300ークーファルの婚約 5
さて、続きだ。あのベタな出逢いに戻る。
二人は気付いていないが、この時書庫にはもう一人の令嬢がいた。
ルーナリア・オルディス子爵令嬢。
21歳で帝国アカデミーを卒業後、魔術師団に研究者として入団。
魔術師団と言えば、リリアスの師であり魔術師団副師団長のシオンが思い浮かぶ。
シオンや団長のウォルターは研究よりも実践を得意とする。実践と言っても戦う事のみを指す訳ではなく、実際に魔法を使う事だ。所謂、魔術師団の花形だ。
一方、研究者のルーナリアは魔力量や魔力の効率的な操作方法、魔道具の開発等を担当するどちらかと言うと裏方だ。
ルーナリアは、派手な攻撃魔法を得意としない。光属性も持っていない。魔力量も多い方ではない。
だが、魔法の未知の魅力に魅せられてこの道を選んでいた。
しかし、周りは才能の塊とも言える様な者ばかりだった。
魔力量も多くない、才能がある訳でもない、高位貴族でもない。
そんな少しばかりの嫉妬と、子爵令嬢と言う立場からの劣等感もほんの少し持っていた。
だが、今の仕事は好きだった。やり甲斐もある。
ルーナリアは裏方で、まだまだ小間使いの域を出ていないのかも知れない。それでも、素晴らしい才能を持った先輩達の役に立てる事が嬉しかった。
難関の入団テストをパスし魔術師団に入団出来た事自体が、優秀なのだと言う事を忘れてしまっていた。
ある日、たまたま先輩に頼まれた調べ物をする為にルーナリアが書庫にいた時だ。
書庫の脚立の上で夢中になって本を読むミリアーナを見た。そして、クーファルに抱えられるミリアーナを。
まるで1枚の絵画の様だった。2人の周りだけ別世界の様で、時が止まったのかとさえ思えた。
心の奥に仕舞い込んでいた嫉妬が少し顔を出す。それに引きずられる様に、劣等感も……。
その令嬢はまるで蝶の様だった。脚立から落ちた時、そのままフワリと飛ぶのではないかとさえ思った。
アッシュブロンドの手入れの行き届いたサラツヤストレートの髪に、アメジストの様な紫の瞳。仕立ての良いパステルカラーの春色のドレスがよく似合っている。
きっと高位貴族の御令嬢なのだろう。雰囲気も物腰も自分とは違う。
自分はくすんだブラウングレーの融通のきかない癖のある髪に、パッとしないカーキ色の瞳。低位の子爵令嬢だ。何もかもが自分とは違う。
自分の全てを否定された様な気がした。
そんな心に目をつけたものがいた事を、この時はまだ誰も気付かなかった。
それから、クーファルとミリアーナは度々書庫で居合わせる様になった。軽く挨拶をし、好きな書物の話をする程度にはなっていた。
約1年、そんな日々が続いた。
そして、クーファルの婚約者候補を選ぶお茶会が催された。
ミリアーナも侯爵令嬢として、招待された。皇后様からの招待状だ。行かない訳にはいかない。
だが、ミリアーナはリリアスが何度も言っている様に『軽いコミュ症』だ。
第2皇子殿下の、婚約者候補を選ぶ様な華やかな場は苦手だ。案の定、自分の気配を極限まで消しお茶会の会場の隅で静かにお茶を飲んでいた。
そんな、ミリアーナを陰から見つめる者がいた。ルーナリアだ。
ルーナリアは子爵令嬢。高位貴族とは言えない自分は呼ばれなかった。資格がないのだ。
お茶会に呼ばれたにも関わらず、隅で俯いて帰りたそうにお茶を飲んでいたのがディアーナの姉ミリアーナ。書庫でクーファルに抱えられていた令嬢だ。
お茶会に呼ばれたのに、資格があるのに、なんて事を! 嫌なら私にその資格をちょうだい!
ほんの少しの嫉妬と妬みを覚えた。でも、そんな事は忘れていた。
――と、思っていた。
今やクーファルに憧れない女性がいるのだろうか? と、言う程クーファルは女性から人気があった。
第1皇子フレイが婚姻した事もあり、貴族令嬢の目は今やクーファルに向いていた。
ルーナリアも類にもれず、城でごく偶に遠くにいるクーファルを見て胸を高鳴らせていた。
だが、特別執拗にクーファルを想っていた訳ではない。ただの憧れだ。自分は子爵家だ。分不相応だと分かっている。
――と、思っていた。
書庫の閲覧室で閲覧できる書物は全て複本。正本ではない。当然だ。
貴重な書物や古い書物もあるので、正本は書庫の奥にある保管庫に温度や空調まで管理されて保管されている。
しかし、たまたま運悪く一冊の正本が混じっていた。いや、混じっていたと言うよりも紛れ込んでいたと言うべきか。
その書物はいわゆる禁書。
しかも、永い永い時を光の神や精霊の目を掻い潜りひっそりと生き抜きこの帝国に潜んでいた禁書だ。
そう、自我がある。それは建国当初に逃げていた上位魔物の魂の欠片。それが630年間もの年月を掛けて少しずつ力を蓄えていた。
書庫に来る者の劣等感や嫉妬、妬み等の負の気持ちを養分にしながら。
……そして、時がきた。
最初はミリアーナに取り憑こうとした。が、ミリアーナは下位の回復魔法を使える程度の光属性の魔力を持っていた。
その上、クーファルが側にいた。光の神が加護を与える国の皇子だ。
――駄目だ。無理だ。危険だ……諦めよう。機会を待つのだ。
その時、同じ部屋の陰からこっそりと見ている女がいた。ルーナリアだ。
――少し魔力量に不安があるが、こいつでいい。こいつにしよう。負の感情も育ってきている。こいつなら簡単に闇に堕ちる。
それはルーナリアの身体にスゥ〜と染み込む様に入っていった。
そしてまた、時間を掛けて少しずつルーナリアの心を侵食していく。ルーナリア本人でさえ気付かない程少しずつ、だが確実に。
それはルーナリアの心に潜みながら様子を伺う。
――なんだ、いるじゃないか。嫉妬に嫉み、他者を陥れようとする心。他者を蹴落とそうとする心。630年ぶりに出てこれたんだ。先ずは小手調べだ。
クーファルの婚約者候補を選ぶ為の皇后主催のお茶会が開かれていた。そこで令嬢同士が喧嘩を始めた。
「何よ! 私が先に殿下とお話していたのよ!」
「違うわ! 私よ!」
「煩いわね! 私が先よ!」
高位貴族の中でも侯爵家以上の令嬢ばかりが呼ばれているお茶会だ。
高位貴族は教育も躾も厳しい。しかも皇后陛下の御前だ。なのに、何だ。この騒ぎは。
護衛をしていた近衛師団が制圧し、お茶会はお開きになった。
そのお茶会を離れた所からルーナリアが見ていた。薄らと笑みを浮かべながら。
――まあまあの成果だ。思ったより力が必要だった。この女の魔力量が多くないのが影響しているのか。それとも、やはり光の国の民だからか。もう少し試してみよう。
ルーナリアのカーキ色の瞳が陰っていく。まだ気付かない程度だが、確実に変化していた。