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短編シリーズ

目が覚めたら、知らない人と結婚していた

作者: 虹村玲
掲載日:2026/02/04

第一話 起きたら詰んでた


 目を開けた瞬間、まず天井がきれいすぎると思った。


 白い。

 均一。

 傷も、染みも、見当たらない。


 うちの天井は、もっと「生活」の跡があったはずだ。黄ばんでいるとか、角に蜘蛛の巣があるとか、そういう種類の現実。

 目覚めの一秒目から、ここにはそれがない。


 目を閉じて、もう一度開ける。

 変わらない。白い。高い。知らない。


 寝ぼけのせいだと言い聞かせようとして、次の違和感でそれが無理だと分かる。


 音がしない。


 いや、正確に言えば、音が「少なすぎる」。


 実家の朝はもっとガチャガチャしている。台所で皿がぶつかる音、誰かが椅子を引く音、テレビの声、廊下を歩く足音。

 そういう雑音が、俺の「朝」だった。


 ここは、音が整っている。

 静けさが、きれいに掃除されている。


 静かな部屋って、落ち着くはずなのに。

 落ち着く前に、背中が冷える。


 そして――


 呼吸が近い。


 俺の呼吸じゃない。

 もうひとつ、すぐ横で、規則的に吸って吐いている。


 嫌な予感しかしないまま、体を起こす気にはなれなかった。

 急に動くと、現実が確定する。確定する現実は、だいたいロクでもない。


 だから俺は、視線だけを横に動かした。


 ……女が寝ていた。


 「女が寝ていた」だけなら、まだ夢で済ませられる。

 問題は、その女が――


 まず思ったのは、大人だな、だった。


 同級生のそれとは違う。骨格も、雰囲気も。首の線が長く、肩の角が取れている。寝ているだけで、部屋の空気が落ち着く。

 高校生の隣にあるはずの気配じゃない。


 知らない人だ、と判断しかけて――顔を見て止まる。


 知ってる。


 同じクラスの、あいつだ。


 クラスの中心にいる人間。笑って、周りが笑って、その中心で何かが回っている。俺とは住んでいる世界が違うやつ。

 廊下ですれ違えば視界には入るけど、人生には入ってこないタイプの存在。


 なのに今は――

 年上の女として、同じベッドで寝ている。


 意味が分からない。


 頭の中で、説明の候補がいくつか浮かぶ。

 夢。ドッキリ。誘拐。臓器売買。

 どれも俺の人生には似合わないはずだったのに、今は全部が候補になってしまう。


 俺は距離を取ろうとして、ほんの少し、肩の位置をずらした。

 シーツが、わずかに擦れる音がした。


 その瞬間。


「……動かないで」


 低い声だった。


 高校生の記憶より、ずっと落ち着いている。

 声のトーンだけで「これ、冗談じゃない」と分かる種類の落ち着き。


 彼女は起きていた。

 目が合う。めちゃくちゃ警戒されている。


 というか、警戒されて当然だ。

 俺だって、見知らぬ場所で目が覚めて、隣に知らない男がいたら、まず警戒する。……いや、男じゃなくても警戒する。人間なら警戒する。


「起きた? じゃあ動かないで。

 今から状況確認するから」


 命令口調だが、正直ありがたい。

 俺の脳もフリーズしていた。というか、フリーズしたまま再起動に失敗している。


 状況確認。

 ありがたい言葉だ。今の俺には、それしか手札がない。


 俺たちは同時に、ゆっくりベッドを降りた。

 距離を取る。互いに、ちょうど手が届かない距離。人間が一番安心する距離。


 立った瞬間、体の感覚が変だと気づく。


 背が高い。

 視界がいつもより上。

 足が長いとかそういう自慢じゃなくて、ただ単純に、俺の身体が俺のものじゃない感じがする。


 彼女も同じらしい。立ったまま、数回まばたきをして、自分の手を見ている。指先の長さ、爪の形。

 大人の手。


 部屋を見回す。


 知らない家具。

 整っている生活感。

 生活感があるのに、散らかっていないという矛盾。


 棚に並ぶ小物も、ひとつひとつ「選ばれている」感じがした。適当に置かれた物がない。

 誰かが、ちゃんとこの部屋を「住むため」に作った痕がある。


