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霊峰ガルダに登ろう!  作者: 静先輩
第一章 リアルガルダ編
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第4話 山が牙をむいた日

 最初に来たのは、地鳴りだった。


 足の裏のどこか奥の方が、ぼそぼそと震えた。

 地震? と一瞬思った。

 でも、それとは少し違う。

 揺れるというより、山全体が、不機嫌そうに身じろぎをしたような。


「なんか、揺れてね?」


 前を歩いていた家族連れのお父さんが振り返る。

 子どもがきゃっきゃと笑って「地震だー」とはしゃぐ。

 俺はストックを握り直しながら、なんとなく空を見上げた。


 空の色が変わっていた。

 さっきまでの澄んだ青に、どす黒い灰色の膜がじわりと広がっている。

 稜線の向こうから、煙というにはあまりに濃い、何かが吹き上がっていた。


「……え?」


 耳に、低い爆発音が届いた。

 遅れて、地面が本気で揺れた。

 足を取られてよろめく。

 どこかで悲鳴が上がる。

 誰かが「噴火だ!」と叫んだ。


 噴火。

 その単語が現実として理解されるまでに、数秒かかった。


 俺が登っていたのは、活火山だった。

 もちろん知ってはいた。案内所にも「現在の火山活動レベル」ってパネルが出ていた。

 レベル2。安心です、みたいな表示。

 だからこそ、観光地として整備されていたのだ。


「でも、今、それどころじゃなくね?」


 山頂方向から、信じられない速度で黒い雲が押し寄せてくる。

 ただの煙じゃない。

 鬼のような勢いで吹き下ろしてくる灰とガスと、何か熱いものの塊。その手前で、岩が飛んでいるのが見えた。

 転がってくる、じゃない。

 空を飛んでくる。


 空気の温度が、一瞬で上がる。

 喉の奥が焼けるように痛くなる。

 咳をしようとして、うまく息が吸えない。


「走れぇっ!!」


 誰かの怒鳴り声が、脳に直接叩きつけられたみたいに響いた。

 次の瞬間には、俺の腕を誰かがつかんでいた。


「下へ! 下に向かって走るんだ! 止まるな!」


 荒い声。

 無理やり引っ張られる。

 ストックが手からすっぽ抜ける。

 足元の石につまずきながら、必死でついていく。


 頭の中は真っ白だった。

 ドローンの映像も、YouTube のサムネも、ガルダの稜線も、全部どこかに吹き飛んだ。

 あるのは、焼けつくような熱と、肺の中に入り込んでくる粉っぽい何かと、目を開けていられないほどの灰。


「う、うしろ……!」


 振り返ろうとした瞬間、その手がぐいっと俺の顎を前に向けさせた。


「見るな! 前だけ見ろ! 足元と階段、いいか、手すりにつかまって走れ!」


 自分の声が、情けないほどかすれていることに気づいた。

「はい」と答えたつもりだったが、ちゃんと声になったかどうかもわからない。


 登山道は、さっきまで「ハイキングコース」と呼ばれていたのが信じられないほど、地獄に変わっていた。

 小さな石が雨のように降ってくる。

 たまに、信じられないサイズの岩が、斜面を削り取りながら転がっていく。

 イメトレでひらりとかわしていたはずの岩が、現実にはただの「当たったら死ぬ塊」として、視界の端をかすめていく。


 誰かが転んで、誰かがその上を踏んでいく。

 悲鳴と怒号と泣き声と、何かが砕ける音が混ざり合って、耳の中で飽和する。

 恐怖って、こういうときにはっきり形を持つんだな、とどうでもいいことを思った。


 途中で、一度立ち止まりそうになった。

 膝が笑って、呼吸がまったく間に合わない。

 視界は灰色のカーテンで、先が見えない。

 後ろから何か巨大なものが迫ってくる気配だけがある。


「ダメだ、もう無理……」


 そう呟いた瞬間、俺の腕をつかんでいた手に、さらに力がこもった。


「無理じゃない! まだ走れる! 走れ!」


 その声は、命令というより、殴りつけるような祈りだった。

 俺は、もう判断する余裕なんてなかった。ただ、その声に引きずられるように足を動かし続けた。


 どれくらい走ったのか、まったくわからない。

 時間の感覚はどこかに置いてきた。

 ただ、いつの間にか、熱が少しだけ引いていた。

 空気の色も、真っ黒からどす黒に変わっていた。


「ここで一旦止まるぞ!」


 ようやく掴まれていた腕が解放された。

 膝から崩れ落ちる。

 地面に手をつくと、細かい灰でザラザラしていた。


 息が、入ってこない。

 肺の内側に砂を詰め込まれているみたいだ。

 咳き込むたびに、喉が裂けるように痛い。


「水……」


 かすれた声が、誰のものか一瞬わからなかった。

 次の瞬間、俺の口元にボトルが押し当てられる。


「少しずつ飲め。がぶ飲みするな、むせる」


 指示に従って少しずつ水を飲み込むと、喉の奥の粉っぽさが、ほんの少しだけましになった。

 涙と灰でぐちゃぐちゃになった目をこすりながら、ようやく隣にいる男の顔を見た。


 年の頃は五十代半ばくらい。

 がっしりした体つきで、顔は岩みたいにゴツゴツしている。

 ヘルメットの縁からは、灰で真っ白になった髪が覗いていた。


「無事か?」


「……無事、です、たぶん」


 自分でも驚くほど情けない声が出た。

 男は、ふっとだけ目を細めた。


 その視線の先に、別の光景が広がっていた。


 登山道の脇、斜面の陰になった場所に、数人が横たえられている。

 動いている人もいれば、まったく動かない人もいる。

