今、俺にできること
「―――あなたはボクを斬れますか?」
圧砕重剣の刃がアッシュの首に届く寸前――いや、届いている。首の
皮膚を切り裂いて、血が出ている。それでも肉を引き裂く前に―――
止めることができた。
心底ホッとしている自分に気付く。
「・・・・斬れるわけねーよ・・・」
圧砕重剣を地面に落としてしまう。それほどまでにアッシュの素顔は
衝撃的だった。
いつも長くて目を隠し、アッシュの顔分からなくさせていた前髪は
風になびいてその意味を失った。
同時に、本当に全てが分からなくなった。
「どうしてお前なんだよ―――――柚木・・・・!」
アッシュ・ライク・スノウの正体。俺の町を焼いて、陽の身体を貫いた
仇敵の正体は・・・・俺が始めて自分で手に入れたと実感した、生きる
目的が無くなったときでも自分で手に入れたと思っていた存在・・・・
柏原柚木だった。
アッシュは全ての始まりだ。俺の復讐心だってアッシュから始まった。
だからアッシュを殺さないと俺は先に進めない。でも、柚木は俺が唯一
手に入れられたもので、絶対に失いたくなんてない。
失いたくないなら復讐を止めろ、と俺の中の俺が言う。
生きる目的を失うな、と俺の中の俺が言う。
それは普通なら有り得ないくらい正反対のことで、同時に実現なんて到底
できないこと。
二律背反の中で苦悩する。さっきも感じていた。俺は一体何が欲しいのか。
何がしたいのか。もう何も分からなくなってしまった。
「ボクを斬れないあなたは、まだ戻れるんです」
そんなことを言う。戻れるわけないじゃないか。自分でさえも何がしたいの
か、どうしてこうなってしまったのかさえ分からなくなっているというのに。
戦意を喪失して地面に崩れ落ちる。戦う気力が無くなってしまった。
今俺は何がしたいのか。
今俺は何が欲しいのか。
今俺は何をすべきなのか。
今俺に何ができるのか。
意識が遠のいていく。侵食の影響か・・・・。
まだエクスクレセンス化するまで余裕があったはずなんだけど・・・・・
まぁ、いいか。
暴走してしまえば―――全部どうでもよくなる。
もう何も考えなくてよくなるんだ。
今俺は何がしたいのか。
今俺は何が欲しいのか。
今俺は何をすべきなのか。
今俺に何ができるのか。
全部・・・・・どうでもよくなるんだ。
「う・・・あ・・・」
声さえまともに出せない。
「正気を保って・・・!」
無茶を言う・・・・・。自分さえ理解不能になっている俺にこれ以上
苦しめっていうのかよ。
意識を保つことは不可能じゃない。でも、肉体の制御まではできないだろう。
だって、もう既に右半身は言うことを聞かないんだから。
右半身が勝手に動いて柚木を狙う。止めようと思っても無駄だった。
それを避けながら柚木は俺を呼び戻そうとする。どうして俺を戻そうとして
いるのか、意味が分からない。
アッシュにとって俺は復讐者だ。居なくなれば安心できるだろうに。
柚木にとって俺は・・・・・なんだろう。たまたま知り合った男性、程度の
存在なのかな。
「ボクを斬ることができないなら、他の人を斬ることだってできないはずです!
だから、戻ってきてください!」
じゃあ、なんであんなに必死なんだろう?
なんで俺を殺してしまわないのだろう?
「死・・・ネ・・!」
イグアナのようになってしまった口から俺のものとは思えない声が発せられ
る。俺の意思に関係なく身体は動き、口も動く。
振るわれた圧砕重剣が柚木の腕を掠める。一筋の血が流れ、少量でも服を真っ
赤に染めていく。
その光景は、怖かった。
怖い。とても、怖い。何が怖い・・・?血だろうか、いや、違う。じゃあなん
だ?勝手に動く自分の身体?間近に迫っている死?
どれも違う。じゃあなんだというんだ。
でも、もうどうでもいいことかもしれない。
このまま俺はエクスクレセンス化するのだろう。そのまま暴走して、暴れて、
どこかで力尽きて死んでいくのだろう。
・・・・・・。
もう夜になりかけている。ここから離れていった皆はどうしているだろうか。
今も戦っているんだろうか。もしかして―――誰か死んでいるんだろうか。
兄さんたちは?誰か死んでしまっているなんてこと・・・。
春彦も金も無事なんだろうか。軌条が暴走しかけてたからもしかしたら・・・。
軌条が死んだら、暁はどうするんだろうな・・・・・。
・・・・・・。
どうして俺は皆の心配なんてしているんだろう?
