空に浮かぶ名前
青春という時間は、あまりに速く過ぎていきます。
笑い合った瞬間も、涙をこらえた瞬間も、気づけば思い出に変わってしまう。
それでも、確かにそこにあった気持ちは、誰かの中で生き続けるのだと思います。
本作『空に浮かぶ名前』は、ひとりの少女を失った仲間たちが、それでも前を向いて歩もうとする姿を描いた物語です。
友情や恋心が交錯するなかで、人はどのように「大切な人の不在」と向き合い、自分自身を見つめ直していくのか。
この物語が、読み手の皆さん自身の心にある「かけがえのない人」や「忘れられない時間」と、静かに重なっていけば幸いです。
第一章 春、転校生はまだうまく笑えない
春の風は、少し気取っていて苦手だった。
桜の花びらが宙を舞うたび、「さあ、新しいスタートだよ」と急かされているような気がする。
そういうのが昔から、どうにも好きになれない。
瀬川海翔は、青崎高校の校門をくぐると、白い息をひとつ吐いた。
四月にしてはまだ肌寒い朝だったが、空は澄みきっていて気持ちがよかった。
東京からこの地方都市「青崎市」に越してきて、一週間。慣れない方言と、どこかのんびりした時間の流れに戸惑っていた。
「えーっと……1年B組、だよな……」
角の廊下を曲がると、教室のドアが開いていた。
中では、すでにクラスメイトたちが騒がしく会話を交わしている。
誰かがこちらに気づき、「あ、転校生!」と声を上げた。視線が一気に集中する。
「瀬川海翔です。……東京から来ました。よろしくお願いします」
淡々と自己紹介を終えると、教室内にまばらな拍手が起きた。
先生が「じゃあ、空いてる席……安藤の隣がいいかな」と言った。
教卓のすぐ右側、窓際のいちばん後ろ。
日当たりがよく、放課後には夕焼けがきれいに見えそうな場所だった。
「おーい、海翔くん。とりあえず、今日はボーッとしててもいいから」
そんな声がして、視線を向けると——
ぱっと光が射し込んだような笑顔が、そこにあった。
その笑顔の主は、安藤ひかり。
肩までの栗色の髪が、春の光を透かして揺れている。
声も表情も、まるで太陽みたいだった。
その日から、ひかりは毎日なにかと話しかけてきた。
「購買、行ったことないっしょ? メロンパンが秒で売り切れるから急ご」
「てか、生徒会長マジでお堅いから、海翔くんも気をつけて」
「……あれ、まだ笑ってないよね? いつか撮れたらラッキーって感じかな〜」
海翔は最初、ひかりが“クラスの人気者”だから話しかけているのだと思っていた。
でも、だんだん違うとわかってくる。彼女の言葉は、ちゃんと自分に向けられていた。
それが、少し怖くもあった。
ある日の放課後、海翔はつい口にしてしまった。
「……なんで、そんなに俺に構うの?」
ひかりは少し驚いたような顔をして、そして笑った。
「構ってるって言い方、ちょっとツンツンしてない?」
「でも、うーん……なんかね、最初からわかったんだよね。あ、この人、まだ“こっち側”に来てないって」
「こっち側って……?」
「うん。笑ったり、怒ったり、好きになったり、そういうのができる“普通”のとこ。海翔くん、まだ全部どこかで止めてるでしょ?」
図星だった。
彼女の言葉は、まるで心の奥に手を伸ばしてくるみたいだった。
「……そんなの、あんたに関係ないだろ」
語気が少しだけ強くなった。
でもひかりは、まったく動じなかった。
「うん。関係ない。でも、気になるじゃん?」
言葉の意味がすぐには飲み込めず、海翔は答えられなかった。
だけど、ほんの少しだけ、胸の奥があたたかくなったような気がした。
空を見上げると、春の雲がゆっくり流れていく。
この地方都市の空は、東京よりずっと広くて、青い。
——たぶん、この日を境に、海翔の“止まっていた時間”が、少しずつ動き出していた。
第二章 君と一緒に笑えるなら
昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気が一気にやわらいだ。
椅子を引く音、弁当のふたを開ける音、遠くで誰かの笑い声。そんな日常の喧騒の中で、海翔は手元のプリントをぼんやりと見つめていた。
「文化祭で……演劇?」
紙には、クラスの出し物が“演劇”に決まったと書かれている。
転校してきて十日も経っていない海翔には、いささか唐突に感じられた。
「そうそう。先生が『青春らしいのがいい』とか言って、それっぽい感じでまとまっちゃったんだよね」
隣の席から聞こえてきたのは、ひかりの声だった。
笑いながら、彼女は箸で玉子焼きをつまむ。
「でね、ほのかが脚本書いてきて、なんかいい感じになったの。青春×ファンタジー×ちょっと恋……って感じ」
「オリジナル……なの?」
「うん、ほのかって、文芸部で小説書いてるの。地味だけど、想像力すごいよ。よかったら今度読ませてもらいなよ?」
