[個別エピソード:クロハ2]
クロハは夜になっても目覚めなかった。傷は完全に癒えているはずだが、まだどこか問題があるのだろうか。ユウリは不安になって、クロハの眠るベッドから離れられずにいた。
側に椅子を置いて、座る。ときどき立って顔を覗き込んでみる。頬をつついてみる。声をかけてみる。何をしても反応はない。脈は…あるな、よし。
脈をとる為に握っていた手がピクリと反応した気がして、ユウリはもう一度クロハの顔を覗き込み、名前を呼んだ。
するとわずかな身じろぎの後に仮面の奥でクロハのまぶたがゆっくりと開き、青い眼がユウリを捉える。
「……ん…。ユウリ…?」
ああ、なんだ。綺麗な目じゃないか。どこまでも深い海の神秘を思わせるような、飲み込まれそうな群青色の瞳。どんな時でも…自分が瀕死であったとしても、当然のことのようにユウリを守ってくれた、優しい人の目だ。
「クロハ…よかった、本当に…生きててくれて良かった…」
抑えていた気持ちがあふれて、ユウリはまた涙を流した。こぼれた涙がぽたぽたとクロハの顔にかかってしまい、慌てて身を引こうとしたユウリをクロハが抱き寄せた。驚いてガチガチに固まったユウリだが、やんわりと押し付けられた胸から伝わってくる規則的な鼓動が、気持ちを少しずつ落ち着かせていく。
「…嫌でなければ、このまま聞いてほしい」
いつものように冷静で、落ち着いた低い声。…嫌なわけがない。クロハの側が最も安全な場所であり、クロハの腕の中が最も安心できる場所…そんなふうにさえ思えた。ユウリがすっかり身を委ねたことを確認して、クロハは話を続ける。
「俺が死んでも、悲しむ人など居ないと思っていた」
…?そんなはずはないだろう。クロハは多くの人から頼りにされているだろうし、ウルムなんてすごく慕っているじゃないか。クロハの腕がほんの少し朽木化しただけでこの世の終わりのような顔をしていたはず。
「俺が生まれたことを喜ぶ者は居なかった。俺は存在してはいけなかった」
何を言っているのかわからない。ユウリの背中に回されたクロハの腕は微かに震えている。何がそんなにも彼を追いつめているのか、どうしてそんなに寂しそうな顔をするのか…わからない。
「…だが、お前は必死になって俺の死を拒み泣きじゃくって、生きていて良かったと言ってまた泣いた。…それが、たまらなく嬉しい」
抱き締める腕にぎゅうっと力がこもる。それは温かな抱擁などではなく、まるで縋りついているかのようで…なんだか胸が苦しくなる。
「お前が必要としてくれるなら…。お前の側でなら、俺は生きていて良いのだと思える」
そんなの、当たり前なのに。ユウリだけじゃない、クロハを必要とする人なんていくらでもいるはず。愛想こそないかもしれないが、それでも。誰より強くて、優しくて、穏やかで、頼りになって…それなのに。ああ、どうしてだろう。
クロハの青い瞳の奥には淀んだ孤独が見える。冷たく暗い、海の底…。
「あなたが大切だよ、クロハ。私がいるから…」
陳腐な言葉かもしれない。それしか言えなかった。少しでも彼を安心させてあげたくて、濡羽色の髪をそっと撫でる。クロハは少しだけ驚いた顔をした後、目を細めてユウリの手のひらに頬を寄せた。
「ありがとう、ユウリ。どうか、このまま…」
そうしてしばらく撫でていると、やがて安心したのか穏やかな寝息が聞こえてきた。クロハの腕は相変わらずがっちりとユウリを抱き締めたままであり、身をよじってみても一向に離れる気配はない。
…すっかり夜は更けているが、まさかこのまま寝るしかないんだろうか。




