第5話 「ガルダ」の夢は、灰の向こうに
下山してからのことは、正直あまりよく覚えていない。
検査室で肺のレントゲンを撮られ、簡単な問診を受け、連絡先を書き、しばらく様子を見てから帰宅を許された。
家に戻ると、母親が半泣きで抱きついてきた。
ニュースで噴火を知って、何度も俺のスマホに電話をかけていたらしい。
ポケットから出したスマホは、電波が入らないうちにバッテリーが尽きて沈黙していた。
風呂場でシャワーを浴びた。
髪の毛の間から、服の縫い目から、細かい灰がいつまでも流れ落ちた。
ついさっきまで山の斜面だったものが、今は排水口を流れていく。
それを見ていたら、急に胸が詰まって、シャワーの音に紛れて少し泣いた。
部屋に戻ると、机の上には開きっぱなしの世界山岳地図。
赤丸で囲んだ「セブン・サミット」の名前。
その真ん中に、ひときわ大きく書かれた「ガルダ」。
手を伸ばしかけて、そこで止めた。
今、あの白い峰を思い浮かべようとすると、同時に、灰に埋もれた登山道と、タオルをかぶせられた人たちの姿が蘇る。
ガルダの雪煙と、あの黒い噴煙が、頭の中で混ざりあう。
「……俺、本当に、ガルダ登りたいのか?」
ベッドに腰を下ろして、天井を見上げた。
さっきまでの「初投稿」「世界独占生配信」とかいう言葉が、急に薄っぺらく感じた。
それでも、不思議なことに、「やめよう」とは、すぐには思えなかった。
山が怖い。
それはもう、骨身に染みている。
ナメてた自分を殴りたいくらいだ。
だけど同時に、噴火の合間にほんの一瞬見えた、あの稜線のシルエットも、頭から消えてくれない。
熱と灰の地獄の向こう側に、確かにそこに山があった、という事実だけが、しぶとく残っている。
「『山とはそういうもの』……ね」
あの人の言葉を思い出す。
諦めじゃなく、スタートライン。
現実を飲み込んだ上で、それでも好きだと言うための。
今の俺は、まだそこにすら立てていない。
今日、死体の列を見て、ただ怯えただけだ。
ガルダどころか、近所でこのザマだ。
「山、スゲー」とか言ってるだけの、いいとこのボンボン。
それが、今の俺の全てだ。
でも。
いつか、本当にいつか、ちゃんと覚悟を持って「それでも登りたい」と言える日が来たら。
そのとき、もう一度この地図を開いて、「ガルダ」の文字を見つめよう。
今はまだ、ソファに座って YouTube で誰かの登山動画を眺めるだけでいい。
あの日、一緒に下山できなかった人たちのことを、思い出しながら。
アクションカメラの初投稿は、例の元隊長に譲るのも、悪くないかもしれない。
彼が撮る山なら、きっと「そういうもの」の重さごと、ちゃんと映ってるはずだ。
窓の外を見る。
街の向こう、かすかに霞んだ西の空の端に、ガルダの影がうっすらと浮かんでいた。
「……いつか、な」
声に出してみる。
約束でも宣言でもなく、ただの独り言として。
山は何も答えない。
それでも、俺には、あの白い峰が、ほんのわずかに笑ったように見えた。