“ほのか”とは、窓際の席で静かに本を読んでいる、皆川ほのかのことだろう。
海翔がまだ話したことのない数少ないクラスメイトの一人だ。肩までの髪に、猫背気味な姿勢。ときおり誰かに話しかけられると、少し驚いたように顔を上げる。
口数は少なそうだけど、ひかりとは仲が良さそうだった。
「でも……俺、そういうの、得意じゃないんだ」
海翔は正直に言った。
小学校の劇で緊張しすぎてセリフを忘れた記憶がいまだに残っている。
「まぁ、最初はみんなそんな感じだよ。ほのかだって、最初は“裏方がいい”って言ってたけど、ナレーションやることになって張り切ってるし」
ひかりの言葉に、どこか不思議な安心感があった。
この街に来てからずっと張りつめていた心が、少しずつほどけていく気がする。
「ていうかさ、演劇って海翔くん向いてそうだけどな」
「え、なんで」
「だって、転校初日、教室の前で深呼吸してたじゃん? あの一呼吸、“入る前の主人公感”あったもん」
「見てたのかよ……」
「見てたよ。だって気になったもん、急に転校生って」
からかうように笑うひかりの顔を見て、海翔は思わず視線をそらした。
そのとき、教室の後ろから陽気な声が飛んできた。
「よーし! 王子様役は瀬川で決まりだな!」
振り返ると、陽に焼けた肌と爽やかな笑顔が目に入る。
西條大地——陸上部のエースで、明るくて社交的。クラスの中心人物といってもいい存在だ。
どうやらひかりとは中学からの付き合いらしく、誰にでも気さくに話すが、時折見せる沈んだ横顔に、海翔は妙な静けさを感じていた。
「いや、俺はそういうの無理……」
「先生ー! 瀬川がやりたいって言ってます!」
「言ってねぇよ!」
クラスの笑い声が巻き起こる。
完全にいじられキャラの流れだが、不思議と悪い気はしなかった。
その日の放課後から、演劇の準備が始まった。
配られた台本は、まるで童話のような物語。
王国の王子が、森の中で村娘に出会い、国を捨ててでも彼女を守ると誓う——そんなストーリーだ。
主な配役はこうだった。
•王子:瀬川海翔
•村娘:安藤ひかり
•王子の親友:西條大地
•語り手・脚本:皆川ほのか
読み合わせが始まると、最初はぎこちなかった声も、時間とともに少しずつなじんでいった。
ひかりは演技が上手く、感情のこもったセリフにクラスも驚いていた。
そして、海翔が初めて本気でセリフを読んだとき——
「お前の笑顔を守りたい。……たとえ、すべてを敵に回しても」
練習後、ひかりが隣にやってきて、小声で言った。
「……ちょっと本気入ってた?」
「……別に、台本通り」
「そっか。でも、なんか……うれしかった。言葉って、ちゃんと届くんだね」
そう言って、ひかりはふっと笑った。
夕暮れの帰り道、ふたり並んで歩く道すがら。
「ねぇ、今日の演技、ほんとよかったよ。だって、海翔くん、ちょっとだけ笑ってた」
「……え、うそだろ」
「ほんと。少しだけ口元、ゆるんでたもん」
それを聞いて、海翔は不意に照れて目をそらした。
自分が笑っていたなんて、気付かなかった。
「……笑うの、得意じゃないんだ」
「うん。でも、ちょっとずつ慣れていこう? あたしも、海翔くんと一緒にいると、なんか笑っちゃうし」
彼女の言葉に、心の奥で何かが温かく灯った気がした。
まだうまく笑えないけど。
でも、この街で、この人たちとなら——
少しずつ、変わっていける気がした。
第三章 隠したままの痛み
「ひかり、今日来てないのか?」
体育館の端で舞台セットの確認をしていた海翔は、ふとつぶやいた。
彼の視線は、ぽっかりと空いた“主役の立ち位置”へと注がれていた。
その声に、ストレッチ中だった大地が水を飲みながら振り向く。
「……LINE、送ったけど、既読つかねえ」
「昨日も、なんか様子おかしかったよな。セリフ飛ばしてたし、顔色も……」
「うん。『寝不足』って言ってたけど……違う感じだった」
二人の会話の合間に、体育館の天井の明かりが淡く唸りを上げている。
確かに、ひかりは最近少し変だった。
笑ってはいた。冗談にも反応していた。
でもそれは、まるで薄いフィルター越しのようで、いつもどこか心ここにあらずだった。
その笑顔の奥に、何かを隠している——そう感じていたのは、きっと海翔だけではない。
練習はそのまま進められたが、舞台全体のテンポは狂いがちで、主役の不在が全員の集中を奪っていった。
海翔の視線は何度も体育館の扉のほうをちらちらと見てしまう。
そこから、元気に「遅れてごめん〜!」と駆け込んでくるひかりの姿を、どこかで期待してしまう自分がいた。
だが、扉が開くことはなかった。
練習が終わり、皆が後片付けを始める頃、大地がそっと近づいてきた。
「……心配、だな」
ぽつりと落とされた声が、やけに重く感じた。
「何か……話してなかった?お前、最近ひかりとよく話してただろ」
