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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

天使の遡上

作者: 十七二

「なんなんだ、お前……」


 仕事帰りのサラリーマンはマンションの階段を登っていた。エレベーターがすべて故障するという前代未聞の出来事のせいだ。


 残業終わりの疲れた体に、階段を一段一段踏みしめる行為は憎たらしいほど響いた。とはいえ、当然階段で寝るわけにもいかないから、体に鞭を打って、なるべく何も考えずに、蛍光灯の明かりだけを頼りに歩を進めた。


 だが、あと一階分登ればというところで彼の足は止まった。疲労のためではない。目を疑うものが眼前に現れたからだ。


 それは踊り場にこちらを向いて立っている。見た目は子供同然。短い黒髪と白いノースリーブのワンピースを纏っている。色白の華奢な手足に骨ばった肩はおよそ健康児とは言い難い。何より今は深夜。こんな時間に一人で階段の踊り場に突っ立っている子供がいるとあらば、なんであれ訝しむものだが、子供を想うという感情が湧き出てくることはなかった。


 子供がいる、という事実以上に、信じがたいものが()()()()()()()()


 それはまっさらな、いや、踊り場の電灯があるとはいえ、その明るさ以上に発光している、白銀に見紛うほどの翼だった。加えて子供の頭上にはリングが見える。翼以上に煌々と光を放ち、表情のない貌に影を落としている。


 要するに、天使、というものらしい。少なくとも彼の知識からその子供はそういうモノに見えなくもなかった。まるでお伽噺に合わせるかのように、よくできた出で立ちをしていた。


 そんな身なりだけでも彼が驚くには十分だったが、何より似つかわしくなかったのは、その両手に抱えられていた斧だった。


 子供が持つには明らかに重いであろうそれは、黒々とした斧腹と対照的なほど鋭く光る刃を備えていた。


 彼は目の前に立つ子供の異様さに疲れのことなど忘れていた。もうすぐ我が家だと、無意識に階数だけを数えながら登ってきた階段のことなどとうに頭になかった。


 ただ当然に、当たり前の疑問が口を突いて出た。


 けれど、まるで幽霊にでも話しかけているみたいに手ごたえがなかった。ショートヘアの隙間から見える耳が飾りでも驚かないほどに。しかし、声という波は奇妙なほど子供てんしに届いていた。


「御言葉です」


 スピーカーを通したような反響する声。いくら閉塞的な踊り場とはいえ、響きそのものが異質だった。確かに声は見た目通りの幼さを宿している。しかし、言葉の届き方はあまりに直接的で、口の形は音に合致しているはずなのに、話し手はそこにいないようだった。


「貴方は不要。以上」


 彼が告げられた声を飲み込む頃、子供は両手に抱えた斧を軽々振り上げた。蛍光灯に刃が反射し、さらに強く光る。


「は――――?」


 情けない声を出したことに、彼はなぜか気が付いた。けれど、同時に彼の視界は宙を舞っていた。自分の胴体が、首から上をなくして棒立ちしているのが見える。と思えば、視界は一瞬にして下を向き、登ってきた階段が視界に入った。鈍い音が頭の奥から聞こえてくる。


 切り離された頭部がボールのように転がる。けれどその様はボールより不器用だった。


 開き切った瞳孔が、未だ事実に気づかず直立する胴体を捉える。だらしなく両腕をぶら下げながら、針金で支えられているように立ち続ける足。頭部のないちぐはぐさが、寧ろその立ち姿に奇妙な平衡を与えていた。


 男の体の奥から天使が浮上する。接地していた足裏が、重力などなかったかのように離れた。この世の存在であることを示す影は、輪郭をぼやかしていく。


 やがて、天使の頭上に、踊り場の屋根が接近する。けれど、ぶつかることも阻まれることもなく、飲み込まれるように浮上を続けていた。


 男はとうに意識も人格も、頭部が転がるときにできた傷の痛みさえも忘れていた。自分のすべてが曖昧になっていたというのに、脳内で浮上する天使の有り様だけははっきりと捉えられていた。暗闇の中で唯一つ明かりをともし続ける火の玉が上昇する感覚を覚える。そして、焦点を合わせればその天使の顔も思い出すことができた。告げられた言葉すら忘れているというのに、最後に見たなんの貌もない顔だけがはっきりと見える。そして、いつまでも浮上が終わることはなかった。

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