第9星話 ネコの星 【ハードボイルドの原点】 【作者のオススメ★★★★★】
小型宇宙船ストゥールーン。宇宙の放浪者である17歳の少女エリクの愛機。
地表ギリギリの低空飛行をしていた。この星に着いて、すぐその足で、行くところがあるのだ。
緑の草そよぐなだらかな丘陵の上を、ストゥールーンは軽やかに飛んでいく。
いい天気だった。青い空。雲一つない。まぶしい陽の光がいっぱいに降り注いでいる。一人乗りの小さな船の狭い操縦席。
「ちょっと暑苦しいな」
エリクはハッチを開ける。ハッチというのは、操縦席を覆う透明なドーム状の蓋である。
「ふう、気持ちいい」
風が操縦席を吹き抜け、エリクの頬を撫ぜる。少女は瞳を閉じる。
暑苦しく感じたのは、密閉された操縦席の狭さだけが原因ではなかった。
エリクの服装。
黒の中折れ帽。黒のトレンチコート。黒の手袋。黒のネクタイ。黒のブーツ。
およそ、暖かく柔らかい陽射しと緑豊かな大地には似つかわしくない格好。
だが。
陽射しも風も緑も関係ない。
この服装でなければ、どうしてもダメなのだ。
エリクの瞳が光る。やわらかで暖かな光と風のその世界に、似つかわしくない冷たい光。
ハッチを開けて地表飛行する船。
風が本当に気持ち良い。エリクはまた瞳を閉じ、座席に凭れる。ハッチを開いての飛行。こんな天気の日には最高だ。しかしこれをやると、時々問題が起きるのだ。操縦席に、鳥や虫や、はては蛙にモモンガまでもが飛び込んでくるのだ。
ドサッ、
飛び込んできた。
エリクは、跳ね起きる。かなり大きい。
「ええっ!」
少女の胸に乗っていたのは。
黒猫だった。
かなり大きい。そしてでっぷりと肥っている。大型種の黒猫。野生では見られない突き出た腹。食餌を間違えた飼い猫のパターンだ。
「こんにちは」
黒猫が言った。
黒猫は、明るい陽差しの下、最大限目を細めている。
エリクは、目をぱちくりする。
「重いぞ」
自分の胸の上に座る肥った大型猫に、やっと言った。
「僕も同じ方向に行くんだ。乗せていってくれ。旅は道連れって言うじゃないか」
黒猫は言った。ごく当然、と言うように。
エリクは黙って、黒猫を、なるべく重くない位置に動かす。黒猫の艶々した毛皮は、フカフカの、モコモコだった。右の前足がキラリと光る。黒猫は、右の前足に、腕時計をしていた。
猫が船に飛び込んできたなんて、初めてだ。それも腕時計をしている猫。
緑の大地の上を、船は飛んでいく。
「君の名前は?」
黒猫が言った。
「エリク。君の名前は?」
「名前は、無い」
「つけてあげようか」
「いらない」
しばしの沈黙。
「エリク、君は、なんでそんな暑苦しい格好しているの?」
黒猫が、エリクの黒ずくめの服装を興味深そうに眺める。
「君はなんでフカフカのモコモコなの?」
エリクが逆に訊く。黒猫は答えない。
「もうすぐだ」
黒猫が、前方を指差す。
「ここをずっと行くと、ダルトンさんの家がある。そこで、降ろしてくれ」
「君は、ダルトンさんの家に行くんだ」
「そう」
「私も、ダルトンさんの家に行く」
一瞬、間をおいて、
「エリク、君はなぜダルトンさんの家に行くの?」
黒猫が訊く。
「いえない」
エリクは応え、逆に訊く。
「君は、なぜダルトンさん家へ行くの?」
「いえない」
黒猫は答えた。
◇
まもなく、船はダルトンの家に着いた。ダルトンの家。それほど大きくはないが、瀟酒で、しっかりと造られた家だった。
玄関の前に、船を停める。
黒猫は、飛び降りた。
エリクは、肩から鞄を下げると、船を降りる。
玄関の前で。
エリクは服装をチェックする。よし。問題ない。呼び鈴を押す。そして、両手をコートのポケットに突っ込んだ。
「誰かね?」
家の中から声がし、扉が開く。
現れたのは、白髪をきれいに撫でつけた初老の男性。白いシャツに、黒のチョッキ。ブラウンのズボン。シャツの袖の大きな金色のカフスボタンが目を惹いた。
男性は、柔らかく暖かな風と光と緑の中から現れた、少女と黒猫の2人組を前に、しばし立ちすくむ。
エリクの服装。黒の中折れ帽に黒のトレンチコート。黒ネクタイに、黒のブーツ。両手をポケットに入れて。連れているのは大きな黒猫。黒ずくめの来訪者。