「……いや。何も。むしろ、話してないことが増えてる気がする」
自分でもその言葉に戸惑った。
距離が近くなったと思っていたはずなのに、どこかすれ違っていくような、そんな感覚がここ数日続いていた。
片付けを終え、皆が体育館から帰っていく中、海翔はひとり、窓際に立ち尽くしていた。
空はすでに夕暮れのオレンジに染まり、体育館の高い窓から斜めに射す光が、床の木目を長く引き伸ばしている。
(ひかり……どこにいるんだよ)
何気なく視線を落としたとき、ふと、ある記憶がよみがえった。
——「校舎裏のベンチ、落ち着くんだよね。人があんまり来ないし……ぼーっと空見るにはちょうどいいの」
あれは、確か夏の終わり。部活終わりの帰り道で、何気なく交わした会話。
そのときは、ただの世間話のひとつとして流していた。
でも、なぜかその言葉が今になって、胸にひっかかる。
(……行ってみるか)
思い立ったように、海翔は体育館を飛び出した。
夕暮れの風が、制服の裾を大きく揺らす。
落ち葉の舞う渡り廊下を抜け、グラウンド脇のフェンス沿いを歩く。
校舎裏のベンチは、昼間でもあまり人が来ない。
ひかりが言っていたように、確かに“隠れ場所”のような場所だった。
ベンチが見えた——そして、その上に、小さく座る誰かの姿があった。
「……ひかり」
背を向けて座っていたその人物が、海翔の声にゆっくりと振り返る。
「海翔くん……?」
驚きと、どこかばつの悪さを滲ませた声。
そして、すぐに彼女は笑った。いつものように。
「……どうしたの? 探しに来たの?」
「……ああ。お前、なんか今日、変だったから」
海翔は彼女の隣に腰を下ろす。
すぐそばにいるのに、どこか遠く感じる。
「具合、悪いの?」
「ううん、大丈夫。ちょっと寝不足かな。今日、昼ごはんも食べられなくてさ」
ひかりは空を見上げて、はにかむように言った。
けれどその笑みは、目元のクマと乾いた唇がすべてを物語っていた。
無理をしている。誰が見てもわかる。
でも、彼女はそれを絶対に認めようとしない。
「……お前、最近ずっとそんな感じだよな。何か、あったんだろ?」
「……」
ひかりは何も答えず、そっと膝を抱えて肩をすくめた。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「……誰にも、言えないの?」
問いかけに、ひかりは少しだけ首を振った。
「……ううん。言わないんじゃなくて、言いたくないの。……言ったら全部変わっちゃいそうで。だから……言わないの」
風が吹いた。葉がさらさらと音を立てて舞った。
海翔は、何も言えなかった。
何が正解かわからなかった。ただ、彼女の隣にいることしかできなかった。
しばらく、沈黙が二人を包んでいた。
やがて、ひかりが小さくつぶやいた。
「……でも、こうして来てくれて、嬉しかった」
その横顔に、海翔は目を奪われた。
儚くて、でも確かにそこにある、そんな“命のきらめき”を感じた。
「……そばにいるから。ちゃんと」
その言葉に、ひかりはようやく、ほんの少しだけ目を潤ませた。
初夏の空は、もうすぐ夜に変わろうとしていた。
校舎裏の風景に、静かに影が落ちていく。
第四章
遠ざかる日々と、見えない痛み
文化祭の準備は、日に日に慌ただしさを増していた。
教室は笑い声と活気に満ち、みんなが一丸となって成功を願っている。
だが、ひかりの姿は、もう何日も学校で見かけることがなかった。
最初のうちは、ただの体調不良だろうと思っていた。
「ひかりは大丈夫かな?」と誰もが口にしたものの、忙しさにかき消され、心配は薄れていった。
だが、時間が経つにつれ、その空席がどんどん大きくなっていくのを、誰もが感じていた。
大地は、机の上に置かれたひかりのノートを見つめていた。
そこには書きかけの演劇の台本やメモが残されている。
「ひかり、帰ってくるのかな……」
呟くその声は震えていた。
仲間たちは、誰もがひかりのことを心配していた。けれど、本人が何も語らない以上、どうしようもできないもどかしさがあった。
海翔もまた、放課後の校舎裏を一人で歩いていた。
夕暮れの光が長く伸び、影がゆらゆらと揺れる。
(連絡しても、返事はない。ひかり、今どうしてるんだろう)
心の中に沈む不安は、日に日に大きくなっていく。
ある日、大地が勇気を振り絞って電話をかけた。
「ひかり、元気?」
応答はなかった。
けれど、繋がっただけで、胸の奥が締めつけられるようだった。
何度も、何度も電話をかけ、メッセージを送った。
【無理しないで、いつでも待ってるよ】
【ひかり、話したいことがあったら、聞くよ】
それでも、彼女からの返事はなかった。
実は、ひかりの心の奥では、毎日が必死の戦いだった。
誰にも見せたくなかった、弱い自分。
呼吸が苦しくなり、体が思うように動かなくなる日々。