 ローテーブルの上に、マグカップが二つ。

 色も形も揃っているわけじゃない。

 なのに、ペアとして自然に置かれている。


 見ているだけで、胃がきゅっとなる。


 壁のカレンダーが目に入った。


 無駄におしゃれなフォント。

 無駄に余白が多いデザイン。

 俺の家のカレンダーは、もっと情報で殴ってきた。祝日とゴミの日と、変な企業ロゴで。


 そのカレンダーの、いちばん上。


 2025年。


 目が滑った。

 脳が拒否した。


 俺は一度、視線を外して、もう一度見る。


 やっぱり2025年。


「……」


「……」


 二人同時に黙った。


 沈黙って、普通は気まずいはずなのに。

 今は沈黙の方がマシだった。喋ったら現実が動き出す。


 彼女が先に言う。


「ねえ」


 声がさっきより小さい。

 怒ってるとか冷静とかじゃない。怖い声だ。


「なに」


 俺は喉が乾いていて、短くしか返せなかった。


「今、何年だと思う?」


 問いの形をしているけど、実際は確認だ。

 自分の現実が壊れていないかの確認。


「2016年」


 言った瞬間、自分で笑いそうになる。2016年だと言いながら、俺の目の前には2025年がある。

 矛盾が、矛盾のまま成立している。


「だよね」


 彼女の返事は即答だった。

 安心じゃない。絶望の共有だ。


 数秒後。


 彼女は息を吸い直した。

 深呼吸というより、心臓を落ち着かせるための吸い方。


「……結論言うね」


 結論、という言葉を使うあたり、彼女の頭はまだ働いている。

 人間、パニックになるとこういう「形」の言葉にすがる。結論、要するに、つまり。

 言葉で輪郭を作らないと、崩れるから。


 彼女は左手を見た。


 俺も同じものを見る。


 指輪。


 金属の輪が、指にはまりきっている。

 外すかどうかの前に、外したら何が起きるのか分からない怖さがある。

 俺の人生に、こんな重い小物があっていいはずがない。


「私たち、結婚してる」


 ああ、と俺の中の何かが思った。

 納得じゃない。理解でもない。

 ただ、これ以上ひどい結論が思いつかなかっただけだ。


「……だろうな」


 自分の声が思ったより落ち着いていて、逆に嫌だった。

 俺は落ち着いてるんじゃない。落ち着いてるフリをしているだけだ。こういうとき、感情を出すと疲れる。出した分だけ、あとで自分に返ってくる。


「冷静すぎない?」


 彼女が言う。

 目が鋭い。まだこちらを敵と決めていない目。


「パニック起こすと疲れるから」


「それ今言う?」


 俺は肩をすくめた。

 今言わないと、言えるタイミングが消える。

 消えたら、俺はただの異常事態のモブになる。


「今しか言えない」


 彼女は深く息を吸って――


 肺の中に空気を入れて、吐くのを一度だけ我慢した。

 その一拍が、彼女の理性の最後の抵抗に見えた。


「最悪」


 短い。

 分かりやすい。

 そして、たぶん正しい。


 俺は心の中でだけ、同意した。


 ――起きたら詰んでた。

 そういう朝だった。


第二話  ヒロインが一番うるさい


「ちょっと待って待って待って!」


 静まり返っていた部屋の空気が、彼女の声で一気に割れた。

 高い声。張りつめていて、抑えが効いていない。高校の教室で聞いたことのある声だけど、あの頃よりずっと必死だ。


 彼女はその場で一度足踏みしてから、急に動き出した。


 部屋を歩き回る。

 意味もなく、行き先もなく。

 ソファの前で止まり、キッチンを見て、ラグを踏み、また方向を変える。


 落ち着きがない、というより――落ち着ける場所を探している感じだった。


「なんで私が!?」


 振り返って叫ぶ。


「起きたら知らない男と結婚!?

 意味わかんないんだけど!?

 しかも2025年!?

 九年どこ行った!?」


 知らない。

 俺も九年分、行方不明だ。


「知らない」


 正直に言うと、彼女は即座に睨んできた。


「知らないじゃないのよ!」


 彼女はテーブルを指差す。

 指先が震えている。怒りと混乱が同居している震えだ。


「この家なに!?

