・・自分のしている
ことが“奴等”と一緒だと知っていて、それでも止められず苦しむでしょ
うね」
ならば我は力を与えよう。
我が力の“本質”を垣間見るがいい。
絶炎の弦鐘。頭の中の声が言う力の“本質”とやらを垣間見た時、この力
の本来の使い方を知った。
その時に即興で名づけた技名。ただ音をぶつけて爆発させるだけでは不十
分。爆発すれば黒弦の檻も壊れてしまうし、そのときに火薬が残っていたら
どうしようもない。同じことをもう一度――――それだけの体力も生命力も
彼女には残っていない。
これが最後の一撃となる。
「さぁ――――音に抱かれなさい」
左腕で右手の甲の弦を掻き鳴らす・・・ことはできない。折れた腕では動
かすことさえできない。
だというのに音は鳴り響く。弦は勝手に弾かれ音を奏でている。
ゆっくりと奏でられた音は衝撃波を生み出さず空気を震わせる。衝撃を生
まない音は弦の中で跳ね返り、そして変化を齎す。
――シィイイッ?
変化に気づいたエクスクレセンス。だが、こいつは犯してはいけない間違
いを犯していた。
それは、こうして黒弦に捕らわれてしまった今でも現を脅威と認識してい
なかったことだ。
もし脅威と認識できていたのならこんな致命的な遅れは取らなかっただろ
う。変化が訪れて、それが自分にとって致命的な変化だと気づいたときには
もう手遅れだ。
――シィイイッィィィィッ!
暴れて黒弦の檻を破壊しようとするが、その動きはすぐに止まる。
―――熱いのだ。
黒弦の檻の中が、炎で炙られているかのようにその温度を上げていくのだ。
鳴り響く音は反響して外へ音を逃がさない。現からは、中で反響している
音が聞こえない。感じるのは中へ突っ込んでいる右手から伝わってくる内部
の熱だけだ。
絶炎の弦鐘の中は今、熱せられた釜のように、中にあるものを蒸すように
その温度を上げていく。
「火薬の発火点って何度だったかしら・・・・?」
舌斬雀とは現が名づけた名だ。本当の名は“波状の操弦”。
現が垣間見たその“本質”は音を操ることなどではなかった。
操るのは――――波。
世界に無数に存在する“波”を自在に操ってみせるのだ。
それは例えば“音”という波であったり、例えば大海原を総べる荒波であ
ったり、例えば今、エクスクレセンスを苦しめている“マイクロ波”である。
現は黒弦の檻の中を電子レンジにしている真っ最中なのだ。
今はもう、百度などとっくに越えている。
――シィイイイイイイィイッ!
死へと追いやる熱波に恐れ、脱出を試みる。振り回された尻尾は黒弦の檻
をいとも容易く破壊した・・・・・。
のだが、破壊され外界と繋がった場所は瞬く間に塞がれる。硬化していた
ために折れやすかった弦は確かに砕かれた。だがその穴を埋めるように新た
な弦が穴を覆ったのだ。
――シィイッ!
抜け出せない――――その事実を認めたくない化け物が鈍器の付いた尻尾
を振り乱し幾つもの穴を穿っていく。だが、その全てが一秒も間を置かず埋
められしまう。
脱出するには自分の身体を起爆させるしかなかった。
「起爆なんてできないでしょう・・・・?」
この檻の中でどれほど距離を取って起爆しようとも無駄だ。黒弦は音を反
響させるように作られている。爆発したとき檻は吹き飛んでも必ず吹き飛ば
ない部分もあるのだ。爆音はそこに反響し、復活用に残しておいた火薬さえ
も炸裂させる。
つまり、脱出させるために自身を起爆するということは、即ち、自身の消
滅を意味する。
――シィ・・・・イイイイィィイッ!
その事実を目の当たりにし、絶望した化け物の絶叫は決して檻を抜けるこ
とはない。ただ己の叫びが反響し、自らの死を早めるだけだ。
徐々に、徐々に温度は上がっていく。最後まで現を『敵』と認めなかった
愚行を後悔させるように、改めて彼女を脅威と認める時間を与えるように、
恐怖に震える苦痛の時間を刷り込むように、徐々に、徐々に上がっていく。
そして、とうとう黒色火薬の発火温度に達した。
――シィイイイイイイギギギギッ・・・・!