一度は全部壊そうとしたのに。それなのにどうして心配なんて・・・・。
死を間近に感じたからだろうか。死を自覚して、恐怖に狂ったか?
・・・・違う。
身体の侵食はまだ進んでいた。そのせいで尻尾まで生えてしまった。もう
人間の原型なんてあってないようなもんじゃないか。
そしてまた柚木に剣が掠める。そしてまた、恐怖に襲われる。
だから、何なんだよ・・・・・この感情は。
「うう・・・ッ!」
侵食の痛みで動きが止まった柚木に俺が迫っていく。意思を無視して動い
た身体は容赦なく柚木を斬り付けていく。辛うじて致命傷は免れているが、
浅い傷が幾つも刻まれていってしまう。
また怖い。怖い。怖い。柚木の身体に傷が刻まれていくように、俺の精神
には恐怖が刻まれていった。
この恐怖から逃れたい。もう、このまま死んでもいい。
意図的に視界から目を逸らす。完全に逸らす寸前、尻餅をついた柚木
目掛けて突き出される圧砕重剣を見た。
そして思った。
俺がこのままエクスクレセンス化したら――――柚木はどうなる?
簡単なことだ。死ぬだろう。エクスクレセンス化した俺に殺されて。死ぬ。
それが今まさに目の前で現実になろうとしている。俺がエクスクレセンス
化しているわけではないが、柚木は死の直前だ。
それだけのことが、途轍もなく怖かった。
今までに体験してきたどの恐怖よりも、心の底に響くような恐怖だった。
「止・・・・まれぇ!」
動かない身体を無理矢理に止める。このままにしておけば俺は今まで以上
の恐怖を味わうことになる。そして、この恐怖の意味も理解した。
怖かったのは、柚木の死。
たったそれだけのことが、途方もなく怖かったのだ。
身体の制御権は未だ俺にない。しかし、行動を阻害することはできる。そ
のお陰で半分以上がエクスクレセンス化した俺の肉体は地面に膝を付いて
動けないでいる。
「・・・・」
柚木が歩み寄ってくる。身体の所々からは血が流れていて痛ましい。
身体のいたる場所に青い棘のような刺青が走っていた。
俺を殺してくれ。
心の中でそう願う。この行動阻害だってそんなに長続きしない。もし行動
阻害が消えれば今度こそ、柚木を殺してしまう。そんなことは、天地がひっ
くり返っても許せない。
だから、殺してくれ。
その願いが届いたのか柚木は俺の顔に手を伸ばす。そしてゆっくりと頬に
触れた。
今の柚木の手には二つの感触があるはずだ。左手には爬虫類の皮膚のよう
な感触。右手には未だ血の通う人間の皮膚の感触。
雪が降り、徐々に俺を包みこんでいく。いや、柚木も一緒に包んでいく。
俺を殺すんじゃないのか・・・?
そんな疑問もすぐに解消された。完全に灰色の氷に閉じ込められた俺
と柚木には、外の世界が酷くゆっくりに――最早止まっているように
しか見えない。そういう風に映っていた。
そういえば兄さんから聞いた話でアッシュがこう言っていたのを思い
出す。
『ぼ、ボクの能力はこの“氷結結界”内部の時間進行速度を自在に操作で
きます。今この中の皆は時間進行を一万分の一にしているから・・・・・
ボクたちの一万秒が氷の中の一秒になってます・・・・』
今のこの状況がまさしくそうなのだろう。ただ、時間進行速度が内外逆にな
っているだけだ。
柚木の顔を見る。少量の流血で濡れたその顔には殺意は見えなかった。
その逆で、助けたい、救いたいという感情が滲み出ていた。
助けて欲しい、救ってほしい。そんな思いが湧き上がってくる。俺は
死ぬわけにはいかない。エクスクレセンスになるわけにはいかないんだ。
さっきの恐怖で自覚した。俺は柚木を殺せない。他の人たちだって、
この手にかけることはできやしない。
大切なもの(生きる目的)を失いたくないがために大切なものを失いかけていた。
「怖かったんだね・・・・」
左の頬に触れる手の温度。柚木の温度であり、血液に濡れているのが
分かってしまう。自分が傷つき、血に濡れながら、柚木は俺を救って
くれようとしている。
俺の心に巣食う感情を解き明かしていくように、全部剥き出しにした
上で俺を助けてくれるように、一つ一つ、告げていく。
一番最初に感じ、いつの間には俺自身でさえも理解できなくなって
しまった俺の心を、解き明かしていく。
「怖かったんだね。大切なものを失うのが・・・・」
大切なものを失うのが怖かった。生きる目的を失って、またあの暗闇の
中を探し回るのが怖かった。
「怖かったんだね。大切な人達を失うのが・・・・」
大切な人達を失うのが怖かった。大切な人達を失って、またあの孤独を
感じてしまうのが怖かった。
「結局、大切なものと大切な人との間に挟まって、どうしていいか判らな
くなっちゃっただけなんだよね」
結局、そうなのかもしれない。
なんだかんだと理由をつけたって、結局、どっちを選べばいいのか分から
なくなって、選べなくって。あの場所と、あの華南さんの死が、俺の心の
逃げ道になった。
今までにつけてきた色々な理由。その全部は結局後付けでしかなくて、
全部の元凶はこれだったんだ。
どうしてこうなったのか。俺がどこかで――それこそもっと早くの段階
で何かの間違いに気付けていれば、違う結果になっただろうに。
じゃあ、俺は何に気付けばよかったんだ?