「バージェスさんの所から来ました」
エリクが言った。こう言えばわかるはずだった。
「ダルトンさんですね?」
「さよう。わしがダルトンじゃ」
ダルトンは、仔細に黒ずくめの来訪者を検分し、
「せっかく来てくれたのじゃ、さ、お入りなさい」
中へ案内する。
明るく、気持ちの良い室内だった。開いた窓から、爽やかな風が吹き来こむ。
落ち着いた木目の卓。エリクは椅子に座る。座るときには、もちろん両手をポケットから出した。黒い手袋。ダルトンは、手袋まで黒だったことに、特に驚く様子は無い。黒猫は、エリクの隣の椅子にちょこんと、いや、ドサッ、と座る。
エリクは、座っても、コートも、帽子も、手袋も脱がない。鞄を、空いてる椅子の上に置く。
「何か食べるかな。お嬢さん。今ちょうど、チェリークリームのサンドイッチがあるが、お好きかな?」
「大好きです」
「それはよかった」
ダルトンは、顔をほころばせる。
「では、用意しよう。飲み物は何がいいかな?」
「ミルクティーを」
ダルトンは、黒猫の方へ目をやる。
「ええと、ネコ君も、バージェスさんの所から来たのかな?」
黒猫は黙っている。
エリクが言った。
「違います。その猫とは、ここへ来る途中で、一緒になったんです」
「そうか。ネコくんは、どうする? 何かご所望はあるかな?」
「オレンジジュースを」
黒猫が言った。
ダルトンは、準備をする。
ミルクティーを淹れ、美しい文様の皿にチェリークリームのサンドイッチを盛ってエリクの前に置いた。
そして、冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を取り出し、食器棚から、きれいな皿を取り出してーー
「カップでください」
黒猫が言った。
ダルトンは、皿を戻し、カップを取り出し、オレンジジュースを注ぎ、黒猫の前に置く。
エリクは、手袋をしたままサンドイッチを食べ、ミルクティーを啜る。
黒猫は、カップのオレンジジュースを、うまそうに舐めていた。
ダルトンは、自分で大きなカップいっぱいに淹れたコーヒーを、ゆっくりと口に運んでいる。
3人とも無言だった。
やがて、エリクのサンドイッチの皿とミルクティーのカップは、綺麗になくなった。
黒猫のオレンジジュースは、まだ半分ほど残っていた。ダルトンのコーヒーは、あまり減っていない。
「エリク、君は、もう帰るんだ」
黒猫が言った。少女のほうは見ずに、じっとダルトンを見つめたまま。
「ありがとう、エリク。本当に助かったよ。僕のご主人様は病気でね、本当にギリギリの状態で、僕をここに送り出したんだ。やっとの思いだったんだよ。だけど、この肝心なところで、僕は道に迷ってしまってね。間に合わないかと思ったんだ。でも、君のおかげで間に合ったよ。本当にこれは奇跡だ」
黒猫は、右の前足の腕時計を見る。
「そろそろ、僕のご主人様の命の灯が消える。だけど、まだ少し時間がある。大丈夫だ。さあ、エリク、この家を出て行ってくれ。船に乗ったら、すぐここを離れるんだ」
エリクは立ち上がった。鞄をまた肩から下げる。そして、玄関へ向かう。ダルトンは何も言わない。
「エリク」
エリクが扉に手をかけた時、黒猫がまた声をかけてきた。
「ここを出たら、決して振り返ってはいけない。とにかくすぐ離れるんだ。いいかい、一度でも振り返ったら、石になってしまうぞ」
エリクは、家を出る前に、一度だけ振り返った。
黒猫は、相変わらずじっとダルトンを見つめていた。ダルトンは。いったい
何を見ているんだろう。
ダルトンの家を出たエリクは、愛機ストゥールーンを発進させる。
「いいのかい?」
座席の脇に置いた鞄の中から、声がする。そして、もぞもぞと、中から、短い手足のついた黒い箱が現れる。エリクの相棒のおしゃべり機械、万能検査機だ。
「いいって、なにが?」
「あの猫に任せてさ」
万能検査機は、電光板を、赤と黒にチカチカ点滅させる。
「問題ないよ」
エリクは言った。
ストゥールーンを少し飛ばしたところで。
背後から爆音がした。爆風。ストゥールーンのハッチは開けてある。強風が船を追い抜いていく。
「終わった」
万能検査機が言った。
