第8星話 シラノ•ド•ベルジュラックの星 前編 【世界で最も愛された物語 世界で最も美しい物語】
リパ星には美女がいた。名はロクサーヌ。顔は大輪の花のよう。その瞳は星の煌めき。その姿振る舞いは、一点の汚れなく優雅に飛ぶ白鳥を思わせるのだった。星中の男性の憧れの的であった。ロクサーヌはその美貌に人として持てる資産を全て使い果たしていた。頭の方は完全に残念であった。
この星にはまた、美青年がいた。名はクリスチャン。明るく朗らかな性格でありながら、どこか物憂げな青い瞳。繊細な金髪巻毛。スラッとした手足の完璧な挙措。星中の女性の憧れであった。こちらも頭は徹底的に駄目であった。
美女ロクサーヌと美青年クリスチャンは恋人同士だった。星中から羨ましがられる二人であった。
美女ロクサーヌと美青年クリスチャンには、共通の幼馴染み、親友がいた。名をシラノ•ド•ベルジュラックという。
シラノは誰よりも頭脳明晰、そして誰よりも気高く高貴な心を持っていた。しかしその顔は残念であった。もう一つ、シラノは、誰よりも大きな、星1番の…………を持っていたのである。
「シラノ、お願いだ、聞いてくれ。僕の頼みを」
リパの星都にある静かな酒場。奥まった卓で向かい合っていたのは、星1番の美青年クリスチャンと、その親友シラノであった。
「なんだい、クリスチャン。君の頼みなら、何でも聞くよ」
シラノは、滓取り酒を口に含む。強い酒だ。それは舌よりも脳を刺す。
目の前のクリスチャン。悩んでいる。焦燥している。どうしたんだろう。
「ロクサーヌのことなんだ」
クリスチャンはやっと言って、言葉を切る。
シラノはまた、滓取り酒を口に含む。もう何度目だろう。目の前の親友クリスチャンからその名を聞くと、胸に何かが刺さる。いや、何が刺さるのかは、自分がとっくに知っているんだ。
「ロクサーヌが……僕と、どうあっても結ばれたい、そう言うんだ」
クリスチャンが首うな垂れる。
シラノはさらに滓取り酒を……いや、やめておこう。
結ばれる? ロクサーヌとクリスチャンは恋人同士だ。恋人同士で……するのは……法的にも、倫理的にも、道徳的にも、何の問題もない。そもそも、この2人は、まだ結ばれていなかったのか。なぜだろう。
クリスチャンの懊悩。手に取るようにシラノにはわかる。そもそも、自分を隠せるような男ではないのだ。
美青年の金髪の巻毛が震える。
「前からなんだ。ロクサーヌはずっと前から、僕と結ばれたい、そう言ってきてたんだ。でも僕はいろいろ理由をつけて、逃げ回っていた。まだできないって。でも、もう限界なんだ。これ以上逃げていたら、ロクサーヌは、もう、僕の前から、去ってしまうだろう」
シラノは滓取り酒のグラスをじっと見つめる。星1番の美女と結ばれることから逃げまわる男。いったいなぜ。
「その……別に逃げ回らなくたっていいんじゃないか? 結ばれちゃえばそれでいいんだろう?」
「駄目だよ!」
クリスチャンは声を張り上げる。
「絶対に駄目なんだ。それをしたら、終わりだ。……」
「……なんで?」
「シラノ!」
クリスチャンの目は必死だった。
「君とは子供の頃からの付き合いだ。知っているだろう? 僕の…………が、どうしようもなく不甲斐なく、残念だってことを」
「……それ、なにか問題なの?」
シラノは滓取り酒のグラスを揺する。
「問題だよ!」
クリスチャンの声は、悲痛な色を帯びる。
「もし、僕とロクサーヌが結ばれたら、ロクサーヌが僕の…………の真実を知ったら、そうしたら……きっとロクサーヌは僕のことを笑って、馬鹿にして、蔑んで、そして、永久に僕の前から消えてしまうんだ」
シラノは、この親友が…………のサイズことでずっと劣等感を感じていたのは知っていた。しかし、それほど大事になるのか?