 なんでこんなちゃんとしてるの!?

 なんで散らかってないの!?」


 俺も部屋を見回した。


 床に物は落ちていない。

 家具は角度まで計算されているみたいに配置されている。

 観葉植物は元気だし、カーテンの丈もぴったりだ。


 ……住みやすそうだ。

 俺の人生じゃない。


「私、こんな整理整頓するタイプじゃない!」


「俺も違う」


 即答した。

 俺は物を片づけない。というか、片づけた記憶がない。


「でしょ!?」


 彼女は勢いよく同意してくる。


「じゃあ誰よ!

 誰がこの生活作ったの!?

 誰がこのラグ選んだの!?

 誰がこの色にOK出したの!?」


 知らない色だ。

 嫌いじゃないけど、選んだ覚えがない色。


「未来の俺たち」


 俺がそう言うと、彼女は一瞬固まった。


 それから、顔をしかめる。


「最悪……」


 その一言に、九年分の拒絶が詰まっていた。


 彼女はソファに腰を下ろしかけて、直前で動きを止めた。

 座る直前の、あの中途半端な姿勢で数秒固まる。


「……やっぱやめた」


「なんで」


「座ると落ち着きそうで嫌」


 分かる。

 この家は、座った瞬間に「ここが自分の居場所」だと錯覚させてきそうで怖い。


「分かる」


 俺が言うと、彼女は一瞬だけこちらを見た。

 同意されたことが、少しだけ意外そうだった。


 それから、改めて俺の正面に立つ。


 腕を組む。

 視線を合わせる。


「ねえ、正直に答えて」


 この前置きは信用ならない。

 正直に答えた結果、だいたい怒られる。


「なに」


「この状況」


 一拍。


「棚ぼたとか、思ってない?」


 思ってない。

 本当に思ってない。


「思ってない」


「……本当に?」


 疑いが強い。

 クラスの中心にいる人間は、周囲の嘘を嗅ぎ分ける嗅覚が鋭い。


 俺は少し考えてから言った。


「俺さ」


 彼女の目が細くなる。


「せいぜい

 “同窓会で話題にされない人生”