病気のことを自分から口に出せば、みんなの優しさが痛みを増幅させる気がした。
だから、ひかりは孤独の中で、それでも笑顔を作り続けていた。
そんなある日、海翔は偶然、ひかりの家の近くで彼女の姿を見かけた。
窓から差し込む夕日の中で、小さく震える背中。
それは、学校で見せる強いひかりとはまるで違った。
「ひかり……」
声をかけたかったが、遠くから見守ることしかできなかった。
家に帰る道すがら、海翔の胸には切なさが溢れた。
「どうして、もっと早く教えてくれなかったんだ……」
その夜、海翔は大地と話し合った。
「俺たち、何も知らなかった。ひかりがずっと一人で抱えてたなんて……」
「でも、まだ間に合う。俺たちがそばにいてやらなきゃ」
二人は固く決意した。
ひかりに届くように、優しい言葉を送り続けようと。
そして、いつか彼女が安心して帰って来られる場所を、みんなで作ろうと。
文化祭の準備は続く。
でも、彼らの心には、ひかりへの変わらぬ想いが静かに燃え続けていた。
第五章
知らされる真実と、それでも変わらぬ想い
夏の午後、陽が傾き始めるころ。オレンジ色に染まりはじめた空の下、海翔と大地はひかりの家の前に立っていた。風が向日葵の香りを運び、彼らの背中を優しく押す。
門の上に吊るされた風鈴が、カラン……と寂しげに鳴った。
インターホンのボタンを押す指が、ほんのわずかに震えていた。
心のどこかで、ひかりはただ風邪でも引いているだけだと、そう信じたかった。でも、数日も学校を休んでいるのに、誰もその理由を語ろうとしない。それが、逆に何かを物語っている気がしてならなかった。
――なぜ、あんなに元気だったひかりが急に。
ドアの向こうから足音が近づいてきた。
ゆっくりと玄関の扉が開く。現れたのは、ひかりの母親だった。
やわらかな目元に、どこか影のような疲れが浮かんでいる。けれどその表情は、ひかりと同じように、優しさをにじませていた。
「海翔くん、大地くん……来てくれてありがとう」
思いがけない来訪に少し驚きながらも、彼女は丁寧に頭を下げた。
「でも、ひかりは、今……家にはいないんです」
その一言に、空気が変わった。
まるで、時間が一瞬だけ止まったような静けさが辺りに流れる。
海翔の胸の奥が、ズシンと重くなる。
大地は、何かを悟ったように目を伏せた。
「……すみません、あの……ひかりさん、どこか……」
海翔の声はかすれ、喉の奥が熱くなった。
ひかりの母親は、少し逡巡した後、目を細めて穏やかに語り始めた。
「ひかりは、今……病院にいます。数日前から入院していて……」
その言葉を聞いた瞬間、海翔の心の中で、何かが崩れた。
「ひかりは、もともと難しい病気を抱えて生まれた子なんです。
……外から見ても、たぶん分からなかったと思います。でも、少しずつ身体は弱っていって……」
ひかりの母親の声は静かだったが、そこに込められた想いは痛いほどに伝わってきた。
「お医者さまからは、あまり長くは生きられないだろうと……ずっと前に言われていました。
でも、あの子は……普通の子と同じように生きたいと願って、ずっと頑張ってきました。皆さんに心配をかけたくない、可哀そうだと思われたくないって……。だから、学校でも病気のことは一切言わなかったんです」
言葉を受け止めながら、海翔の目には次第に涙がにじみ始めていた。
教室で見せてくれた、あの明るくて、少し意地悪で、それでも優しい笑顔が――心に焼きついて離れない。
大地は唇を噛み、俯いたまま拳をぎゅっと握りしめた。
彼女のそばにいたのに、何も知らなかった自分が、何もできなかった自分が、ただ悔しかった。
「……何か、できることがあれば、なんでもします。ひかりに伝えてください。俺たちは……俺たちは、ずっとひかりの味方ですから」
海翔の声は震えていたが、その眼差しはまっすぐだった。
母親はしばらく二人を見つめ、やがて微笑んだ。
その瞳には、光るものが浮かんでいた。
「ありがとう。……そう言ってもらえるだけで、あの子は、きっと……どれだけ嬉しいか分かりません。……また、会いに来てくれますか?」
「もちろんです」
海翔と大地は、同時に頷いた。
帰り道、空は深い朱色に染まっていた。風に揺れる木の葉がカサカサと鳴り、どこか物悲しい音に聞こえた。
ひかりの家から遠ざかるたびに、胸の奥にぽっかりと空いた穴が、じんわりと広がっていく。
けれどその穴の中には、ただの悲しみではなく、彼女を守りたいという、確かな想いが灯っていた。
(俺たちは……まだ終わってない。これからだ)
その想いだけを胸に、二人は夕暮れの道を歩き続けた。
第六章
それぞれの想い、揺れる決意
帰り道、風が冷たく感じられたのは、気温のせいではなかった。
何故だか今日の空はどこか重く、灰色がかって見えた。
ひかりの家からの帰り道、海翔と大地はほとんど言葉を交わさなかった。
