第9話 レガリア問題と、登山家の政治センス
「ここからが、ちょっとややこしい話になる。当時の政治状況だ」
隊長さんは、コーヒーのおかわりを頼みながら続けた。
「その王国には、王権の象徴、いわゆる“レガリア”が二つあった。王笏と、王冠。王が正統な支配者であることを示すためには、その二つが揃っていなければならなかった」
「さっきの王笏と、報酬にするって言ってた王冠ですね」
「ああ。ところが当時、政治的に非常にまずい状況があってな。王の正統性を疑う勢力が国内外にいた。だから、レガリアが同時に一人の手に揃うことには、極めてデリケートな意味があった」
「もし誰かが王笏と王冠を同時に手にしたら、その人が“真の王”ってことになっちゃう、とか?」
「極端に言えば、そういうことだ。実際には法的にどうこうというより、『象徴としての意味』がやばかった」
「で、そのやばさを、ネルソンは……?」
「登山家だ。政治家でも学者でもない。だけど、あの男は直感だけはやたら鋭かったらしい」
隊長さんは、ネルソン帰還時の記録のコピーを指で叩いた。
「ネルソンは、山頂から持ち帰った三本の旗とともに、王の前で王笏を返した。その場で、王から王冠を受け取る権利が発生していた。もし彼が王冠を受け取っていたら」
「その瞬間、王笏と王冠がネルソンのものになっちゃう」
「そう。王権の象徴が、そのときだけでも揃ってしまう。それは、王の権威を象徴的に危うくしかねなかった。周囲の貴族たちも、敵対国のスパイも、その瞬間を見ている」
「ネルソン、そこまで理解してたんですか?」
「おそらく、完全には理解していない。政治思想の本なんて読んだこともなかった男だ。だが、彼は直感的にこう感じたらしい。『あ、今この場で王笏と王冠を両方手にしたら、俺の立場、クソヤバイな』と」
「“クソヤバイ”って言葉、記録に残ってます?」
「残ってない。意訳した」
ふっと笑いが漏れる。
「で、ネルソンはどうしたか。まず、王笏を王に返す。そのあとで、王冠の授与を『サイズが合わないから』という理由でさりげなく辞退。こうすることで、自分の手元に二つのレガリアが揃う瞬間を、見事に回避した」
「……頭いいな?」
「政治学者はその行為を『自発的な権威の辞退による王権の補強』とか難しい言葉で説明しているが、ネルソン自身はたぶんこう思っていた」
隊長さんは、ネルソンの口調を真似るように、少しくだけた声で言った。
「『なんかこの王冠受け取ったら、面倒なこといっぱい起きそうだからやめとこ。客人としてうまい飯だけ食って帰ろう』」
「一周回って賢い」
「結果として、彼は王笏も王冠も持たないまま、歴史に名を残した。政治的な火種を最小限に抑えつつ、山岳史上最大級の快挙だけをきっちり刻んだわけだ」