「そうかな。ロクサーヌはそんな子じゃないと思うけど」
「ああ、シラノ!」
クリスチャンは、目に涙を浮かべている。
「君にはわからないんだよ。僕の気持ちなんて。だって君はあんなにも立派な…………をしているんだもの」
「クリスチャン」
シラノは、グラスを回す。
「立派……それは否定しないけどね。だけど、君が思うほど、いい事はないんだよ。いや、全く何もいい事はないと言っていい。ただ、みんなに珍しがられるだけのことさ。これまでこれでいい想いをしたことなんて、1度もないよ」
「ああ、シラノ、どうか、僕を苦しませないでくれ」
クリスチャンは卓に突っ伏す。
シラノには、微塵も親友を苦しませるつもりはなかった。親友は自分自身で苦しんでいたのだ。これはどうすれば立ち直れるのだろう。友人思いで頭脳明晰比類なきシラノにも、わからなかった。
「シラノ」
やがて、クリスチャンが顔を伏せたまま、低い声でいった。
「頼みがある。親友としてだ」
シラノは、妙な胸騒ぎがした。
クリスチャンは顔を上げ、続ける。
「僕の代わりに、ロクサーヌと結ばれてくれ」
シラノはグラスの滓取り酒をぐっと飲み干した。
そして言った。
「はあ?」
やばい。なんなんだ、これは。滓取り酒の見せる幻覚か? そうであって欲しい。
しかし、それは幻覚ではなくーー
「ロクサーヌと結ばれて欲しいんだ」
クリスチャンはきっぱりと言った。
◇
「あの、クリスチャン」
しばしの沈黙の後、シラノは言った。
「君は何を言ってるのかな?」
滓取り酒を追加したかった。喉が渇く。
「言葉通りの意味だよ」
クリスチャンは真剣だった。というよりも切迫していた。
「僕じゃロクサーヌと……幸せに結ばれることができない。でも、君ならできる。だから、結ばれるところだけ、君に代わりをやって欲しいんだ」
「結ばれるところだけ? 代わりをする?」
シラノは反芻する。
「ダメだ。もうわけわからないよ」
「ちゃんと話すよ。これは、僕は考えて考えて考え抜いて出した結論なんだ。こうするしかないんだ」
クリスチャンは身を乗り出す。洒落や酔狂で言っているのでない事は、わかった。シラノは思わず身を引いた。
「こういうことだ、シラノ。これ以上逃げ回る事は無理だ。そこで、ロクサーヌと結ばれることを承諾する。でも、僕じゃ……彼女を失望させるだけだ。何せ、僕の…………ときたら、徹底的に残念だからね。そこで、彼女に言うんだ。結ばれる時、見られるのは恥ずかしい。だから目隠しをしてくれと」
「目隠し?」
シラノの声が上ずる。いきなり最初から、そういうプレイをするんだ。
「そう。目隠しだ。ロクサーヌに、しっかりと目隠しをしてもらう。そして僕が声をかける。来たよ、さあ、始めよう、と言って彼女にベッドに横になってもらう。そうしたら、僕の後ろからこっそり入ってきた君が、ロクサーヌと結ばれる。彼女の耳元で囁くのは、僕の役割だ。これで、すべて上手くいく」
「聞かなかったことにするよ」
シラノは言った。
「君は自分が何を言っているのかわかってるのか? ありえないよ、そんなこと」
「シラノ!」
クリスチャンは悲痛。
「僕たちは、親友だよね!」
「うん。親友だよ。だから、親友の名誉のために、聞かなかったことにする、そう言ってるんだ」
「ああ……どうして?」
シラノは頭がグチャグチャになりそうなのを、必死に抑えていた。
「あの、クリスチャン、はっきり言うよ。君のしようとしている事は、明らかに犯罪だ。それはわかってる? 法的にというより、倫理的に、大きな罪を犯すんだ。親友を犯罪者にすることなんて、できないよ」
「犯罪者」
クリスチャンは、蒼白になっていた。
「いいんだ。僕はそれで。そうだ。このまま何もできずに、ロクサーヌに捨てられると言うなら、それは名誉も、僕の心も、全て失うということだ。犯罪者、その汚名が僕が僕を守るために踏み越えねばならぬ一線だというなら、受け入れようじゃないか。犯罪者、いい響きに聞こえるよ。名誉のための犯罪者だ」
「……うーんと、もう一つ。君の計画を実行に移した場合、この僕の立場はどうなるかな? 君が犯罪者になることを受け入れる。それはいいとして、僕はどうなる? 僕は明らかに犯罪の共犯者、というより主犯というべき立場になると思うんだけど。それについてはどう考えてるの?」