何を言えばいいのか、わからなかった。
いや、きっと、お互いに言葉にしたくなかったのだろう。あの事実を――声に出した瞬間、現実として突きつけられるから。
「なあ、海翔」
信号待ちの交差点で、大地がようやく口を開いた。彼の声は、思った以上に弱々しかった。
「……ひかりのこと、ずっと気になってたんだ。入学してすぐから。気が強くて、でも誰より気を遣ってて……不器用だけど、誰かをちゃんと見てる子だった」
海翔は静かに頷いた。
そのすべてが、自分も感じていたひかりの姿と重なった。
大地は、信号が変わっても歩き出さず、続けた。
「たぶん、俺……ずっと好きだった。だけど、それが恋なのか、守りたいって気持ちなのか、わからなくなってた。でも……今はもう、どうでもよくなった」
海翔は、ゆっくりと視線を向ける。
「どうでも、って……?」
大地は、少しだけ笑った。けれど、その笑みは苦しげだった。
「だって、さ。好きだ好きだって、自分の想いばっかりで、あいつの気持ち……考えてなかった。俺、全然わかってなかったんだ。あいつが、あんな病気抱えて、誰にも言えずに……どんな気持ちで、笑ってたのか」
その声には、悔しさと、どうしようもない無力感が滲んでいた。
海翔もまた、自分の胸の奥に同じ感情が渦巻いていることを感じていた。
「……俺だって、わかってなかったよ。いつも明るくて、笑ってて、勝気で……。でも、本当は、俺たちよりずっと強がって、隠してたんだよな」
ふたりは黙って歩き出した。街の灯りが、ぽつりぽつりと灯り始める。
「なあ、海翔。お前……」
大地がふと、立ち止まり、振り返った。
「お前、ひかりのこと……どう思ってんの?」
問いは唐突だった。けれど、海翔の中ではずっと答えが出ていた。
「……好きだよ」
それは、まっすぐな言葉だった。
「最初は、ただのクラスメイトだった。からかってきたり、怒ったり笑ったり、落ち着かない奴だなって思ってた。でも、気づいたら……ずっと目で追ってた。言葉を交わすたびに、心が揺れてた」
大地は、少しだけ目を伏せた。そして、小さく笑って言った。
「……だよな。知ってたよ。あいつも、お前を見てるときだけ、少し表情が変わるんだ。俺には、見せたことのない顔をしてた」
沈黙が流れた。けれど、それは苦しいものではなく、互いの想いを認め合うような静かな空気だった。
「俺さ、もう自分の気持ちは伝えない。伝えたって、あいつを困らせるだけだし……それに、お前のそばにいる方が、あいつも嬉しいと思う」
海翔は目を見開いた。
「大地……」
「でもな、お願いがある。お前だけは、絶対にひかりを一人にしないでくれ。あいつ、強がってるけど、本当はすごく寂しがり屋だから」
その言葉が、海翔の胸に深く突き刺さった。
彼は拳をぎゅっと握りしめた。
「……わかった。俺、行くよ。あいつのところに。今すぐじゃなくても、ちゃんと……会いに行く。あいつの気持ちをちゃんと聞いて、ちゃんと答える」
決意は、静かだけれど確かな熱を帯びていた。
この想いはもう、胸に閉じ込めておくだけじゃ駄目なんだ。
言葉にして、向き合って、未来を選ぶために。
たとえ、残された時間が短くても――
それでも、届けたい想いがある。
第七章 扉の向こうにいる君へ
病院のロビーは、午後の光に包まれていた。
白い壁、静かな空気、時おり聞こえるアナウンスの音だけが、時間の流れを告げている。
海翔は、自動ドアをくぐったときからずっと、自分の心臓の鼓動が速くなっているのを感じていた。
初めて来たはずのこの場所が、どこか懐かしく思えたのは、きっと――ひかりがここで過ごしているからだろう。
受付をすませ、教えられた病室の番号を確かめる。
5階の西病棟。窓の多い、陽当たりのいいフロア。
ひかりの母からは、海翔が来ることは伝えられていた。
だが、ひかり自身は誰にも会いたがっていないという話も聞かされている。
それでも、海翔は足を止めなかった。
たとえ扉の向こうで拒まれても、自分の気持ちを届けたいと思っていた。
「……502号室」
プレートを見上げ、深呼吸をひとつ。
ノックの音が、やけに大きく響いた気がした。
「……どうぞ」
少し間をおいて、かすかに聞こえた声。
海翔はそっと扉を開けた。
窓際のベッドに、彼女はいた。
白いカーテン越しに、春の陽が差し込んでいる。
あの元気だった制服姿とは違い、パジャマ姿のひかりは少しだけ細くなったように見えた。
けれど、振り返ったその瞳は、変わらず強く、まっすぐだった。
「……海翔、来たんだ」
「うん。会いに来た」
ひかりは、微笑んだ。その笑顔は、どこか照れたようで、でも嬉しさが滲んでいた。
「来なくてよかったのに。こんなとこ、つまんないよ」
「ひかりがいる場所なら、どこだって俺にとっては特別だよ」
海翔のその一言に、ひかりの目がわずかに揺れた。
