第10話 登山ってなんだっけ
ファイルを閉じてしばらく、俺は何も言えなかった。
ネルソンの足跡。
王笏を杖にして五万メートルを登り、三箇所の山頂候補すべてに旗を立て、期限を守るために氷河のクレバスを三段跳びで越え、帰ってきてからは政治的な地雷を軽やかに避ける。
「登山って……なんだっけ」
ようやく出てきた言葉がそれだった。
「俺が YouTube で見てた山頂ラーメンとかご来光タイムラプスとか、全部かわいく見えてきました」
「かわいいんだよ。ネルソンのスケールで言えば、人が一生に十回八千メートル峰に登っても『山行の一部』くらいの感覚かもしれん」
「ヤバいな、その感覚」
「しかも、それを全部ほぼ走りながらやってるからな」
「そこが一番ヤバいですって」
隊長さんは、ふっと真顔に戻った。
「……で、どうする。それでもガルダを目指したいか?」
五万メートル。
成層圏を貫く超山塊。
単独無酸素で三山頂を制したネルソン。
それに比べて、初めての登山で噴火に巻き込まれ、隊長に腕を引っ張られてなんとか生還した俺。
「今の自分が『行きたいです!』なんて言ったら、ネルソンに殴られそうですね」
「そうだな」
二人とも、少し笑った。
窓の外を見ると、ビルの隙間から、かすかに例の「白い壁」が見えていた。
そのずっと向こうに、本物のガルダがある。
地平線どころか水平線に聳え立つ、五万メートルの怪物。
「でも……」
俺は、コーヒーのカップを両手で包み込みながら、ゆっくりと言った。
「ネルソンが一人で行って、一人で帰ってきて、三本も旗立てて、『王冠いらないです、お腹すきました』って笑ってる話聞いたら……逆に、ちゃんと怖くなりました」
「逆に?」
「だって、あそこに実際に行って帰ってきた人間がいるってことですよね。教科書の外にある、地図の端っこの、空と間違われてた場所に。人間が一人だけ、到達してる」
ネルソンがやったことは、常識からすれば頭がおかしい。
でも「不可能」ではなかった。
五万メートルの壁に、確かに人の足跡がついている。
「だからこそ、いい加減な気持ちでは絶対触っちゃいけないって、わかった気がします。山ナメてるボンボンのまんま、『俺もガルダ初投稿!』とか言ってたら、マジで笑えない」
「……ようやく、スタートラインの話ができるな」
隊長さんは、静かに微笑んだ。
「『山とはそういうもの』って言葉、前はムカついたろう」
「あの時は正直、『受け入れるなよ』って思いました」
「だが今なら、少しは意味が変わって聞こえるんじゃないか」
窓の外の前座を見ながら、俺はうなずいた。
「はい。そういうものだって知った上で、なおかつ、いつか『それでも』って言えたらいいな、とは思います」
「今言うな。十年早い」
「言ってないじゃないですか、“いつか”って言ってます」
「その“いつか”を引き延ばすくらいには、ちゃんとトレーニングしろ」
ナポリタンの皿が空になるころ、俺の中で「ガルダ」は別物になっていた。
九千メートルのカッコいい未踏峰ではない。
海の向こうの空を突き破る、五万メートルの大霊峰。
その足元に、いつか本当に立てる日が来るかどうかなんて、今は想像もつかない。
でも、ネルソンのクレバス三段跳びと、王笏を返すあの瞬間を思い出すたびに、心のどこかが落ち着かなくなる。