「あの家は吹っ飛んだ。人間の生命反応は消えた。ダルトンは死んだよ」
エリクは振り返らなかった。振り返ったら石になるという話を信じたわけではなかった。ただ、見たくなかったのだ。
あの黒猫は、自律制御型爆弾ロボだったのだ。
◇
2日前。
宇宙を旅するエリクは、隣の星へ着陸し、バージェスさんの山小屋へ寄った。バージェスさんは、美しい老婦人だった。水と食料を分けてほしいというエリクに、老婦人は快く分けてくれ、これから渓流釣りに行くところだが、一緒に行こうとエリクを誘った。
「山あいの綺麗な川で、おいしい虹鱒が釣れるのよ」
エリクはありがたく申し出を受けた。
渓流沿いの山道を歩いている時、崖の上の方が崩れた。大きな岩石が落ちてきた。エリクはとっさに超駆動し、光の気で岩石を粉々にした。
「あ、あなたは」
エリクの力を見たバージェスは、震えた。
「なんという……なんという……あなたは、きっと間違いなく神から遣わされた……」
老婦人は、エリクにすがりついた。
「お願いです。あなたならできます。知っていますか? ダルトンを。列車爆破強盗、銀行爆発強盗で知られる、殺人鬼です。恐ろしい男、冷酷な男です。大勢の罪のない人が、あの男に殺されました。私の息子もダルトンに殺されたのです。ダルトンは隣の星にいます。でも、私には何もできないのです。ずっと祈っていました。そうしたら、あなたが現れたのです。殺してください。ダルトンを殺してください。あなたなら、できます」
「宇宙警察に通報してみては」
「だめです」
バージェスは首を振った。
「この星系の宇宙警察は、腐敗しています。たとえ宇宙警察の連合本部に通報したとしても、ここの警察が、こっそりダルトンに情報を流し、逃してしまうでしょう。そして、金を取るのです。ここはそういうところなのです。だからダルトンのような者が、堂々と生きていけるのです。しかし、終わりにしなくてはなりません。誰かが裁かなければならないのです。どうか、私の頼みを聞いてください」
エリクは、この依頼を受けた。もう虹鱒どころではなかった。
そして、ダルトンの家に行ったのだった。
◇
「しかし、すごい偶然だね。同じ日に、別の誰かもダルトンに刺客を差し向けるなんて」
万能検査機が言う。
エリクは座席に凭れ、空を見上げる。相変わらず、燦々と光が降り注いでいる。
「それにしても、酷い自律制御型爆弾ロボだったな。道に迷ったとか、それだけじゃなくて。よくあれで人が殺せると思ったな」
「殺せたじゃないか」
と、万能検査機。エリクは、かぶりを振る。
「私がいたからだよ。あの猫だけだったら、とてもダルトンの敵じゃなかった。私を見て、もう勝てない、終わりだと、ダルトンは悟ったんだ。それで、あの猫に殺されるのを、受け入れたんだ」
「結局、君は殺さずにすんだね」
「うん」
エリクは頷く。
「あの猫のご主人様って、今頃はもう、この世にいないのかな」
「そうだろうね」
「死の間際で、なんとしてもダルトンを殺そうと、あの自律制御型爆弾ロボを作ったんだよ。いい出来じゃなかったけど、奇跡が起きて、あの猫がダルトンを殺したんだ。何が起きるか、わかるものじゃないね」
「そうだね」
「バージェスは、ダルトンを殺したのが、自分の刺客じゃなくて、がっかりするかな?」
「しないさ。バージェスさんは、とにかくダルトンが死ねば、それでよかったんだ。誰が殺したって、同じさ」
しばしの沈黙の後。
エリクは、黒の中折れ帽、黒のトレンチコート、黒の手袋を脱ぎ、黒のネクタイを外すと、全部船の外に放り投げた。
「だめだよ、エリク、犯行現場に証拠をバラ撒いたりしたら」
「私は何もやってない。もう、全部、終わったんだ」
エリクは、うーっと、背伸びをする。
「やっぱり、殺しの依頼なんて、受けるもんじゃないな」
「どうして? 無抵抗な相手を殺すのが嫌なの?」
「そうじゃない。殺せなかった時、自分はなんて弱い人間なんだ、って落ち込むからさ」
「エリク、君は結局、何のプロにもなれないんだね」
風が強くなってきた。
「ハッチを閉めるよ」
エリクは言った。
「また何か飛び込んできたら、大変だ」
◇
星から星へ。
エリクの旅は続く。