彼女は、視線を外し、窓の外を見る。
「……お母さん、余計なこと言ったでしょ。私が病気で、長くは生きられないって」
「……うん。でも、それを聞いたからって、俺の気持ちは変わらない」
ひかりはふっと笑った。
「バカだな、海翔は。こうして会いに来てくれるのは嬉しいけど……でも、私と仲良くなると、きっと後悔するよ。泣くことになるよ」
その声は、静かで、優しくて、でもどこか自分に言い聞かせているようでもあった。
「じゃあ、ひかりは俺に泣いてほしくないの?」
「当たり前でしょ。泣かせたくないから、黙ってたし、離れようとも思ったんだよ」
「……俺は、泣いたとしても後悔しない」
海翔は、ひかりの横にある椅子に腰を下ろした。距離は近くなったけれど、それでもひかりは視線を戻さない。
「ひかり、俺ね、ずっと自信がなかった。自分にできることなんて何もないし、人と違うって思われるのが怖くて、いつも無難に生きてきた。でも……この町に来て、お前に出会って、変わったんだ」
「変わったって……何が?」
「好きな人に、ちゃんと好きだって言いたいって思えたこと。自分の気持ちに正直になりたいって、そう思った」
ようやく、ひかりの瞳が海翔を見た。
その瞳には、泣きそうな光が宿っていた。
「私ね……怖かった。自分が少しずつ弱っていくのも、それを誰かに見られるのも、なにより、好きな人を悲しませるのが一番怖かった」
「俺は、そんなの見たくないなんて思わない。ひかりのすべてを知りたい。強いとこも、弱いとこも――全部」
ひかりは、声を立てずに泣いていた。
静かに、ぽろぽろと涙がこぼれる。
「ほんとに、バカだな、海翔は……」
「うん。お前のことが好きだから、バカになるんだよ」
ひかりはそっと、海翔の手に自分の手を重ねた。
少しだけ冷たいその手に、海翔はしっかりと指を絡めた。
「ありがとう、来てくれて」
その言葉は、これまでのどんな言葉よりも、あたたかかった。
第八章 寄り添う時間
病室の薄いカーテンが風に揺れ、静かな空気の中でほのかな花の香りが漂う。
この場所には、忙しい外の世界とは違う時間が流れているようだった。
毎週末の放課後、そして文化祭の練習がない日。
海翔は必ず決まった時間に、ひかりの病室を訪れていた。
彼女はもう学校に通うことができず、入院生活を続けている。けれど、彼女のことを思う気持ちは、誰よりも強かった。
「ひかり、今日も来たよ」
海翔の声は少しだけ緊張していたが、彼女の顔を見るとそれはすぐに消えた。
ベッドの上で、ひかりは静かに微笑んだ。顔色は白く、痩せてしまったけれど、その瞳は以前のまま、しっかりとこちらを見ていた。
「来てくれるだけで嬉しいよ。無理しなくていいのに」
ひかりの声は優しく、それでいて少しだけ弱々しく響いた。
それでも、その言葉の裏にある強さは、海翔にはよくわかっていた。
「無理じゃないよ。海翔に会うのが、俺の一番の楽しみだから」
そう言うと、海翔はにっこりと笑いかけた。
けれどその笑顔は、胸の奥にある痛みを隠すためのものだった。
ひかりは窓の外の景色をぼんやりと見つめていた。
春の風が新緑の枝を揺らし、小鳥のさえずりがかすかに聞こえる。
病室という閉ざされた空間の中で、彼女はほんのわずかな外の世界の息吹に心を救われているようだった。
「海翔といると、不思議と怖さが少し和らぐんだ」
ひかりは小さくそうつぶやいた。
その言葉に海翔は胸がぎゅっと締めつけられた。
彼女の体は日に日に弱っているのに、どこかで必死に強くあろうとしているのだと痛感した。
「俺がいる限り、ひかりを一人にはしない。絶対に」
海翔は強い決意を込めてそう言い、彼女の冷たい手をそっと握った。
その手の温もりが、何よりも大切だった。
入院生活は決して楽ではなかった。
ひかりの体調は不安定で、笑顔が見られない日も増えていった。
それでも海翔は毎回、彼女に会うたびに新しい言葉や笑顔を引き出そうと努めた。
一方、大地は学校でひかりのことを想い続けていた。
気持ちを伝えられないまま、ただ遠くから見守ることしかできなかったけれど、ひかりが少しでも幸せでいてほしいと願っていた。
ある放課後、海翔と大地は学校の近くの小さな公園で顔を合わせた。
桜の木の下、風に舞う花びらが二人の間に静かに落ちていく。
ひかりは病院にいるため、その場にはいなかったが、三人の心は見えない糸で繋がっているようだった。
「ひかりがまた笑ってくれる日が、きっと来るはずだ」
大地は力強くそう言った。
その言葉に海翔は深くうなずき、目の奥を熱くした。
「絶対に諦めない。ひかりが笑顔でいられるように、俺たちは何でもする」
風が優しく吹き抜け、桜の花びらが舞い落ちる中、彼らは静かに未来を誓い合った。
自分を信じることの難しさを知りながらも、誰かを信じることの温かさと大切さを胸に、彼らの絆は少しずつ強くなっていった。