「シラノ、君は、誰よりも気高く、高貴な心の持ち主だ」
クリスチャンの目はギラギラとしていた。
「いいかい、これには、1人の男と、1人の女の、全てがかかってるんだ。そして、その男と女と言うのは、君の親友であるんだ。ロクサーヌは僕を愛している。間違いなく。僕と結ばれなければ、ロクサーヌは全てを失うこととなる。そして僕も同じだ。さあ、シラノ、言ってくれ、君の高貴な心は、どう判定するのだろう。幼い頃から、ずっと一緒だった親友を、助けるのか、それとも見捨てるのか?」
「あの……もちろん見捨てないさ。いろいろ話はわかったけど。ただその、仮にこの話を僕が引き受けたとして、その、どう考えてもずっと続けるってわけにはいかないと思うんだ。いずれ……家庭とか子供とか、そういう段階を考えなきゃいけないから、そうなったらどうするの?」
「そんなことは、問題じゃない!」
クリスチャンは叫んだ。
「僕は、僕は、真剣に、本当に真剣に、ロクサーヌを愛しているんだ。愛、これは純粋な愛なんだ。本物の。愛以外何もないんだ。子供だとか、家庭だとか、そんなことじゃないんだ。この愛を、僕は全うしたい。それだけなんだ!」
「滓取り酒をくれ」
シラノが、ウェイターを呼ぶ。
「クリスチャン、君は飲む?」
「いいや」
クリスチャンは、がっくりと、首うなだれていた。
滓取り酒が来た。
シラノはグラスを傾ける。全く酒の味はわからなかった。水にしか思えなかった。
考える。いや、考えるまでもなく、バカバカしい、すぐにも却下すべき話だ。でも。クリスチャンは真剣だ。確かに、人生の全てを懸けている。それは間違いない。
この話、まったくの戯言として、却下していいのだろうか。シラノは慎重に吟味する。ロクサーヌ。星1番の美女。美青年クリスチャンはお似合いに見えたが、1つ大きな問題を抱えている。いや、あの美女を前にしたら、誰だって完璧ではないだろう。しかし。クリスチャンとシラノ。2人なら。2人で足りないところを補い合えるなら、あの美女と釣り合える。そういうことではないだろうか。すべてはロクサーヌの美貌の重み、天秤を保つためには、どうすればいいか、そういうことなのだ。
いや。
シラノは滓取り酒を呷る。
いいわけだ。何を言ってもいいわけだ。シラノはロクサーヌを愛していたのだ。顔が残念な自分には、決して、届かぬ想いのはずだったのだが。
届く。結ばれることができる。
そうだ。これは運命なのだ。美の女神ロクサーヌが、シラノとクリスチャン、2人の青年に、微笑んでいるのだ。そう考えるしかないのだ。
「わかった、やるよ」
シラノは言った。
◇
「ああ、クリスチャン! 恥ずかしがりやのクリスチャン! とうとう私と結ばれることを承知してくれたのね!天にも昇る気持ちよ!」
星1番の美女ロクサーヌは頬を薔薇色に染めていた。
「さ、これをつけて」
緊張した面持ちのクリスチャンが、目隠しを取り出す。夜会での余興で使うやつだ。しっかりとロクサーヌに目隠しする。
ここはクリスチャンの館の寝室であった。ロクサーヌは、自分の館で結ばれたいと言ったのだが、クリスチャンが、どうしても慣れた寝室でなきゃ嫌だと言って、こちらにしたのである。親友を隠しておくためには、自分の館でなくてはならない。
「私のクリスチャン、もう、本当にあなたって恥ずかしがり屋さんなんだから。私はすっかりあなたのものなのよ。結ばれる時見られるのが恥ずかしいから目隠ししてくれって。そんなに恥ずかしがらないで」
ロクサーヌのうっとりとした声。クリスチャンは緊張している。
「いいかい、ロクサーヌ、絶対にその目隠しをとっちゃ、だめだよ」
「どうして?」
「魔法が解けちゃうんだよ」
「まあ、王子様、魔法が解けると、あなたはいったいどうなっちゃうの?」
「解いちゃダメなんだ」
ロクサーヌは、ベッドに横たわった。
誰しもが陶然となる美の女神の寝姿。
寝室のカーテンがゆらりと、揺れた。現れたのはシラノ。
クリスチャンは、シラノに、頷く。寝室に2人の男がいることに、ロクサーヌはまるで気づいていない。
星1番の美女の耳元でずっと囁いていたのは、クリスチャンであった。
シラノは、ロクサーヌと結ばれた。
(第8星話 シラノ•ド•ベルジュラックの星 後編 に続く)