 目指してた」


 自分で言っておいて、我ながら地味だと思う。

 でも、これ以上に俺を正確に表す目標はない。


「……地味」


 彼女は即座にそう言った。


「褒め言葉だ」


「褒めてない」


「俺は褒められたと思う」


 彼女は数秒黙った。

 視線が俺から外れ、床を見る。


 その沈黙は短かったが、さっきまでの騒がしさとは質が違った。


「……それならいい」


 ぼそっと言う。

 納得したというより、一つ警戒を解いた感じだ。


 その瞬間、テーブルの上の郵便が目に入った。


 白い封筒。

 きちんと揃えられて置かれている。


 彼女も気づいたらしい。

 視線が一瞬、封筒に向き――即座に逸れた。


 首を横に振る。全力で。


「開けない」


「なんで」


「絶対ろくな内容じゃない」


「支払いか」


「役所」


「役所だな」


「今の精神状態で、役所は無理」


 分かる。

 俺でも無理だ。


「じゃあ後で」


「後でっていつ」


「未来の俺たちに任せよう」


「それもう今の私たちじゃん!」


 正論の突き刺し方が容赦ない。


「じゃあ、さらに未来」


「最低」


 彼女はそう言って、額に手を当てた。


「……ねえ」


「なに」


「私たちさ」


 深いため息。


「詰んでない?」


「割と最初から」


 彼女は笑わなかったが、

 その場に崩れ落ちるほどでもなかった。


 多分、この人は

 最悪な状況でも、とりあえず立っていられるタイプだ。


 うるさいけど。

 とても。


第三話  結婚って、思ったより…


 彼女の叫び声が部屋の空気を散らかし切ったあと、妙な静けさが戻ってきた。


 静けさというより、疲労だ。

 騒いだぶんだけ体力が削れ、脳の熱が下がっていく。人間は意外と正直で、怒鳴った後は喉が痛いし、心臓は勝手に落ち着く。


 俺は壁際にもたれたまま、部屋の中をもう一度見た。


 ラグはふかふかで、足裏にやけに優しい。

 ソファは高そうで、背もたれが体を預けろと言ってくる。

 キッチンは無駄に綺麗で、無駄に広い。

 洗剤の匂いがする。つまり、最近まで誰かが洗い物をしていた。


 ……誰かじゃない。

 未来の俺たちだ。


 彼女はソファの前で立ち尽くしていた。さっきは「座ると負け」とか言っていたくせに、今はもう、負けでもなんでもいいから座りたい顔をしている。


 結局、彼女はゆっくり腰を下ろした。

 座り方が大人だ。勢いじゃなくて、重心で座る。

 そのくせ表情は高校生のままで、無理やり大人の椅子に乗せられた子どもみたいだった。


 彼女は左手を見た。

 指輪。


 さっきから、その小さい金属が、部屋の全てより存在感がある。

 金属なのに、重い。重さが、現実の重さだ。


 少し落ち着いた頃、彼女が指輪を見つめながら言った。


「……結婚ってさ」


「うん」


 俺は返事をしたが、正直「うん」と言えるほど結婚に詳しくない。

 高校二年の俺にとって結婚は、ニュースか、親戚の集まりか、漫画の最終回に出てくるやつだ。


「もっとキラキラしてると思ってた」


 彼女は、笑うでもなく、怒るでもなく、ただ困った顔をした。

 それが一番、人間っぽかった。


「高校生的にはな」


「でしょ?」


 彼女はため息をつく。ため息がやけに長い。肺が大人だから、量が多いのが腹立つ。

 それから、部屋の中を指でなぞるみたいに視線を動かした。


「現実、部屋で、洗濯物で、郵便で、めちゃくちゃ生活」


 言い方が雑で、逆に分かりやすい。

 彼女の視線が、部屋のあちこちで止まる。


 ソファの横に置かれたブランケット。

 読みかけっぽい雑誌。

 テーブルの端に、ちょこんと置かれたリモコン。

 キッチンに並んだ食器。

 そして――廊下の向こうに見える、洗濯物の影。


 全部、「ここで暮らしている」ものだ。

 しかも、雑に暮らしていない。ちゃんと暮らしている。


 俺は心の中でつぶやいた。

 俺、ちゃんと暮らせたんだ。

 それを誇るより先に、気持ち悪さが来るのが俺らしい。


「夢がないな」


 俺が言うと、彼女は即答した。


「ない」


 短い。容赦ない。

 彼女は指輪から目を離して、今度は自分の手の甲を見た。爪が整っている。指が長い。

 見た目が大人なだけで、心の中が追いついていないのが顔に出る。


 俺も指輪を見る。


 外せない。

 というか、外す勇気がない。


 外したら何が起こるんだろう。

 この「結婚」は、指輪を外したら消えるのか。

 そんな都合のいい仕様なわけがない。


 だから俺は、外すことより先に、見ないフリを選ぶ。

 俺はそういう人間だ。人生の重要なことほど、薄目でやり過ごそうとする。


 彼女が言った。


「知らない人と結婚して、知らない生活して、それが普通みたいに置いてあるの、無理なんだけど」


 言い切ったあと、彼女は口を閉じた。

 自分の言葉に、自分が一番傷ついている顔だった。


 俺は短く言う。


「俺も」


 本当はもっと言える。

 気持ち悪いとか、怖いとか、吐きそうとか。