第九章
迷いと決意
週末の午後。
外の陽射しが街を包み込んでいた。
けれど海翔の足取りはどこか重く、いつもとは違う緊張感が胸の中で膨らんでいた。
「大丈夫かな…」
自問しながら、海翔は病院の5階へと続く白い廊下を歩く。
廊下の窓から差し込む光が、彼の影を長く伸ばしていた。
何度も訪れている場所だというのに、今日はなぜか心の中で不安が渦巻いている。
ひかりの病室のドアをそっとノックすると、薄く開いた隙間から柔らかな声が聞こえた。
「どうぞ」
海翔は静かにドアを開け、中に入った。
病室の中はいつものように整えられていて、ひかりはベッドの上で小さな本を読んでいた。
顔色はいつもより少しだけ青白く見えたけれど、その瞳は変わらず優しく輝いている。
「やあ、ひかり」
海翔の声にひかりは顔を上げ、小さな笑みを返した。
「来てくれてありがとう」
その笑顔に、海翔の胸はぎゅっと締め付けられた。
病気のせいで細くなった彼女の手を握り、そっと温もりを伝える。
「今日はどうだった?」
問いかけると、ひかりは少しためらった後にゆっくりと話し始めた。
「怖い日もあるよ。でも、海翔が来てくれると、少しだけ気持ちが楽になるの」
その言葉に海翔は心の奥から何かが溢れそうになった。
彼女の弱さを見せる姿を初めて見た気がしたのだ。
「俺がいるから、ひかりは一人じゃない」
力強くそう伝えたいのに、言葉がうまく出てこない。
だから彼はただ彼女の手を握り返し、そっと微笑んだ。
一方、学校では大地が教室の窓辺に立ち、遠くの青空を見つめていた。
ひかりのことが頭から離れず、自分の気持ちがもどかしくてたまらなかった。
「自分を信じるって、こんなに難しいんだ…」
大地は静かにそうつぶやいた。
彼は何度も何度も、ひかりに気持ちを伝えようと考えた。
けれど、長くは生きられない彼女のことを思うと、言葉を飲み込んでしまう自分がいた。
「でも…」
拳をぎゅっと握りしめ、決意を新たにした。
「諦めたくない。ひかりが笑っていてほしいなら、俺にできることは何でもやる」
同じ時間、海翔もまたひかりの病室で決心していた。
彼女のために何ができるかを考え、今まで以上にそばにいることを誓った。
——距離は遠くとも、心は繋がっている。
だから三人は、それぞれの場所で強く歩き出すのだった。
第十章
すれ違う時間と小さな希望
病室の中は静かで、機械の規則的な音だけが響いていた。
ひかりはベッドの上で布団に包まれ、窓の外の景色をぼんやりと見つめていた。
ゆっくりとドアが開き、海翔が入ってきた。
「具合はどう?、ひかり」
彼の声にはいつもの元気さはなく、少しだけ震えていた。
ひかりは顔を向けて、弱々しくも微笑んだ。
「海翔、来てくれてありがとう」
海翔は椅子に腰を下ろしながら、そっと言った。
「学校ではひかりがいなくてみんな寂しそうだったよ。俺も…会えなくてすごく寂しい」
ひかりは少しだけ目を伏せてから、また海翔を見た。
「うん…みんなに会いたいけど、今はまだ無理みたい。海翔の顔を見ると安心するよ」
その言葉に、海翔は胸が締めつけられた。
彼女が遠くに感じるのではなく、こうして目の前で話していることがどれほど尊いかを痛感した。
「ひかりが笑ってくれているなら、俺は何でもする」
海翔は彼女の冷たい手を握った。
その手の温度がいつもより低いことに気づき、胸が苦しくなった。
「寒くない?何か持ってこようか」
「大丈夫。海翔が来てくれたから、もう寒くないよ」
ひかりはかすかに笑った。
その笑顔に、海翔は救われる思いがした。
しかし、その日のひかりの体調は不安定で、呼吸が乱れ始めた。
海翔はすぐにナースコールを押し、看護師が駆けつけてきた。
「大丈夫だよ、ひかり。俺がそばにいるから」
ひかりは目を閉じ、かすかにうなずいた。
看護師に状況を説明され、海翔は病室の外で待つことになった。
深く息を吸い込み、彼はひかりのことを思った。
「どうか、もう少しだけ…」
一方、学校では大地が机に突っ伏していた。
彼もまた、ひかりのことを思いながら自分の気持ちと戦っていた。
「ひかりに好きだって言いたい。でも言えない。彼女をこれ以上悲しませたくないから」
もどかしさに胸を締めつけられながらも、大地は諦めずにひかりのためにできることを探し続けていた。
夕焼けに染まる空を見上げ、海翔はそっとつぶやいた。
「ひかり、もっと一緒にいてほしい」
三人の心は離れていても、確かに繋がっている。
第十一章
夏の終わり、静かな別れ
淡い夕暮れが病室の窓から差し込み、部屋の中を柔らかなオレンジ色に染めていた。
季節は夏の終わり。生命の儚さと美しさが入り混じる季節だった。
海翔はひかりの手を握り、彼女の穏やかな寝顔を見つめていた。