「俺は・・・・」
振り返る。自分が何をしてきたのか。何を求めてきたのか。
恋人を見つけて、彼女を幸せにしてやりたかった。
全部を失って、それでも生きていく必要があった。
自分がエクスクレセンス化すれば、皆の一部を貰っているこの身体も、
あんな風になってしまうのかと恐怖もした。
アッシュ・ライク・スノウを追い続けて、柚木に出会った。初めて
自分の力で手に入れられた存在。
過去の真実を知って、俺は依存無しでは生きられないと自覚して。
陽の死を乗り越えて、華南さんの死を目の当たりにして、壊れた。
生きる目的だったものが全部崩れ去ってしまった。
ああ、なんだ。結局――――。
「俺は―――生きる目的そのものに依存してただけなのか・・・・・」
生きる目的が無いと・・・・生きる目的が欲しい・・・・。そんな
感情に縛られて生きる目的そのものに依存していたことに気付かなかった。
「うん・・・・・人はね、依存無しじゃ生きられないの」
生き甲斐としていたもの全部を失ってしまったからこその依存。普通
ならこんなことにはならないんだろう。
陽の死とか何とか、そんなもの色々抜きにしたって、俺は生きる目的、
というものに拘りすぎていたんだ。
だから、妥協点も見出せず、自力じゃ抜け出せない穴に嵌まり込んでし
まった。
「人は皆誰しも依存して生きているの。色々なものに依存を分配して、
一個が無くなっても生きていけるように。社会人なら、仕事と家庭、趣味
とか。学生なら、勉学に友達、遊びとか。皆それぞれ“大事”を分配して
全部を無くさないように頑張ってるの」
俺はそれが、生きる目的、という一個に集中してしまっていた。だから
復讐という生きる目的が無くなったとき、本当に“生きる目的”を失って
しまったように感じたんだ。
「生きる目的が無いなら、これから探していこ?」
俺はもう、一時だって何も失いたくない。そんな妥協ができるなら
最初にやっていただろう。それができなかったからこそ、大切な人たちと
復讐という生きる目的の中で何もできなくなったんじゃないか。
「なら、その瞬間にできることを探していけばいいんです」
その瞬間に・・・できること?
「そう。その瞬間、一分一秒にできることを探し続けて実行していけば、
何かをし続けていることになる。そうすれば、生きる目的なんて無く
たって生きていけますよ」
侵食されていた身体が消えていく。元の肉体に戻っていく。柚木の
言葉が、荒れ果てた心に救済をもたらす。
生きる目的は一個じゃない。俺にも他に何かあるはずなんだ。
それが見つからないなら、見つかるまで探せばいい。その間は、今
柚木が言ったみたいにやるべきことをやり続けていけばいいのか。
「じゃあ・・・・今俺がやるべきことって・・・・なんだろう・・?」
柚木は首を振った。
「やるべきことじゃなくて“できること”ですよ」
今の俺にできること。
それは、何だろう?
考えてみても思い浮かばない。こんな、バカみたいな俺にできること。
柚木が頬に当てた手を上に向ける。俺の顔も同じように少し上に向い
た。
そこには柚木の笑顔があった。その笑顔のまま、何もわからない
子供に物事を教えるように言う。
「最初だけですよ、教えてあげるのは。今の常光君にできることは・・
・・みんなを助けてあげることです」
俺がみんなを助ける・・・?