外へは届かない叫びを上げ、自分の身体が膨張していく様を感じ取り、そ
して弾け飛ぶ。
暖かい――――というよりも熱い風が檻の中へ突っ込まれたままの右手を
撫でる。一切の硝煙の煙さえも漏れない黒弦の檻を―――解く。
むせ返るほど濃い硝煙の臭いが開放される。敵の生死を確認するために目
を凝らすが、煙に阻まれて良く見えない。安心できないとその場に留まって
見ても、やはり見えなかった。
不意に、平衡感覚が無くなる。能力を制御できなくなり支えが消失、落下
する。息苦しさが次第に呼吸不能に陥る。さっきまで感じていた強烈な硝煙
の臭いさえ感じ取れなくなっていた。
そして博識な現はこの状況と症状に、覚えがあった。
「シトクロムcオキシダーゼ阻害作用・・・・迂闊・・・・」
シトクロムcオキシダーゼ阻害作用。
急性硫化水素中毒時に起きる呼吸障害。硫化水素内に含まれる毒素によって
肺の酸素分圧が低下、呼吸中枢が活動できなくなり結果昏倒する。
黒色火薬の主成分には硫黄が含まれている。それが爆発時に酸素と反応、結
果硫化水素ガスが生まれる。硝煙の臭いとは、この硫化水素の臭いなのだ。
命が残り少ないという事実に、最後の攻撃で倒しきれてなかったら、という
妄想に焦り敵の生死確認に固執しすぎたのが仇になった。すぐにその場から離
れれば硝煙を吸いはしなかった。失血が判断能力を損なわせていたのか・・・。
しかし、もう遅い。早急に対処しなければ呼吸困難に陥って死ぬ。だが、こ
んな場所、状況で助けてくれる人間などいやしない。
その前に落下の衝撃で死ぬかもしれない。どの道、明るい未来は無い。
死を覚悟し、落下に身を任せる―――――。
「音無隊長――――ッ!」
ドサッ。
地面に叩きつけられたにしてはあまりに軽く柔らかい衝撃だ。直前に聞こえ
た声でそれが戸塚小奈に受け止められたのだと、現はすぐに気づくことができ
た。
「ダメ・・・・じゃないの――――逃げなさいって・・・・あれほど―――」
あの化け物は死んでいないかもしれない。そんな危険がある戦場に護るべき
対象の小奈が来ることを現は拒んだ。
決して消えない“見殺しの罪”。自分を慰めるためだけの“人助け”。消えな
いと知り、自分から全てを奪っていった連中と同じ場所まで堕ちていっている
と自覚しながら、それでもやっぱり、贖罪したかった。
そんな音無現は、最後まで音無現だった。
「音無隊長――――ッ!」
ドサッ。
何とか間に合うことができた。彼女が落ちるのを確認してから能力を発動し
て対岸まで約百m近く、飛び越えた。そして地面に叩きつけられる前に彼女を
キャッチすることができた。
ようやく、まともに役立てた。だというのに――――。
「ダメ・・・・じゃないの――――逃げなさいって・・・・あれほど―――」
彼女はそんなことを言うのだ。
そこまで自己犠牲をすれば気が済むのだろう。こんな、死にかけの状態にな
ってまで、やっぱり彼女は他人の心配をするのだ。
「そんなこと言ってる場合じゃありませ―――――」
そこまで言って、はたと気づく。
音無現はすでに虫の息だったのだ。
「早く病院――――」
こんな状況下で、受け入れてくれる病院があるのだろうか。
それも、世界が恐怖に満ちる原因となっている死人である彼女を。
そんな場所はありはしない。火を見るよりも明らかな事実だった。
「・・・・ッ!」
命を救ってくれた恩人を助けてあげられないことが悔しい。もし医療の心得
があれば――――。
そんなことを考えているうちにも彼女は命を失っていく。いや、もう失って
いるかもしれない。
そんな時、不意に雪が降る。
灰色の雪が、優しく包み込む。
咄嗟に飛び退く。今まで立っていた場所には大きな灰色の氷柱が出来上がっ
ていた。
「攻撃・・・・」
そう思う。例えどんな意図があろうと、これは攻撃にしか思えなかった。
なるべく現に衝撃を伝えないように再び対岸へ飛び移る。しかし、まるで
先を読んでいたかのように着地地点には雪が降っていた。
「あなたたち、逃げなさ―――――」
帰りを待っていた四人へと避難を促している最中、その言葉は途切れた。
巨大な灰色の氷柱が――――その場には聳えていた。
切る場所が見当たらず全文投稿に・・・・・。
今回もDUの”本質”が出ました。舌斬雀の本来の名前は”波状の操弦”だったのですね。聞こえてきた声は、例によってDUの声です。
次回は久しぶりにあの人が登場します。また次回~。