 顔にタオルをかぶせられている人もいた。

 その下からは何も見えない。


「あ……」


 声にならない声が漏れた。

 それでも、俺の頭にははっきりと言葉が浮かんだ。


 死体が、ゴロゴロ転がっている。


 さっきまで俺と同じように「初心者歓迎」の看板を眺めていたかもしれない人たちが、今はただの「物体」になって地面に横たわっている。

 不謹慎とか、そういうレベルじゃない。

 現実感がまるでないのに、目だけは妙にクリアにその光景を捉えていた。


「マジで……死ぬとこだった……」


 呟いた瞬間、背筋がぞっと震えた。

 ほんの少し、噴煙の出方が早かったら。

 ほんの少し、俺が立ち止まっていたら。

 この列の中の一つが、自分だったかもしれない。


「山とは、そういうものなんです」


 男が低く言った。

 誰に向けて、というわけでもなく、ただ確認するように。


「……そういう、ものって……」


 俺は振り返った。

 声が荒くなっているのが自分でもわかった。


「そういうもので、済ませるんですか。人が、こんなに、ゴロゴロ死んでるのに」


 男は、少しだけ目を伏せた。

 口を一文字に結ぶ。

 しばらくしてから、ゆっくり顔を上げたとき、その目には、諦めとも違う、もっと複雑なものが宿っていた。


「受け入れるしかないんだ。山は、人間の都合なんか知らない。それでも登ると決めたのは、俺たちだ」


「そんなの、理屈じゃないですよ」


「理屈じゃないさ」


 男は短く言って、ふと俺を見た。


「初めての登山か?」


「……はい」


 途端に、恥ずかしさと怒りと、よくわからない感情がごちゃまぜになって溢れた。


「どうしてくれるんですか、俺の初登山。もっと、なんか、こう……気分最高で、インスタ映えする頂上でラーメン食って、ドヤ顔で写真撮って……そういうやつだと思ってたのに」


 情けない。

 言いながら自分でもそう思った。

 でも、止まらなかった。


「山って、もっと優しいもんだと思ってたんですよ。ちゃんと準備して、注意事項守って、危ないときは撤退して……そうすれば、なんとかなるって。なのに、いきなり大噴火とか、聞いてないですよ。『山とはそういうもの』って、そんなの、納得できるわけないだろ」


 言葉の最後の方は、ほとんど泣き声だった。

 悔しさなのか恐怖なのか、自分でもよくわからない。


 男はしばらく黙っていた。

 降りしきる灰の中、ただ呼吸だけが聞こえる時間が流れた。


 やがて、彼はゆっくりと口を開いた。


「……さっきな」


 その言葉には、妙な重さがあった。


「さっき、お前が俺の腕にしがみついてきただろう」


「あ、はい……すみません」


「謝るな」


 男は首を振った。


「お前が腕にしがみついてたせいで、俺は両手が塞がった。もし、あの時、俺の手が空いてたら……たぶん、あそこで倒れてた何人かを、一緒に引っ張れた。そう思う瞬間が、正直、なかったわけじゃない」


 頭を殴られたような衝撃だった。


「……」


「だがな」


 男は、はっきりと言葉を区切った。


「その場合、お前はここにいなかったかもしれない」


 俺は、何も言えなかった。

 口の中がカラカラに乾いている。

 心臓の鼓動だけが、やたら大きく聞こえた。


「山の事故ってのは、そういうもんだ。誰を助けられて、誰を助けられなかったのか。選んだわけじゃないのに、結果としてそうなる。そのたびに、何十年経っても、ああすればよかったんじゃないかって自問自答する。俺たちは、それを抱えたまま、また山に入る」


「……また、登るんですか」


「登る」


 即答だった。


「山が人を殺すからって、山をやめるなら、最初から山には近づかない方がいい。それでも登りたいと思うなら、覚悟を決めるしかない。『山とはそういうもの』ってのは、諦めじゃない。そういう現実を飲み込んだ上で、それでも好きだって言うための、最低限のスタートラインなんだ」


 最低限の、スタートライン。

 その言葉が、やけに耳に残った。


 俺は、自分の新品のジャケットの袖を見下ろした。

 さっきまでピカピカだった生地は、灰と泥でまだら模様になっている。

 胸につける予定だったアクションカメラは、どこかで失くした。


「……俺、山、ナメてました」


 ようやく絞り出した言葉に、男は小さく息を吐いた。


「ナメてるやつは、だいたい一度はこういう目に遭う。運が悪けりゃ、そこで終わりだ。運がよけりゃ、生きて帰って、考え直す時間をもらえる」


「運が……よかったんですか、俺」


「ああ。少なくとも今はな」


 男はそう言って、ゆっくり立ち上がった。


「俺は昔、山岳救助隊の隊長をやってた。今も半分引退みたいなもんだが、山にいれば、つい周りを見ちまう。今日は、たまたまお前の近くにいた。それだけの話だ」


 たまたま。

 その「たまたま」の重さが、今の俺にはうまく測れなかった。


 遠くから、ヘリの音が聞こえてきた。

 救助隊が本格的に動き始めたらしい。

 誰かが名前を呼ばれ、誰かがストレッチャーで運ばれていく。


 俺は、立ち上がれなかった。

 膝が、まだ山の揺れを覚えているみたいに震えていた。


 男がふと、俺の背中のザックを軽く叩いた。


「その装備、悪くない。使い方をちゃんと覚えれば、いい相棒になる。ただ、山は、ゲームじゃないし、ガチャでもない。命、課金できないからな」


 皮肉なのか冗談なのか、判別しづらい言い回しに、俺はかすかに笑った。


 笑えた自分に、少しだけ驚いた。

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