第8話 単独無酸素、五万メートル、ついでに三山頂
「翌日、ネルソンは港からガルダ行きの船に乗り込んだ。単独だ。酸素ボンベ?そんなものはまだない時代だ」
「単独無酸素……」
現代でも、八千メートル級を単独無酸素で登るのは狂気の沙汰だ。
それを五万メートルでやる?
正気じゃない。
「当時の記録ではな、彼は“とりあえず行ってくる”と言ったそうだ。『一緒に登れる人を待っていたら、期限に間に合わないかもしれませんから』」
「だから死ぬって」
「そのツッコミを、当時誰も口には出せなかった。王様の面前だからな」
隊長さんは、ファイルのページをめくる。
そこにはネルソンのラフなルート図と、行程表が書かれていた。
「結果から言うと、ネルソンは三つの山頂候補をすべて踏破し、旗を立てて、二十日で帰ってきた」
「二十日!?」
俺は思わず椅子から腰を浮かせた。
「登りと下り合わせて二十日。ガルダまでの航海を含めない純粋な『山行日数』だ。往路・登り・縦走・復路、全部込みでな」
「五万メートル級で、山頂候補三つ踏んで、それで二十日……?計算バグってません?」
「バグってる。だからこそ、後世の登山家と歴史家が、何度も何度も検証した。結論から言えば――」
隊長さんは、別のページを開いた。
そこには現代の研究者が引き直した標高線と、ネルソンの足跡の推定が細かく書き込まれている。
「ネルソン、道中けっこうな割合で“走ってる”」
「走るなよ……!」
「ルートと所要時間から逆算すると、どう見ても半分くらいは小走りだ。技術的にきわどいところだけ慎重に越えてる」
「なにしてんのこいつ……」
「一箇所だけ、記録に決定的なおかしな動きが残っている」
そう言って指差された箇所には、小さな赤丸が付けられていた。
「ここ、幅数メートルの巨大なクレバスがある。普通はロープを張るか、はしごをかけるか、遠回りして安全な橋を探すようなところだ。ネルソンはどうしたかというと――」
「……まさか」
「三段跳びで越えた」
「オリンピック選手か!」
思わず喫茶店で叫ぶところだった。
あぶない。
「ネルソン本人の記録だとこうある。『迂回すれば安全なルートも見つかりそうではあったが、王が定めた期限に間に合わなくなる恐れがあったため、最も短い方法を選んだ』」
「そこまでして王様の納期守らなくていいだろ……!」
「しかもだ。その直前までのペース配分を考えると、三段跳びをするために、わざわざ手前でリズムを整えてる跡がある」
「登山ってなんだっけ」
もはや、山というより陸上競技だ。
「ネルソンにとってはな、『全部歩いてたら三日ぐらい遅れるな』という感覚だったらしい。期限を守るために走るのは合理的だと判断したんだろう」
合理的の意味を、彼はどこかに置いてきてしまったのかもしれない。
「で、三つの山頂候補すべてに旗を立てて、ネルソンは無事、五体満足で帰還した。出発から二十日。王の定めた一ヶ月の期限の中で、余裕を持って」
「いや、かっこいいですよ。かっこいいけどさ……命とか惜しくなかったのか、ほんとに」
「帰ってきたネルソンは、王の前でこう言ったそうだ。『これで、どこが山頂でも登頂確定です。宴会を開いてください。たいへんお腹がすきました。王冠はサイズが合わないので、いただかなくて結構です』」
「最後の一文が強すぎる」