 でも俺は、そういう言葉を増やすのが得意じゃない。増やすと、現実が増える。


「安心しない?」


 彼女が聞く。

 確認するみたいに。自分が変じゃないか確かめるみたいに。


「全然」


 俺が即答すると、彼女は少しだけ肩を落とした。


「だよね」


 そこだけ、完全に意見が一致した。


 妙に安心する一致だった。

 “安心しない”という一致で、安心している。

 皮肉だ。俺はこういう矛盾が一番落ち着く。人生と同じだから。


 彼女は腕を組んだ。

 腕を組む姿が「強がり」に見える。強がらないと座っていられないのだろう。


「……戻る方法、探す」


 声のトーンが変わった。

 さっきまでの「うるさい」から、今は「決めた」に変わっている。


「賛成」


 俺が言うと、彼女は小さく頷いた。


「でも」


「でも?」


 ここで「でも」が来るのは分かっていた。

 この女は、思いつきで動かない。動くときは、必ず条件をつける。

 ――条件がないと、怖いからだ。


「それまで、ルール作る」


 嫌な予感しかしない。


 それでも俺は、心のどこかで思った。


 ルールがあるなら、

 少なくとも今日の地獄には、取っ手がつく。


 地獄に取っ手。

 それが2025年の夫婦なのかもしれない。知らんけど。


第四話  夫婦禁止


 部屋が、いつの間にか少し暗くなっていた。


 照明はつけていない。

 それでも不便じゃない程度に、外の光が差し込んでいる。

 カーテンの隙間から入った夕方の光が、床をゆっくり横切っていた。


 昼間は気づかなかった影が、家具の輪郭をはっきりさせる。

 テーブルの角。

 ソファの脚。

 観葉植物の葉の先。


 どれも知らないはずなのに、

 「ここにあって当然」みたいな顔をしているのが、少し腹立たしい。


 時間だけは、普通に進んでいるらしい。

 俺たちの事情なんて、どうでもいいみたいに。


 彼女はソファに腰を下ろした。

 深く座らない。背もたれにもたれない。

 すぐ立てる姿勢。逃げ道を残した座り方だ。


 膝の上で、彼女は一度、指を組み、ほどいた。

 それから指を立てる。


「ルール三つ」


 仕切る声だった。

 誰かを納得させる声じゃない。

 自分に言い聞かせるための声。


 さっきまでの混乱が、嘘みたいに整っている。

 整えないと、この場にいられないのだろう。


「一。寝室分ける」


「当然」


 返事をしながら、俺は廊下の奥を一瞬だけ思い浮かべた。

 扉はいくつあるのか。

 どこに、もう一つの部屋があるのか。


 確認する気にはならない。

 確認したら、そこが「自分の場所」になる気がして嫌だった。


「二。お互いのスマホ見ない」


「助かる」


 机の上に置かれた二台のスマホが、視界の端に入る。

 画面は伏せられている。

 黒い板みたいに、何も語らない。


 語らないのに、

 中に色々詰まっているのは分かる。

 だから見ない。見ないと決める。


 ここまでは即決だった。

 迷う理由がない。


「三」


 一拍置く。


 その一拍で、部屋の音が耳に入る。

 エアコンの低い音。

 どこかで鳴る車の走行音。

 遠くの信号の音。


 全部、2016年の夕方とは違う。


「“夫婦”って言葉、禁止」


 俺は少しだけ考えた。


 言葉を選んでいるんじゃない。

 言わない未来を、頭の中で転がしている。


 言わないだけで、

 今より少しだけ、距離を保てる気がした。


「……なんで」


「言った瞬間、面倒になる」


 短くて、雑で、彼女らしい答えだった。

 でも、その雑さが助かる。


 理由を掘り下げられると、

 また余計な話が始まる。


「分かる」


「でしょ」


 彼女は小さく頷いた。

 納得というより、確認だ。


「言ったら?」


「負け」


「罰は?」


「洗い物」


「現実的だな」


「生活だから」


 その一言で、この部屋の全部が説明されてしまう気がして、

 俺はそれ以上何も言わなかった。


 短くて、逃げ場のない答えだった。


 俺は間を置かずに言う。


「じゃあ俺、一生言わない」


 考え抜いた結論じゃない。

 でも、考え抜かない方がいい結論だ。


 彼女は眉をわずかに動かした。


「……ズルくない?」


「得意分野」


 ほんの一瞬、彼女の口元が崩れた。

 声を出さずに、息だけが抜ける。


 すぐに表情を戻す。


「最低」


「知ってる」


 そのやり取りが、

 この部屋で初めて「いつも通り」っぽかった。


 窓の外は、完全に夕方だった。


 空の色が、昼とも夜とも言えない。

 知らない街の音が、遠くで混ざっている。

 人の声も、車の音も、ここまでは届かない。


 俺は左手を見た。

 指輪はそのままはまっている。


 外す気は起きなかった。

 外す理由も、外さない理由も、今は考えない。


 考えると、また話が戻る。


 だから、結論だけ残す。


 私たちは結婚していた。

 だから、“夫婦”を禁止した。


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