すでに深い眠りについているように見えたが、彼の胸には言葉にできない緊張が張り詰めていた。
ひかりの母親はそっと傍らに座り、重ねた手の上から優しく彼女の髪を撫でている。
「海翔くん、ありがとう。あなたがいてくれて本当に良かった」
海翔は静かにうなずき、言葉を選びながら声をかけた。
「ひかり、俺たちはいつも君の味方だ。辛い時も、嬉しい時も、ずっと一緒にいたい」
その時、ドアがゆっくりと開き、大地が入ってきた。
息を切らしながらも、ひかりの前に立ち、優しく微笑む。
「遅れてごめん、ひかり」
大地はそっとひかりのもう片方の手を握りしめ、静かな声で続けた。
「君のことが、ずっと好きだった。最後まで、伝えたくて」
ひかりの瞼がわずかに震え、ゆっくりと目を開けた。
その瞳は霞みがかっていたが、二人をしっかりと見つめていた。
「ありがとう……」
その声はかすかに震えながらも、確かな温もりを帯びていた。
ひかりの呼吸は徐々に弱く、浅くなっていく。
息を吸い込むたびに、小さく胸が上下する。
その姿に、海翔も大地も言葉を失い、ただ静かに見守った。
外では、夏の終わりの風がそっと吹き、窓の外の梢が静かに揺れていた。
乾いた蝉の声が遠くで響き、ひとひらの枯れ葉が、ふわりと病室の中へ舞い込む。
そして、ひかりの胸がゆっくりと、確かな動きを止めた。
海翔は涙をこらえきれずに声を震わせた。
「ひかり……ありがとう。君に会えて、本当に良かった」
大地も肩を震わせながら涙を流し、静かに呟いた。
「ずっと、忘れないよ」
三人を包むのは、切なさとやさしさが交差する、静かな夏の夜だった。
第十二章
秋空の約束と新たな未来
澄んだ秋の空気が、校舎の窓から差し込む朝日とともに、静かに教室を包んでいた。
夏の喧騒が過ぎ去り、どこか背筋が伸びるような凛とした空気の中、文化祭当日を迎えていた。
体育館の舞台袖では、クラスの仲間たちが最後のリハーサルに集中していた。
紅葉が色づき始めた木々の葉が風に揺れ、窓から入る光が少しだけ柔らかくなっていた。
海翔と大地も、緊張の面持ちで控えていた。
演劇部の一年生が、ひかりの代役としてヒロイン役を演じることになっていた。
彼女は懸命に、台本の端に残されたひかりの書き込みをなぞるようにして、何度も練習を重ねていた。
「ひかりの代わりなんて、どこにもいないけどさ」
海翔がぽつりと呟く。
「でも、こうして誰かが声をつなげていくってことが、きっとひかりが残してくれた意味なんだと思う」
大地が静かに答えた。
開演前の緞帳の向こうでは、全員が最終確認を終え、深呼吸をする。
海翔と大地も、仲間たちと共に深く息を吸い、舞台へと歩みを進めた。
緞帳が静かに上がる。
秋色に彩られた舞台には、彼らのこれまでの想いがすべて詰まっていた。
笑いあり、涙あり、そして何より、心に残る瞬間がひとつずつ丁寧に描かれていく。
物語のクライマックス――
自分を見失い、葛藤する主人公が再び前を向くシーン。
海翔はまっすぐ前を見て、セリフを放った。
「信じるってことは、不安の中に足を踏み出すことだ。
でも、誰かの想いがそこにあれば、人はきっと、自分の足で歩いていける。
大切なものを、心の中に持っていれば、前を向けるんだ」
静まり返る会場。
誰もがその言葉に、どこか自分自身を重ねていた。
カーテンコール。
深々と頭を下げる中、海翔は空を見上げる。
秋の夕空が赤く染まり、遠くで渡り鳥の影が列をなしていた。
――ひかり。
ちゃんと、見てくれてたかな。
俺たち、ここまで来られたよ。
その夜、校庭では文化祭の後夜祭が開かれた。
紅葉の葉が地面に積もり始めた中、生徒たちは小さなランタンを灯し、空を見上げながら語り合っていた。
「なあ、ひかりがいたら、絶対文句言ってたよな。『このランタン、風情ないね』とかさ」
「言いそう。……でも、笑ってたと思う」
「うん。たぶん、“よかったね”って、あの声で言ってくれる」
小さな炎のひとつひとつが、まるで彼女の分身のように揺れていた。
秋の風がやさしく吹き抜け、空には満月が浮かんでいた。
そして彼らは、また一歩前へと進んでいく。(了)
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
本作は、喪失と再生をテーマに「青春の一幕」を描こうとしたものです。
登場人物たちは、未熟で不器用で、答えを持たないまま迷い続けます。
けれども、そんな姿こそが青春の真実であり、またそこから生まれる小さな一歩が未来につながっていくのではないか――そう信じて、この物語を綴りました。
読み終えた今、もしもあなたの胸に浮かぶ名前がひとつでもあるなら、その人との時間を大切にしていただけたら嬉しく思います。
そしてこの作品が、あなた自身の物語を振り返るきっかけになれば、作者としてこれ以上の喜びはありません。