第3話 「ハイキングコース」という名の、ガルダへの第一歩
翌週末、俺は新品の登山セットで身を固めて、車で一時間の「近所の山」に向かった。
標高はそこそこ。ふもとには観光案内所と土産物屋と、やたらこぎれいなトイレ。
正直、想像していた「未踏峰」感は一ミリもない。
入口の看板には「初心者歓迎・家族連れでも安心のハイキングコース」と書かれている。
道の駅で買った焼き団子をほおばってる子供たち。
自撮り棒で写真を撮ってるカップル。
ストックまで揃えてるやつは少数派で、スニーカーにジーンズの観光客も多い。
「ま、今日は肩慣らしだからな」
そう自分に言い訳しつつも、心の中ではこの整備された登山道を、勝手に「ガルダ登頂計画第一歩」と命名していた。
足を踏み出す。
砂利の感触。想像よりもしっかり固い。
森の匂いが鼻をくすぐる。湿った土、枯れ葉、どこかで咲いてる花の甘い匂い。
吸い込む空気が、街の排気ガス混じりのそれとはまるで違うのがわかる。
「山、スゲー」
口からこぼれた感想が、そのまんますぎて笑えた。
でも、陳腐な言葉しか出てこない。
動画で見ていた「ナイフリッジ」とか「アイスクーロワール」とか、そういうカタカナ装備の語彙を全部合わせても、この空気のきれいさには勝てない。
整備された岩場で、一段一段登るたびに呼吸が少しずつ早くなる。
心臓がドクドクと胸を叩く。汗が背中を伝う。
きつい。けど、きつさの向こう側に、確かに快感がある。
途中でベンチのある展望台に出た。
眼下に街が見える。ビルや道路がミニチュアみたいだ。あそこで渋滞してる車の中の誰かは、たぶん今俺がここにいることを一生知らない。
「レビルさんも、こんな感じで空眺めながらコーヒー飲んでたのかな」
ポットから注いだインスタントコーヒーをすすりながら、ふとそんなことを思った。
五百年前はさすがにインスタントじゃなかっただろうけど、冷たい大気を肺いっぱいに吸い込んで、じんわりと体内が温まるあの感じは、たぶん今も昔も同じだ。
ふと隣のベンチの会話が耳に入る。
「この間さ、隣の山で落石事故あったの、ニュースで見た?」「それそれ、ヘルメットしててもダメだったって」「やっぱ山は怖いよねえ」
怖い、ねえ。
落石事故のニュースは俺も見た。ヘリがホバリングしてる映像に、テロップで「山岳遭難」とか出てたやつだ。
でも、俺の頭の中には別のイメージがある。
転がってくる岩。スローモーション。
それをひらりとかわす俺。
アクションカメラには、地面を跳ねる石と、俺の見事なステップワークが映る。再生数は二百万回。コメント欄は「リアル・パルクール」「回避性能Lv.5」とか、そんな感じ。
「岩の一つもよけられないとか、ありえないだろ」
つい、口に出してしまった。
隣のカップルが一瞬こちらを見て、すぐに会話に戻る。
俺は、カップを傾けながら、自分の脳内アクションをもう一回再生した。
イメトレは完璧だ。
あとは実戦があるだけ。
ガルダに比べれば、ここなんか余裕だ。
そう思っていた。
下山道の分岐に差しかかったあたりで、空気が、ほんの少しだけ変わった。
風が一瞬止んで、鳥の鳴き声がやんだ気がした。
けれど、そのときの俺は、まったく気づいていなかった。