「そう。このシティの中にいる常光君の大切な人達。その人達を助けて
あげることです」
「俺にできるのかよ・・・・そんなこと」
「できますよ。というよりも、常光君にしかできないんです」
柚木に引っ張られて立ち上がる。もう、生きる目的云々で暴走する
ようなことはない、と胸を張って言える。
今の俺にはできることがある。
「今の常光君にできることは何ですか?」
柚木が真剣な表情になって言う。確認するように、今までの俺を叱咤
するように。
「自分の無意識に呑まれることですか?復讐を続けることですか?ボクを
殺すことですか?自分の行いを悔いることですか?・・・違います」
もう自分の無意識に呑まれたりはしない。今ならはっきりと、自分が
やるべき、自分にできることがわかるから。
他人と関わりを絶ってきたのも原因かもしれないな。
こうして他人に意見を聞いていれば、もっと早くに気付けたかもしれ
ないのに。
つくづく、情けなくなってくるよ。
でも今はそんなことをしている場合じゃないんだったな。
「今の常光君にできることは・・・・皆を助けることです」
「今の柚木にできることも・・・・皆を助けること、だろ?」
意表をついた俺の言葉に驚いたのもつかの間、笑顔をこぼして柚木は
背中を向けた。
今にも走り去ってしまいそうなその背中に、俺は自分の背中を預けた。
「え・・・?」
驚いたように動き出そうとしていた身体を止める。そして、柚木も
また、俺の背中に体重をかけてきた。
「俺は、他人と極力関わらないようにしてきたんだ。関わっても、深い
関係にならないようにしてきたし、苗字じゃなくて名前で呼ぶってのは
俺にとって一種の境界線だったんだ」
「・・・・うん」
「苗字で呼ぶ間はまだ、大丈夫。でも名前で呼んだらもう、それは大切
な人。そういう風に線を引いてたんだな」
「・・・・うん」
灰色の氷に囲まれて、乱反射する光に包まれて、普通なら寒いはず
なのに、暖かさを感じて。
どちらからともなく、手が触れ合った。
「いつの間にか名前で呼んでた、なんて。自分でも驚いてるさ。春彦
と金と修之さんにでさえ許可を取ったくらいなのにな」
本当にいつの間にか名前で呼んでたよな。
「すごいなお前。五年間誰も成しえなかった快挙達成だぜ」
柚木は何も言わない。この無言がどういう意味なのか俺はわからない
けど、マイナスな意味の無言じゃない・・・・・と信じたい。
氷にヒビが入り始める。これは柚木が結界を解こうとしている合図
なのか。最後に、俺は言う。
「最後まで・・・・名前で呼んじゃくれないのな」
悲しみが声に出ていただろうか。俺にとってもう柚木は友達で済ませ
られる存在じゃなくなっている。もちろん、復讐の相手とかじゃなくて。
初めて手に入れた存在とかでもなくて。
そういうの関係無しに、大きな存在になってしまっている。
それなのに名前で呼んでももらえない。おこがましいのかもしれない。
それでもやっぱり、悲しいじゃないか。
今度は俺から去ろうとする。そんな俺の手を、柚木の手が強く握った。
そのせいで俺は立ち止まった。立ち止まれた。
「ボクは、常光君のこと、好きですよ」
それは、あまりに唐突で、あまりに簡素な、告白。
その意味を理解するのに時間がかかってしまった。
「え・・あ」
「でもね」
俺の喜びを打ち消すように、鋭い声が飛ぶ。膨らみかけていた喜びの
感情が急速に消えていってしまった。
でも、心配することなんて無かった。さっきの「でも」の意味は俺が
思った内容ではなかった。
「こんな場所で、こんな状況で、なし崩し的に言うのって、嫌なんです。
なんか“最期”って感じがしちゃって・・・・・。
だから・・・・DEATH UNITとか“未知”とか、全部終わってから―
――今度はちゃんと、言わせてくださいね」
氷に入ったヒビが大きくなっていく。もう本当に別れが近づいている。
だから、何かが欲しかった。
また柚木と会える、何かが。
「約束だな」
「・・・うん。全部終わったら、ね」
この約束があれば、俺はまた柚木に会うことができるんだろうか。
いや、できるかどうかじゃない。この約束を果たすためにも、柚木と
会うためにも。できるかどうかじゃなくて、やるんだ。
今度こそ、手が離れる。離れていく。
あの温度をまた感じるために。
俺は今、自分にできることをする。
灰色の氷が砕け散る。世界が普通の速度で動き始めた。
そして俺たちも走り出した。正反対の方向へ。
柚木はブリッツタワー・セントラルを目指して。
俺は春彦たちがいる方向を目指して。
皆を助けて全部終わらせるんだ。
全部が手遅れになってしまう前に。
そんな不幸な終わり方なんて誰も望んじゃいないんだから。
この辺の主人公の心、グダグダでごめんなさいorz
うまくできなかったと自分でも思っています。
もう少し、付き合ってください。では次回。